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第八話

 聡一郎が東條の家に終止符を打って、今日で何日目になるのだろう。  警察官に付き添われて留置所の廊下を歩きながら、聡一郎はぼんやりと考える。  きっと今頃、聡一郎が起こした蔵への放火がきっかけで、柚斗の存在も含め、東條の家は大いに世間を騒がせているに違いない。全てを失った聡一郎にとってはそのことも罪滅ぼしの一つになると受け止めていたが、気掛かりがあるとすれば、一人家に残されてしまった千夏と、施設に保護されたらしい柚斗のことだ。  二人はそれぞれ、今どんな思いで過ごしているのだろう。  聡一郎はいくらでも罪を背負う腹構えだったが、せめて子供たちには、この先平穏な生活を与えてやりたい。……そんな事を願うことすら、おこがましいのかも知れないが。  留置所に居ると日にちの感覚もよくわからなくなっていたが、柚斗は何年もの間、蔵の中でこんな感覚を味わっていたのだろうか。だとしたらこの状況もまた、柚斗へのせめてもの償いになるのかも知れない。  この日は、聡一郎の知人が接見を希望していると前もって聞かされていた。  形ばかりの当主だった聡一郎に、今更会いにくる知人など思い当たらなかったが、罵られることも覚悟の上で接見室に通された聡一郎は、アクリルの仕切りの向こうに座った相手を見て思わず立ち竦んだ。  艶やかな長い黒髪を綺麗に編んだ柚花が、ゆっくりと顔を上げ、聡一郎に向かって儚く微笑む。 「……柚花……」  生まれたばかりの柚斗を聡一郎に託し、姿を消したあの日から殆ど老けた様子もなく、変わらず美しいままのその姿に、聡一郎は立ち尽くしたまま呆然とその名を呟いた。  どうして今になって柚花が……と一瞬思った聡一郎だったが、考えてみれば報道が流れた時点で、柚花の耳に入っているのも当然のことだ。  東條家の息子として、真っ当に育てられていると信じていたであろう柚斗が、実は蔵に監禁されていたという事実も全て、柚花はもう把握しているだろう。それを知ったときの柚花の気持ちを思うと、聡一郎には彼女に合わせる顔など、あるはずがない。  澄んだ柚花の瞳を見ることが出来ず、ぎこちなく視線を落とす聡一郎に向かって、柚花が静かに口を開いた。 「顔を上げてください、聡一郎さん」  仕切りを挟んで、柚花の正面に置かれた椅子へ座るように促してくる優しい声も、昔と全く変わっていない。そのことが、一層強く聡一郎の胸を締め付けた。 「……君に、何と謝れば良いのかわからない」  椅子に腰を下ろした聡一郎は、膝の上で強く拳を握り込む。 「私がしたことは、君にもあの子にも、幾ら謝ったところで決して償いきれるものでは────」 「聡一郎さん」  眉を寄せて喉の奧から絞り出した聡一郎の言葉を、柚花が穏やかな声音で遮った。 「確かに、貴方が選んだ方法は間違っていたかも知れません。でも、貴方がずっと守ってくれていたから、あの子はとても優しい子に育っています」  まるで柚斗に会ってきたかのような柚花の口振りに、聡一郎は思わず顔を上げる。 「どうして、知ってるんだ……?」 「あの子が初めて発情期を迎えたとき……東條の家から逃げ出して来たところを偶然見つけたんです。一目ですぐにわかりました。……口許が、聡一郎さんにそっくりだったから」  聡一郎の顔を見詰めて、少しだけ眉を下げて微笑む柚花の笑顔は、こんな時でも聡一郎の心に微かな光を与えてくれるようだった。 「……そうか、君が守ってくれていたのか」  父子揃って柚花に救われるなんて、どんな運命の悪戯かと聡一郎の口からも苦笑が漏れる。 「あの子は、私よりも君にそっくりだよ。綺麗な髪も、整った目鼻立ちも、真っ直ぐで芯の強い性格も」 「柚斗、という名をあの子に付けてくれたのは、聡一郎さんでしょう? 