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第1―11話
早めに席に着く羽鳥に、柳瀬は時間ピッタリにやって来た。
手に持っていたセルフサービスのコーヒーを音も無くテーブルに置くと、ドカッと椅子に座る。
羽鳥は子供の頃から、約束の時間の10分前には約束の場所に着くようにしていた。
それは時間にだらしない吉野が心配であると同時に、吉野を待たせるのが嫌だったからだ。
社会人になるとそれが加速して、平気で約束の場所に30分前には着くようになっていた。
そんな羽鳥からしても、柳瀬も凄いと思う。
柳瀬はセルフサービスの店でも、時間丁度に席に現れる。
それは約束の時間にピッタリになるように逆算して行動しているからだ。
「何だよ、気持ちワリィな。
人の顔ジロジロ見て。
で、話って何だ?」
柳瀬が物凄く嫌そうに言う。
「吉野の具合はどうだ?」
「今、38度くらいかな」
「お前が倒れてる吉野を見つけたのか?」
柳瀬が憎々し気に羽鳥を見る。
「ああ、そうだよ。
今日は漫画の限定版の発売日だったんだ。
千秋はすっかり忘れてて予約もしてないみたいだったから、朝イチで届けてやろうと思って朝飯も買ってマンションに行った。
そしたら素っ裸で脱衣所で倒れてた」
「そうか…」
「そうか?
千秋をあんな目に合わせた張本人のくせに、そうか?かよ。
流石、羽鳥だな。
どうせ、裸で倒れっぱなしでいた千秋が馬鹿だって言いたいんだろ。
お前に突き飛ばされて千秋が倒れても、千秋は怪我もしてないし、お前が帰った後、普通は起き上がって服を着りゃいいもんな」
柳瀬は真正面から羽鳥を睨みつけている。
視線で人を殺せるなら、羽鳥はとっくに柳瀬に殺されていただろう。
「倒れてた千秋を俺が抱き上げた時、千秋は何て言ったと思う?
本気でトリを怒らせた、どうしよう優…って泣くんだよ。
涙が止まらない、動けない、でも自分が悪いからどうしていいか分からないってさ。
お前を責める言葉なんて一言も言わなかった。
お前に突き飛ばされたって言ったのは、病院で先生になぜ倒れてたのか訊かれた時だ。
理由によっちゃ検査しなきゃならないだろ?
そしたら千秋のやつ、友達とふざけてて突き飛ばされたんですって、泣きながら、それでも笑って言ったんだよ。
これで満足か?」
羽鳥が小さく呟く。
「……吉野の身体に赤い跡があった」
「は?」
「お前が吉野の為に付けたんだって、吉野は嬉しそうに笑ってた。
そのくせ俺と風呂に入ろうとして…。
だから俺は…」
柳瀬がプッと吹き出す。
そして笑う。
嘲笑だ。
「お前、あの赤い跡ちゃんと見たのかよ?
千秋の話…は聞いてねーから突き飛ばしたんだよな」
「柳瀬…?」
「あれは『跡』じゃねーよ『印』だよ。
あの印はランダムに付いてたか?
間隔をきちんと取って付いてた筈だけどな」
「間隔って…」
「前の日、俺の良く行くセレクトショップの店長から連絡があったんだ。
吉野さんに似合いそうなスプリングコートが入荷したから、お取置きしておきますか、って。
ただ千秋には少し大きいかもしれないって。
店長は店頭に出す前に俺に連絡するつもりだったんだけど、店員が間違えてショーウィンドウに飾っちまったせいで、デザインが良いから問い合わせが結構あったらしくて、慌てて連絡してくれたんだ。
画像を見たら本当に千秋に似合ってて、でもサイズが合わなきゃ買ってもしょーがねーし。
それで千秋の身体のサイズを細かく測るから、それでサイズが合ったら取置きしといてくれって返事をした。
それに一度測っておけば、次に同じようなことが起きても役立つだろ?
