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番外編 藍空の下の哀と愛

 窓から入り込んでくるオレンジの光が、デスクの上に、ペン立ての長い影を伸ばしている。  じわじわと手元に迫ってくるそれを見て、柚斗はまだ白紙のままの原稿用紙に、ため息を落とした。  リビングと続きになっている寝室の窓は海に面していて、そこは柚斗の執筆場所にもなっている。  今は何でもデジタル化が進んでいるけれど、西園寺の家に引き取られて初めてパソコンに触れた柚斗は、未だにあまり馴染めない。だから執筆だって、必ず原稿用紙に手書きする。  卓巳には「疲れないのか?」と毎回心配されるのだが、パソコンやスマートフォンの画面を長時間見ている方が、目も頭も痛くなってしまうのだ。  いつもは原稿用紙を広げると、自然とペンが動き出すのに、今日は朝からデスクの前に座っていながら、まだ一文字も書けていない。  今日だけじゃない。  もう五日ほど前から、柚斗は真っ白な原稿用紙と向き合い続けている。  今取り組んでいるのは、来年発売予定の短編集の原稿だ。新作の短編小説を四本収録することになっているが、最後の一本が思うように書き出せない。  締め切り日に着々と近づいている、カレンダーの×印。  それなのにこうも筆が進まない理由に、柚斗は気づいている。 「チェル」  原稿用紙の上にペンを置き、柚斗は傍らのベッドへ声を掛ける。  ダブルベッドの上で、応えるように頭を擡げたのは、ひと月前にこの家にやって来た黒猫だ。  酷い雨の日に庭へ迷い込んできたのをきっかけに、共に暮らすようになった。  名前を付けたのは卓巳だ。  毛の色が柚斗の髪とよく似ていること。それから、蔵に閉じ込められていた頃の柚斗が『ラプンツェル』みたいだったから、という理由で、少し捩って『チェル』になった。  その名付け親である卓巳は、一週間前から出張で留守にしていて、明日まで帰ってこない。  これまで二、三日の出張は何度かあったけれど、一週間の長期出張は初めてだ。卓巳と暮らすようになってから、これほど長く離れていたことはない。  最初の二日ほどはどうにかなったものの、日が経つにつれて、柚斗は徐々に書けなくなっていく自分を自覚していた。  ベッドから降りてきたチェルと連れ立って、柚斗は寝室を出ると、リビングの窓からテラスへ出た。  高台にあるこの家のテラスからは、海が一望出来る。  テラスの柵に凭れかかって眺める海には、夕日が半分ほど沈みかけていた。  風に乗って届く潮騒。  遠くに響く、ウミネコの声。  橙から赤紫を経て、藍色に変わりつつある空。  どれも柚斗の大好きなものだ。なのに今は、全てが色も音も、失くしてしまったように感じる。  卓巳が連れ出してくれた世界は、とても広くて自由で、けれど一人で居るには、あまりにも心細い。 「……淋しいよ、卓巳さん」  足元に擦り寄ってきたチェルの頭を撫でながら、卓巳に教わった感情を噛み締める。  おとなしく柚斗に撫でられていたチェルが、不意にピクリと耳を震わせた。 「チェル?」  首を傾げる柚斗の手から離れたチェルは、そのままテラスの隅へ駆け寄って、ヒョイと柵の上へ飛び上がる。その後を追ってチェルの横から少し身を乗り出すと、一台のタクシーが家の前に停車するのが見えた。  後部座席から降りてきた、見慣れたスーツに、今度は柚斗の胸が震えた。  考えるよりも先に身体が動く。  弾かれたようにリビングへ駆け込み、靴を履くのも忘れて、柚斗は玄関を飛び出した。  トランクからスーツケースを降ろすその背中へ、勢いよく飛びつく。 「っ! ……柚斗?」  不意を突かれてよろけた卓巳が、何とか踏み止まりながら、柚斗を振り返って抱きとめてくれる。  卓巳の後ろで、タクシーの運転手も驚いた顔をしていたが、今の柚斗にはそれを気にかける余裕は無かった。  顔を埋めた卓巳の身体からは、沢山の匂いがする。人混み、食べ物、乗り物……それから、卓巳自身の匂い。  Ωはαの匂いに強く惹かれるというけれど、柚斗にとって、卓巳の匂いほど恋しいものはない。  苦笑混じりに卓巳が運転手へ礼を言い、車は静かに走り去っていった。 「……帰ってくるの、明日じゃなかったんですか」  卓巳の身体に回した腕に力を込めて、その存在と温もりを確かめる。 「思ったより順調にいって、明日の予定が慰労会だけになったんだよ。だから、体調悪いって一足先に帰らせてもらった」 「大丈夫なんですか? そんな嘘吐いて……」 「予定通り、明日帰ってきた方が良かったか?」  コツンと額をぶつけて少し意地悪く笑う卓巳に、柚斗は額を触れ合わせたまま小さく首を振る。  数年前、卓巳が施設へ迎えに来てくれた日のことを思い出して、鼻がツンと痛んだ。 「それに、丸っきり嘘ってワケでもねぇし」 「……卓巳さん、ホントに具合悪いんですか?」  思わず腕を緩めた柚斗の身体を、今度は卓巳が強く抱き締めてきた。 「すげぇ悪い。お前が居ないと、心が乾いて仕方ない」  甘える猫のように、卓巳が鼻先を擦り寄せてくる。  気付けば殆ど日は沈み、辺りは薄闇に包まれている。  さっきより暗いはずの空は、鮮やかな藍色に見えた。  聴こえてくる波音も、船の汽笛も、心地良く耳に響く。  ああそうか、と柚斗は胸の中で呟いた。  この世界は、卓巳が色付けてくれている。卓巳が居ないと執筆出来ないのは、柚斗の世界が色を失うからだ。 「だったら俺も、具合が悪いです。卓巳さんが居ないと、俺はただのガラクタだから」 「なら、ゆっくり休まねぇとな。ところで柚斗、大事なこと、忘れてるだろ」  促すように軽く襟足を握り込まれて、柚斗は待ち侘びていた言葉を思い出した。 「……おかえりなさい、卓巳さん」  ただいま、と微笑む卓巳の唇へ、首を伸ばして愛を届ける。  庭先でいつまでも離れない二人に呆れたように、チェルがテラスの柵で短く鳴いた。

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