私はあの子に名乗ることは出来なかったけれど、私の名前と同じ字を入れてくれたのだとわかって、とても嬉しかった」 「あのときの私には、そのくらいしか君への償いが出来なかった。……もっとも、折角君の字を貰ったのに、結果的に私は柚斗から人としての自由を奪ってしまったのだから、償いどころか罪の上塗りになってしまったけれど」  自身の言葉が、改めて聡一郎の胸に重く圧し掛かる。そんな聡一郎を見ていた柚花の顔からも、ふと笑みが消えた。大きな瞳が、物哀しそうに伏せられる。 「……私が小学生の頃、ある日突然、父が出て行きました」  これまで決して話そうとしなかった柚花の口から、唐突に明かされた彼女の過去に、聡一郎は「え?」と目を見開く。いきなり何故…、と戸惑う聡一郎の前で、柚花は伏目がちに続ける。 「それ以来、母と二人で暮らしていましたが、その生活はとても苦しく、私は中学を卒業してすぐにアルバイトを始めました。コンビニや新聞配達……雇ってくれるところなら、何処でも良かった。とにかく家計を支えることに必死でした。けれどそんな中、母もまた次第に家を空けることが多くなりました。家に居ない時間が徐々に長くなり、一日、一週間、一ヶ月……そして私が18になった頃、母ももう、家に帰ってくることはなくなっていました」  今の柚花からは想像も出来ない過去に、聡一郎は返す言葉すら見つけられず、黙って聞き入ることしか出来ない。 「それでも私は、利口で居ればその内両親が戻ってきてくれるのではと思い込んでいました。高校にも通えなかった私は、アルバイトの合間に図書館へ通い、少しでも知識を増やそうと、ありとあらゆる本を読みました。……心の何処かで、そんなことをしても意味がないことはわかっていたんです。でもそれを認めたくなくて、無我夢中で難しい本を沢山読んで────そして最初は小さなスナックを転々としていた私が辿り着いたのが、貴方と出会った高級クラブでした」  聡一郎がいくら尋ねても、柚花が自身の生い立ちを頑なに話したがらなかった理由が今漸くわかって、単純に「聡明な女性だ」などと思っていた自分の浅はかさが心底嫌になる。  Ωである彼女が、エリート階級御用達とも言われている高級クラブで働くには、相当の苦労があっただろうとわかっていたはずなのに、その苦労の生々しさを、聡一郎は全く理解していなかった。  そんな柚花へ、かつて軽率に家族について問うてしまったことを、今になって激しく悔やむ。あの時柚花は、どんな思いで聡一郎の言葉を受け止めていたのだろう。 『ただの「柚花」では、いけませんか?』 『ただの「お父さん」じゃ駄目なの!?』  二人の血の繋がりを感じずにはいられない柚花と柚斗の言葉が、聡一郎の脳内で響き合う。  かつて柚花が思い知らせてくれたはずなのに、結局柚斗に言われるまで、聡一郎はずっと、くだらないしがらみに捕らわれたままだったのだ。  押し黙って俯いたままの聡一郎に、柚花が再び微かな笑みを零した。 「あのクラブには昔から名家の方々も多く来店されていたので、聡一郎さんが東條グループを束ねる東條家のご当主だということは、早い時期に気付いていました。ホステスである私が、そんな貴方と深い繋がりを持ってはいけないことは充分わかっていたのに、私は貴方を拒むことが出来なかった。いつも何かを抱え込んで苦しそうにしている貴方の手を、振りほどくことが出来なかった。……今の聡一郎さんは、あの頃と同じ顔をしています」 「私が苦しむのは、自業自得だよ。……むしろそれが、今の私に課せられた最低限の義務だ」 「相変わらず嘘が吐けない貴方は、いつもそうやって、一人で抱え込んでしまうんですね……」  噛み締めるように呟いた柚花の大きな黒い瞳が、真っ直ぐに聡一郎の目を見据える。 