それで赤い水性インクで千秋の身体に印を付けて、サイズを測ったんだよ。
測った時、擦れたりしたから、いやらしいお前にはキスマークに見えたんじゃねーの?」
「ただ…それだけ…?」
羽鳥のテーブルの上で組んだ手が震える。
「そっ。ただそれだけ。
千秋に本当のこと話せって俺が強引に聞き出した。
お前と風呂に入ろうとしたのは、背中を洗って欲しかったんだってさ。
水性インクだから洗えば落ちるけど、自分じゃちゃんと落とせる自信が無かったからって」
「そんな…じゃあ俺は…」
「単なる馬鹿野郎だな。
そして恋人に暴力を振るうDV野郎。
終わってるな、お前」
柳瀬がゴクゴクとコーヒーを飲む。
そしてカップをソーサーに置くと言った。
「俺は千秋とお前が付き合ってると知ってから、漫画以外の形に残る物は千秋にプレゼントしないと決めていた。
それは恋人のお前の役目だからだ。
だけど今回の事で考えが変わった。
俺も千秋にプレゼントさせてもらう」
「プレゼントって…何の…」
「出版社勤めの癖に鈍いな。
ホワイトデーだよ」
「お前…吉野にバレンタインデーに何か貰ったのか?」
「ああ。でも勘違いすんなよ。
千秋はお前にしかバレンタインデーにプレゼントしてないんだから。
俺にはバレンタインデーに協力してくれたお礼だって、バレンタインデーの翌日にくれた。
ほら」
柳瀬がスマホをテーブルに置く。
そのロック画面には茶色の小さな壁に囲まれたマジパンの人形が二体、机に向かって白い紙に何か描いている。
羽鳥には出来ないこと。
漫画を描いているのだ。
その事実が、こんな時だというのに、羽鳥の胸を抉る。
「お前のは愛情で俺のは友情。
でも俺は嬉しかった。
千秋に必要とされてる自分が誇らしかったよ。
だからホワイトデーに何かプレゼントしてやりたいと思った。
例え消え去る物しか贈れなくても。
そしたら千秋が年明けに買い物に行った服の中で『こーゆーのの春物のニットとかいいよな』って言った。
正直作ってやりたいと思った。
でも服は形に残る。
だから俺は迷ってた。
でももう遠慮しない。
俺は千秋に手作りしてプレゼントする」
そう言って柳瀬が立ち上がる。
「もういいよな?」
「柳瀬…吉野がお前からホワイトデーにプレゼントされて困ると思わないのか?」
柳瀬はハッと息を吐いた。
「そうくるか。
流石、編集者、日本語に長けてるな。
だけどな、俺はお前とは違うんだよ。
ちゃんと友達としてのお礼だって伝えて渡す。
千秋を好きだ何だっつって、がんじがらめにした挙句、暴力振るう恋人もどきと一緒にすんな」
羽鳥の顔に怒りが走る。
「柳瀬…!あれは暴力なんかじゃ…」
「暴力だろ?
お前、今までの俺の話聞いてたのかよ?
俺が『たまたま』今朝千秋に会いに行ったから大事にならなかったけど、もし俺が行かなかったら?
それでも千秋は40度の熱を出してた。
部屋の暖房は効いてても場所は脱衣所だ。
誰にも見つけられず、お前に突き飛ばされて、倒れて、素っ裸で泣き続けてたら?
肺炎になってたかもしれないんだぞ!」
柳瀬のアーモンド型の瞳がキラリと光る。
まるで羽鳥を断罪するように。
「お前がたったひとつのこと…千秋の話を聞いてやってればこんなことにはならなかったんだ」
柳瀬はキッパリ言うとカフェを出て行った。
羽鳥は気が付くと真っ暗な部屋のソファに座っていた。
いつの間にか帰って来ていたらしい。
頭の中がガンガンとうるさい。
柳瀬の徹頭徹尾の正論が渦巻いている。
柳瀬の言うことは正しい。
正しすぎて吐きそうだ。
何の反論の余地もない。
そう言えば、と羽鳥は思う。
『俺に出来ることなら何でもするから!』と電話で言った羽鳥に、柳瀬は何も要求して来なかった。
する価値も無いと思われたのだろう。
千秋
話を聞いてくれと言った千秋。
それなのに俺は嫉妬に狂って倒れた千秋を置き去りにしたんだ…
どんなに寒かっただろう
どんなに心細かっただろう
俺は千秋の身体を突き飛ばしただけでなく、千秋の心まで突き飛ばして拒絶したんだ
身体は傷つけなくても、心を傷つけてしまった
羽鳥はなぜか笑いが込み上げた。
身体だって傷つけたじゃないか
千秋は高熱を出して苦しんでいる
こんなに好きなのに
こんなに愛してるのに
俺の世界の中心には千秋しかいないのに
なぜ、うまくいかないのか
千秋は話も聞かず置き去りにした俺を許さないだろう。
羽鳥は大きな紙袋を胸に抱く。
編みかけのチュニック
やっぱり俺には千秋に渡す資格は無い。
その代わり柳瀬なら、完璧な手編みの作品をプレゼントするだろう。
その時、羽鳥の両目から涙が溢れた。
千秋を愛して、千秋に愛される夢は素敵だった。
幸せだった。
臆病者の俺は臆病者らしく、千秋が俺から離れるまで、編集の仕事を今まで以上に精一杯頑張るから。
羽鳥の閉じた瞼に吉野が作ってくれた、バレンタインのチョコレートの古民家の家が浮かんで、消えた。
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