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番外編 ろくでなしの君と眺めるストロベリームーン
「喜多川、終わったよ。起きて」
控えめに肩を揺すられて、重い瞼をゆっくりと持ち上げる。
意識が覚醒していくのにつれて、隣から漂う甘い匂いが少しずつ濃くなっていく。
馴染みつつある、Ωの匂い。
喜多川には、懐かしむような場所も記憶もない。だがこの匂いは、形容するなら「懐かしい」という言葉が何故か相応しいように思える。
そんな空気に、ふと嫌な匂いが割り込んできた。
ほとんど薄めていない麝香のように、鼻というより脳を刺激する不快臭。本能的な敵意が、ジリッと身体の奥で燻る気配がする。
見るまでもなく匂いの主は明らかで、喜多川は舌打ちと共に椅子を鳴らして立ち上がった。
「僕の話は相変わらずつまらない?」
他の委員達がゾロゾロと視聴覚室を出て行く中、こちらへ歩み寄ってくる気に喰わないαを、喜多川はジロリと一瞥して吐き捨てた。
「そもそも聞いてねぇから知るか」
「ちょっ……喜多川!」
慌てた様子で立ち上がった透が、シャツ越しに喜多川の腕を掴んでくる。
それを見て余裕ぶった笑みを浮かべる白石が、喜多川は初対面のときから生理的に気に入らなかった。腹の奥にどす黒い何かを含んでいそうな、胡散臭い笑顔と口調が、自分を産んだ女を連想させるからだ。
「すみません、白石先輩……!」
そんな相手に向かって、深々と頭を下げる透の行動も、喜多川には理解出来ない。
つい最近、自分を監禁した男に、よく平気で口がきけるなと呆れるばかりだ。
「気にしなくていいよ」と微笑む白石を一笑に付して、喜多川は透の襟首を掴むと、強引に視聴覚室から連れ出した。
「ちょ、ちょっと喜多川……! 待って、苦しい……!」
廊下に出ると、また透の匂いが戻ってくる。捕えた首元から、喜多川の残した匂いが微かに漂ってくることに安堵して、すぐに「らしくない」と透のシャツを解放した。
「もー……すぐ首根っこ掴む。俺、猫じゃないんだけど」
「猫の方がよっぽど鼻利くだろ。お前、よく平気な面してあの野郎と話せるな」
階段を下りながら、透が歪んだネクタイを直して小さく息を吐く。
「……だって、一応先輩だし」
「その前に立派な犯罪者だろーが。見逃すだけならともかく、まだ関わる神経が理解出来ねぇ」
「今はちゃんと気をつけるようにしてるよ。それに、俺がこうだから、喜多川も委員会出てくれてるんじゃないの?」
何気なく問われて、思わず一瞬足が止まった。
数段先に下りた透が、気付いて肩越しに振り返る。
「喜多川? ……あ、ゴメン。別に自惚れてるわけじゃないんだけど───」
「……うぜぇ」
透の声を遮って、今度は喜多川が透を追い抜き、先に階下へと下りる。
本当に、らしくない。
見え透いた罠に自分から飛び込んでいくような奴なんて、関わっても面倒なだけだ。
ゴメンってば、という声と一緒に、背後からパタパタと足音が追いかけてくる。
こうして誰かについて来られることも、煩わしく思っていたはずなのに───。
ただ階段を下りただけで少し息を切らした透が、喜多川に追いついてきた。それをいつものように撥ね付けられない自分の気持ちも、よく理解出来ない。
校舎を出ると、外はすっかり薄暗くなっていた。
「あのだりぃ委員会、何時間やってんだよ」
「今日は夏休み中の委員会の日程決めるのに、結構時間かかったから。もう七時過ぎてる」
中庭の時計で確かめた透に、喜多川は大袈裟に溜め息を吐いた。
「正気じゃねーな」
「ずっと寝てた喜多川が、それ言う?」
隣に並んだ透が、可笑しそうに笑う。
最初の頃は喜多川の反応にいちいちビクついてオドオドしていたのに、今は喜多川が何を言おうと、透はその全てを楽しんでいるように見える。
変な奴だ、といつも思う。
ハッキリ言って見た目も冴えないし、何より馬鹿だ。