「……実は昨日、私のところに西園寺家のご当主と、あちらが雇って下さった弁護士の方がいらっしゃいました」 「西園寺家の……? どうして、君のところに?」  突然挙がった西園寺の名を聞いて、聡一郎は眉を顰める。  柚斗の件は、香夏子にも非があるとはいえ、元はと言えば東條家の力に抗えなかった聡一郎の弱さが招いたことなので、捜査関係者にも柚花の名前は一切出していない。なのに何故、無縁なはずの西園寺家の当主が、柚花の存在を知っていたのだろう。 「発情しているあの子をうちで保護していたとき、あの子を迎えに来た若い青年が、西園寺と名乗っていたんです。ご兄弟のようで、迎えにきたのは弟さんの方でしたけど、あの子は彼のお兄さんに会いたがっていました」  そういえば、千夏の誕生パーティーの日以降、西園寺家の次男と三男である卓巳と龍哉が、度々東條家へやって来ていた。  千夏に会いに来ているという龍哉はともかく、何故いつも卓巳まで一緒について来るのかと香夏子が不満を漏らしていたが、まさか卓巳は、柚斗の存在に気付いていたのだろうか。  柚斗の発情に気付いて蔵に駆けつけたとき、既に何かが壊れかかっていた聡一郎は、柚斗のフェロモンに当てられていたのもあって記憶が曖昧だったが、よくよく思い返してみれば、あのとき柚斗は手にスマートフォンの様な物を握り締めていたような気がする。少なくとも、聡一郎が蔵へ届けさせたものではないのは確かだ。  夜になって蔵に戻って来たとき、柚斗は既に発情が治まっていた。柚花の元で保護されていたとしても柚斗の発情が治まることはないだろうし、柚斗が卓巳と接触していたのだとしたら、全て合点がいく。 「……私が、迎えに来た彼にあの子を託したんです。────私のように、後悔して欲しくなくて」 「柚花……」 「聡一郎さん。あの子が生まれる前、初めて二人で出掛けた海で、私が言った言葉を覚えていますか?」 「私に、『大丈夫』と言ってくれたときのことかな」  それ以外にも、柚花と交わした言葉は全て、聡一郎には昨日のことのように思い出せるのだが。 「そうです。あの日、私は貴方に言いました。貴方の苦しみは、私も一緒に背負う、と。……そしてそれは、貴方の罪もまた同じ」  柚花の目が、何かを決心したように、強い意思を灯して光る。 「……柚花、君はまさか────」  彼女は聡一郎の罪を半分背負おうとしているのだと悟って、聡一郎は思わず身を乗り出した。柚花には何の罪もない。愛しい我が子を、東條の家に奪われてしまったのだから。  そんな聡一郎の言葉を制するように、柚花が静かに首を横に振る。 「あの時、私があの子を手放さなければ、未来は違っていたかも知れません。貴方もこれほど苦しむことはなかったかも知れない。……母親として、あの子を守れなかった罪は、私も同じなんです」 「だけど、それじゃああの子は……柚斗はどうなるんだ……」 「────だからあの子のことは全て、西園寺家の方に託してきました。今の私に出来ることは、あの子の親として貴方と共に罪を背負い、それを償うことです。そしていつか必ず、父と母として、あの子に謝りに行きましょう」  いつかの海岸で見せてくれた笑顔を向ける柚花に、君は何も悪くないと伝えたかったが、その言葉を発する前に付き添いの警官から「時間です」と容赦なく接見時間の終了が言い渡された。  どうにかして柚花を制したかったが、互いを隔てるたった一枚のアクリル板は、まるで頑丈な要塞のようで、いくら手を伸ばしても決してその手は柚花を引き留められない。  警官に連れ出される形で接見室を出る際、閉まりかけた扉の向こうから、「大丈夫」と涙混じりの声が聞こえた。   ◆◆◆◆◆  窓の外から聞こえてくる、子供たちの賑やかな声に耳を傾けながら、柚斗は一人、広い部屋の片隅に座り込んで本を読んでいた。これまで何人に読まれてきたのか、本の表紙はすっかり色褪せ、ページも今にも取れてしまいそうだ。  そんな古ぼけた本や、くたびれてしまったぬいぐるみ、使い古されたオモチャなどが、此処には沢山溢れている。  柚斗の居場所だった蔵が燃えてしまったあの夜。そのまま病院へ搬送された柚斗は、幸い火傷などの症状も軽かったことから、二日後には此処、『ふたば寮』へと連れて来られた。 『ふたば寮』は、児童養護施設という場所らしく、此処には柚斗以外にも様々な事情で居場所のない子供たちが、大勢暮らしている。  病院へ運ばれたその日から、柚斗は連日警察から様々なことを聞かれ、知らなかったことを次々に聞かされた。  柚斗の父を含めた、東條家の人たちの名前。  柚斗の父親は東條聡一郎だが、その妻であり幼い柚斗にいつも怒鳴っていた香夏子とは、血の繋がりがないこと。  東條家の中で、柚斗だけがΩであること。  そんな柚斗を五歳の時から十一年間に渡り蔵に監禁していた聡一郎と香夏子は、監禁罪に加え、場合によっては保護責任者遺棄罪という罪に問われる可能性があるということ────  これまでずっとわからなかった自分の年齢が、こんな形でわかっても少しも嬉しくない。  確かに柚斗はこれまでずっと蔵での暮らししか知らなかったけれど、卓巳に出会うまで「監禁されている」という認識はなかったし、特に苦痛を強いられていたわけでもない。それなのに父たちが罰せられてしまうのかと思うと、まるで柚斗の方が酷いことをしてしまったような気持ちだった。  それ以外にも柚斗の知らない言葉や情報が数えきれないほど飛び込んできて、柚斗の頭は最早パンク寸前になっていた。  施設のスタッフたちは皆、そんな柚斗に敢えて何も聞かずに接してくれている。  衣服も、食事も、寝る場所も……それら全ても与えて貰える。  それに何より、此処には日中なら自由に出て遊ぶことが出来る、広い庭がある。蔵に居たときは卓巳の手を借りなければ出られなかった外の世界に、いつでも出ることが出来るのだ。  けれど、ずっと一人の生活に慣れていた柚斗は、訳も分からないまま突然連れて来られた見知らぬ場所で、知らない人たちに囲まれて過ごすという環境に、なかなか馴染めずに居た。  柚斗の置かれていた状況を理解した上で接してくれていた卓巳や龍哉とは違って、此処に居る子供たちは皆、柚斗の育った環境など知らない。ただでさえ世の中のことを全く知らない柚斗は、自分よりもずっと年下の子供とさえ、まともに会話が出来なかった。  その為、今日も部屋の隅で黙々と読書をして過ごしていた柚斗の頭上に、ふっと影が落ちた。 「おい柚斗。お前また今日も、朝飯食わなかったんだって?」  本のページから顔を上げた柚斗の視線の先で、『ボランティアスタッフ:御影悠(みかげはるか)』と書かれたネームプレートが揺れている。 「御影さん……」  彼────御影悠は、施設の正式スタッフではなく、ボランティアとして不定期で施設にやって来るスタッフだ。柚斗と同じΩということもあってか、悠は柚斗がこの施設に来たときから、何かと気にかけてくれている。 「……ごめんなさい」  施設の食事が口に合わないわけでは決してなかったが、環境に馴染めないこともあってなかなか食欲湧かず、柚斗はあまり食が進まない日が続いていた。折角用意して貰った食事を残してしまっている心苦しさから、再び顔を伏せて謝罪した柚斗の髪を、悠がくしゃりと掻き混ぜた。 「責めてんじゃなくて、心配してんだよ。お前、まだまだ成長期なんだからな」  苦笑交じりに言いながら、さり気なく悠が柚斗の隣へ腰を下ろす。  くだけた口調や親切なところが少し卓巳に似ていて、柚斗にとっても悠は一番話しやすいスタッフだった。