なら他の連中と何が違うのかと考えると、透には、自身の損得を勘定する狡猾さがまるで無い。馬鹿正直、というのは、コイツの為にある言葉なのではと思う。
馬鹿がつくほどの透の純粋さは、喜多川にはいっそ羨ましくもあった。そんな人間は、喜多川の周りに居たことがない。
「あ、もう月出てる」
透の声につられて視線を上げると、まだ低い位置に色濃い満月が浮かんでいた。
「そういえば、今日って『ストロベリームーン』なんだっけ」
「そんな知識だけはあんのかよ」
「今朝、テレビで言ってた。小さいとき、赤くて大きい月って正直ちょっと怖かったけど、『ストロベリームーン』って聞くと可愛く思える。……好きな人と一緒に見ると、恋が叶うんだって」
「そんなモン、ただの俗説だろーが」
「……喜多川、知ってるの?」
眼鏡越しに、透が意外そうな視線を向けてくる。
「何が」
「こういう話、喜多川は興味無さそうだと思ってたから」
あるか無いかと問われれば、答えは後者だ。
ただ、昨今は何かとイベント事に結び付けたがる企業も多い。特にカップルや若者受けの良さそうなネタは、その俗説ばかりがメディアを通して一人歩きすることも少なくない。
兄である冬治の影響で情報収集が癖付いている喜多川も、数年前から出回るようになった『ストロベリームーン』の話題は、早くから目にしていた。
少し調べれば、その名前の本来の由来もわかるものだが、バレンタインやハロウィンのように、世間が求めるのはあくまでも『雰囲気』だ。
それでも透が興味深げに見上げてくるので、喜多川は『ストロベリームーン』の名前の由来を簡潔に話した。
元々はアメリカの先住民が、イチゴの収穫時期にあたる六月の満月をそう呼んだことに由来していること。
気候の違うヨーロッパでは『ローズムーン』と呼ばれていること。
それ以外にも、土地によって様々な呼び方があること。
どちらかといえば『ローズ』の方が喜多川は好みなのだが、これは柄でもないので言わなかった。
それに、透の場合は『ストロベリー』という呼び名の方がしっくりくる。今も漂い続けている透の仄かに甘い匂いは、まだ熟しきっていない果実に似ている。
「へぇ……赤いからそう呼ぶようになったわけじゃないんだ。でも、喜多川の場合は『ローズムーン』の方が似合う気がする。大人びてるし」
胸の内を見透かされたのかと、僅かに目を瞠った喜多川を見上げて、透はいつものようにヘラリと気の抜けた笑みを浮かべている。どうやら今の言葉に、深い意味はないらしい。
良くも悪くも真っ直ぐすぎる透の目に、喜多川の居る世界はどう見えているのか。それがふと気になって、喜多川は無防備な顔から眼鏡を奪い取った。
「わっ……! 何、いきなり……!?」
眼鏡を取り返そうと伸びてきた透の手が、見えない所為なのか、中途半端に宙を掴む。
「お前、この距離でも見えねぇの」
「俺、乱視もちょっと入ってるし、暗いから余計見えない。足元も見えなくて不安だから、早く返して」
「転けたら笑うくらいはしてやる」
「それ全然嬉しくない!」
奪った眼鏡を、何とはなしに顔の前へ翳してみる。
視力の良い喜多川には当然合わないレンズを通して見た月は、奇妙に湾曲して、見たことのない形をしていた。初めて見る景色の中で、共存している不可思議を実感する。
何もかも、昔から見え過ぎている喜多川には、透の見る世界がやはり羨ましいと思った。
恋が叶うなんていう子供じみた話を信じるつもりは毛頭無いが、今こうして並んで月を眺めているのは、互いの見る世界に惹かれ合っているからなのかも知れない。
やはりそれを口に出すのは柄ではないので、喜多川は言葉の代わりに、素っ気なく透の顔へ眼鏡を戻した。
月明かりの下で二人を包む香りは、早摘みされた苺のようだった。
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