……もっとも、同時にどうしても卓巳のことを思い出してしまって、胸が苦しくもなるのだけれど。 「そういやお前、引受人決まったんだろ? 今日の夕方に迎えが来るって、さっき施設長から聞いた」  引受人、という言葉に、柚斗の気分がまたズンと重くなる。  今から三日前、「柚斗を引き取りたい」という見知らぬ男性が施設へやって来た。見た目は少し怖そうな人だったが、その男性は柚斗が今後社会で生活出来るよう、まともな教育を受けさせてやりたいと申し出てくれた。  此処で暮らしている子供たちの大半は、そうした身元引受人がなかなか見つからず、柚斗よりもずっと長い期間、施設で生活しているのだとスタッフが話していた。そんな中、すぐに引き取って貰える先が見つかった上、世間知らずな柚斗がこれから外の世界で生きていく為の手助けをしてくれるというのは、有難いことこの上ない話だ。  だから柚斗はその申し出を受けると答えたのだが、いざその時が近付けば近付くほど、果たしてこれで良かったのだろうかという葛藤が、心の中に広がり始めていた。  父親を罪人にしてしまった柚斗が、本当に引き取って貰って良いのだろうか。その人にも、いつか自分は迷惑をかけてしまわないだろうか。……そうしたらまた、こうして一人になってしまうのでは…──── 「……本当は、まだ迷ってるんです」  ポツリと本音を零した柚斗の方へ、隣で悠が顔を向けてくる。 「引き取って貰えるだけでも充分有難くて、贅沢な悩みだってわかってるんです。でも、本当にΩの俺を引き取って、迷惑にならないかなって……」  閉じた本をギュッと胸に抱え込むようにしながら吐き出した柚斗の言葉を黙って聞いていた悠が、コツ、と後頭部を壁に預けて天井を見上げながら口を開いた。 「人の親切って、怖いよな」  てっきり諭すような言葉が返ってくるかと思いきや、予想外の返答に、思わず柚斗は悠の横顔を見詰める。 「いっそ『こうしたら、これをしてやる』って取引なら気楽だけど、相手にとって見返りのない親切って、すげぇ不安になる」 「御影さん……?」 「……俺な、お前くらいの歳まで、ずっとこの施設で育ったんだよ」  幾つも染みの出来た古い天井を眺めながら、唐突に切り出された告白に、えっ、と柚斗は目を見開く。 「生まれてすぐに施設の前に置いてかれて、当然親の顔も知らねぇし、名前だって与えて貰えなかった。……あ、言っとくけど、別に不幸自慢したいわけじゃねーからな」  慌てたように付け足して、悠が横目で柚斗を見ながら笑う。 「『なんで俺はΩに生まれたんだ』って、俺もずっと思ってた。此処の施設長からは、名前も、居場所も、俺にとって大事なヤツに出会うきっかけも、色んなモンを与えて貰った。……けどその反面、俺がΩに生まれなかったら、施設長は俺みたいな捻くれたガキの面倒みずに済んだんじゃないのか……俺はこの施設にとって負担になるんじゃないのかって焦りも、心のどっかで感じてた。施設長以外だってそうだ。誰かに親切にされるたびに、相手から何か奪っちまう気がして、いつも怖くなる。それが自分にとって大事な相手なら尚更だ」  言いながら、悠が自分の項へ軽く手を宛がった。そこにあるのは、αがΩに残す『番』の証──── 「……番ってても、怖いんですか?」  初めて会ったときから、柚斗は悠の項に刻まれた傷跡に気付いていたが、番の契約を結んだパートナーが居るなら、不安なんてものとは無縁なのだとばかり思っていた。  意外そうに目を瞬かせる柚斗に、悠は「怖ぇよ」と苦笑交じりに肩を竦める。 「多分俺は、この先もずっと怖い。Ωの俺が、いつかアイツの枷になるんじゃないかと思うと、不安で堪らなくなる」  でもな、とそこで悠は柚斗の方へ顔を向けて、少しだけ目を細めた。 「……自分にとって大事な相手と一緒に居られることは、その何倍も何十倍も、幸せなんだよ。だからどれだけ怖くても、一緒に居るんだ」  初めての発情期で、不安で怖くて堪らなかったとき、ずっと力強く柚斗を抱き締めてくれていた卓巳の腕の感触が蘇る。  怯える柚斗の心ごと、卓巳が全部一緒に抱えてくれたから、心も身体も満たされた。  それなのに、柚斗は大事なその手を、自ら振りほどいてしまった──── 「……手放しちゃいけないって、そういうことだったんだ……」  自ら救いを求めた癖に、いざとなったら怖がるばかりで、手を差し伸べてくれた卓巳の気持ちを考えることすら出来ていなかったことに、今になって漸く気付く。  ────会いたい。卓巳に会って、本当は離れたくなんてないのだと伝えたい。 「……っ、まだ……俺も、間に合いますか……?」  褪せた本の表紙に、ポタポタと涙が滴り落ちる。必死に嗚咽を堪えながら問い掛けた柚斗の頭を、悠の手が優しく撫でた。 「余裕だっつの。俺なんか、お前くらいの歳に道踏み外して、結構最近まで迷走してたんだぞ。……お前は俺と違って素直だから、そうやって思ってること全部、相手に伝えりゃいいんだよ」  休日の朝。  遅い時間にノロノロとベッドから這い出した卓巳は、床に脱ぎ散らかした服も気にせず踏みつけて、気怠い足取りでダイニングへと向かった。  キッチンに無造作に置いたままの食パンを一枚取り出してそのまま齧り、グラスにアイスコーヒーを注いでテーブルにつく。そこにも昨晩空けたビールの缶がいくつも散らばっていたが、見なかったことにして卓巳はテレビの電源を点けた。  その直後、画面いっぱいに見覚えのある家の塀が映し出されて、卓巳は「またかよ」と小さく舌打ちする。  ここ最近、テレビやネットでは連日同じニュースが流れていた。────「東條聡一郎『容疑者』と、その妻・香夏子『容疑者』」のニュースだ。  卓巳が最初にこのニュースを見たのは発情期を迎えた柚斗と身体を重ねた、その翌朝のことだった。  目を覚ました卓巳の隣に柚斗の姿はなく、代わりに寝室には切り落とされた柚斗の長い黒髪と、そして唯一柚斗と繋がる手段だった携帯だけが残されていた。  帰り道などわかるはずもなく、金銭だって持っていないであろう柚斗が、どうやって東條の家まで帰りつけるというのか。   折角この腕に抱いて眠れたと思っていたのに、どうしてこうも上手くいかないんだと、またしても自暴自棄になりかけていた卓巳の元へ、動転しきった龍哉から「今すぐテレビ点けて!」と電話が掛かってきた。  それどころじゃないと苛立つ卓巳の声を無視して急かす龍哉に、渋々テレビの電源を入れた卓巳は、画面に映し出された東條家の門扉を見て、携帯を片手に思わず凍り付いた。 『十一年間に渡り、自宅の敷地内の建物に子供を監禁していたとして、東條聡一郎容疑者と妻の香夏子容疑者が逮捕されました。東條聡一郎容疑者は、自ら監禁していた建物に火を放ったとみられ、証拠隠滅を図った可能性もあるとして────』  画面の中で、キャスターが淡々と原稿を読み上げる。チャンネルを変えても、ニュース番組では皆同じ内容が報道されていた。  幸い、『子供』と伝えられている柚斗の身は無事なようだったが、卓巳が眠っている間に、東條の家で一体何が起こっていたというのだろう。  この一件で柚斗が東條の家から解放されたのは間違いないが、こんな方法で自由にしてやりたいと思っていたわけじゃない。暮らしていた場所も、父親も、全てを失ってしまった柚斗は一体今、何処に居るのだろう。  少しでも何か柚斗に関する情報は得られないかと、卓巳は焦る気持ちでその日の内に東條の家に駆けつけたが、家の前には多くの報道陣が詰めかけていた上に、捜査中の敷地内には当然立ち入ることは出来ず、そんな日々がもう何日も続いていた。  龍哉が、卓巳の代わりに迎えに行ってくれた、柚斗の母親らしきΩ女性のアパートも何度か訪ねてみたのだが、どれだけ扉を叩いて声を掛けても、彼女が出て来る気配はなかった。  柚斗に持たせていた携帯も今は卓巳の元にあるので、以前のように柚斗の居場所を特定することも出来ない。もう一人にならなくていいんだと言ってやりたいのに、その声の届く場所に、柚斗は居ない。  柚斗を失ってしまった卓巳の部屋は今や派手に散らかっていて、あれから何度か卓巳を案じて訪ねてくる龍哉が、その度に片付けてくれていた。  この先もう二度と、柚斗がこの手の中に戻って来ることはないのだろうか。これからは卓巳の知らない誰かの元で、柚斗は新たな人生を送っていくのだろうか。  初めての行為の最中、「助けて」と言いながら卓巳の下で何度も果て、涙を流して縋りついてきた柚斗の声が、鼓膜に焼き付いて離れない。  こんな卓巳の部屋の惨状を見たら、柚斗は何て言うだろう。呆れて嫌気がさすだろうか。  卓巳自身、自分が嫌になっているというのに、どれだけ想像してみても、柚斗は例え散らかった卓巳の部屋を見ても、まるで宝の山でも見つけたように、大きな目を輝かせるような気がしてならなかった。  そんな人間が、柚斗以外に存在するだろうか。……そんなもの、考えるまでもなく答えは出ている。 『────尚、妻の香夏子容疑者は全てにおいて関与を否認しているとのことですが、夫妻の間では常に主導権は妻の香夏子容疑者にあったようだという関係者の証言もあることから、警察は今後も慎重に捜査を────』  腹立たしい情報が流れてきて、卓巳はブツリとテレビの電源を消した。  ……エゴだと言われても構わない。初めて自分から惚れた相手を、何としてでも取り戻したい。  残った食パンをコーヒーと一緒に流し込み、顔を洗って軽く髪を整えた卓巳は、僅かな希望を抱いてこの日も東條の家へと向かった。 「……くっそ。休日だってのに、未だにマスコミ張り付いてんのかよ」  東條家の敷地から少し離れた路地に身を隠した卓巳は、電柱の陰からそろりと東條家の門扉を覗き見る。  聡一郎による蔵への放火事件からもうそれなりの日数が経過したというのに、未だ警察の捜査も続いている為か、相変わらず門や塀の前には複数の報道関係者の姿があった。門の前には規制線も張られているので、やはり敷地に入ることも難しそうだ。  今日も駄目か…、と卓巳が失意の溜息を漏らしたとき。 「……そんなところで何してるの?」  突然背後から声が掛かって、卓巳は思わず大きく肩が跳ねるほど驚いた。バッ、と慌てて振り向くと、卓巳の過剰な驚き方につられたのか、マスクをつけた東條千夏が目を瞬かせながら立っていた。 「お前……!」  ────そうだった。柚斗のことで頭がいっぱいだったが、千夏はもう成人しているのだから、自由に出歩いていてもおかしくないのだ。  驚きこそしたが、今はむしろ、よくぞ声をかけてくれたという思いで、卓巳は目の前の千夏の肩をガシッと掴んだ。 「ちょ、ちょっと何よ……!?」 「アイツの居場所、何か聞いてねぇか!?」 「アイツ……?」  たじろぐ千夏に、「柚斗だよ!」と声を荒げると、千夏は卓巳の手を振り払って人差し指をマスク越しに自身の口許へ立てた。 「マスコミの連中に気付かれると煩いから、静かにして!」  ヒソヒソ声で器用に怒鳴る千夏に、卓巳もやっと門の前の状況を思い出して、「悪い……」と項を掻いた。確かにいくら千夏はこの事件に関与していないとしても、マスコミに気付かれればあっという間に取り囲まれるに違いない。実際、それを味わったからこそ、千夏はこうして隠れるようにしながら、更にマスクで極力顔を隠しているのだろう。 「……柚斗って、監禁されてたあの子のこと? それなら施設で保護されてるとしか、私は聞かされてない」 「そうか……」  アテが外れて、卓巳はつい落胆の息を吐く。施設に居るなら身の安全はひとまず保障されるだろうが、何処の施設に居るのかわからない以上、一軒ずつ虱潰しに探していくしかない。  そんな卓巳を見て、千夏は怪訝そうに眉を顰めた。 「と言うか、私も知らなかったあの子の名前を、どうして貴方が知ってるの?」  痛いところを逆に突かれて、卓巳はウッ、と言葉に詰まる。 「まあ、それは……色々あってな」  さすがに龍哉を餌にして忍び込んでいたとは言えなかったが、千夏は何かを察したように小さく息を零して肩を竦めた。 「龍哉さんと一緒にうちに来てたのは、あの子が目的だったからじゃないの? ……おかしいと思ってたのよ。ママは勝手に舞い上がってたけど、龍哉さんが私には関心がないってことに気付けないほど、私は馬鹿じゃない。それに私だって、龍哉さんとの交際を望んでたわけじゃないからそこはお互い様だし、別に誰かに言うつもりもないわ」  うんざりした様子で話す千夏の顔には、明らかに疲労の色が滲んでいた。 「お前はこれまで、柚斗とは全く面識なかったのか?」 「……私がまだずっと小さかった頃、家に男の子の赤ちゃんが居たの。だけどママはその子を見る度に、それこそ本当の鬼にでもなったみたいに怒鳴り散らしてて、私はとにかくその時のママが怖かったことだけはハッキリ覚えてる。ただ、それから暫くしてその赤ちゃんを見掛けなくなったから、きっと親戚の子か誰かを預かってたんだと思ってたのよ。……それがまさか、十六年間も同じ敷地で生活してた弟だったなんて、思いもしないでしょ」  複雑な胸中を表すかのように、千夏の眉間にキュッと皺が寄る。  柚斗は勿論だが、千夏もまた、東條の家に翻弄された被害者なのだということを思い知らされる。 「結局はパパもママも、ずっと私のことなんて見てなかったのよね。……だからあんな家、潰れた方が良かったのよ」 「お前は今、どうしてるんだ?」 「大学の友達の家に居候させて貰ってる。住む場所が決まったら、東條の家のことは忘れて、さっさと独り立ちするわ」  そう言って、千夏がクルリと踵を返し、元来た道を歩き出す。 「え……お前、東條の家に用があったんじゃないのか?」 「本当は荷物を取りに来たんだけど、あの様子じゃどうせ入ろうとした瞬間に囲まれるし、出直すわ。これからは家柄なんて関係なく、龍司さんよりいい男を捕まえるから、貴方も頑張って」  じゃあね、と肩越しにヒラリと手を振って、千夏は長い髪を靡かせながら路地の向こうへと消えていく。相変わらず、香夏子譲りの気の強さは感じるので好きにはなれなかったが、それでもその背中は、何となく応援したくなった。  丁度千夏の姿が見えなくなった頃。取り敢えず手近な保護施設を回ってみるか、と歩き出した卓巳のポケットで、携帯が震えた。龍哉からの着信だ。 「もしもし?」 『もしもし兄さん? 今どこ?』  東條の家から徐々に離れつつ応答した卓巳に向かって、スピーカー越しに龍哉の少し強張った声が聞こえてきた。 「今、東條の家の近くだけど……何かあったのか?」 『父さんが、話があるからすぐに兄さんを呼べって。僕も一緒に呼ばれてる』 「……親父が?」  思わず、ピタリと卓巳の足が止まる。  家を出てから全く音沙汰のなかった父が、今更卓巳に一体何の用があるというのか。それに龍哉も一緒に、というのがどうも引っ掛かる。おまけに東條家が世間を騒がせているこのタイミング……。 「……嫌な予感しかしねぇな。取り敢えず、今からそっち行く。俺が着くまで、何も喋るなよ」  そう龍哉に念押しして通話を終えた卓巳は、久々に顔を出す西園寺の家までの道のりを急いだ。

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