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第1―16話

木曜日。 羽鳥はポーカーフェイスの裏でうきうきしながら仕事をしていた。 羽鳥は昨日、吉野の家に泊まった。 吉野が明日の朝、出汁巻き卵が食べたいと言ったからだ。 ベッドではただ抱き合って眠った。 吉野の匂い、肌触りが羽鳥を高めようとするが、吉野の身体の為にぐっと堪えた。 吉野の小さな身体を抱いて眠れるだけで幸せだ。 羽鳥は食欲の無い吉野の為に、出汁巻き卵と、使いたくは無かったが腐らせる訳にもいかず柳瀬が作った作り置きのおかずに、わざと小さく丸く作ったお握りをテーブルに並べた。 吉野は飛び上がって喜び、完食した。 昼食用にはサンドイッチとフルーツを切って置いてきた。 玄関で俺のビジネスバッグを持って「行ってらっしゃい」と言ってくれた吉野…かわいかったなあ… 羽鳥が吉野に思いを馳せながらも、バリバリと仕事をこなしていると、「羽鳥、メシいかねー?」と高野の声がした。 高野が羽鳥を昼食に誘うのは珍しい。 別に二人の仲が悪いのでは無く、高野は昼休憩になると嫌がる小野寺を引き摺って行き昼食を取るのだ。 「あ、じゃあ小野寺も誘いましょうか?」 羽鳥が立ち上がると、高野は首を横に振った。 「もう木佐と行った」 「そうですか」 羽鳥は木佐と小野寺は仲が良いので、そんな日もあるだろう、くらいに考えていた。 だが、高野が暗い。 食事中もため息が絶えない。 思わず羽鳥は訊いていた。 「何かあったんですか?」 高野は暫く黙っていたが、ポツリと言った。 「小野寺に避けられてる」 はて? 高野を仕事以外で小野寺が避けるのは定番の光景だし、そんな小野寺を高野が追いかけ回すのもエメ編では定番の光景だ。 そんな羽鳥の考えを感じ取ったのか高野が続ける。 「それが普通じゃねーんだ。 今朝もマンションで会ったから、エレベーターに乗ろうとしたら、あいつが乗ろうとしなくてさ。 俺が腕を引っ張ったら、離して下さい、俺に触るなって怒鳴って、手を振りほどかれた…」 羽鳥が青ざめる。 『離して下さい』は分かるとしても、『俺に触るな』って…ここここれは修羅場というやつでは…。 羽鳥が黙っていると、高野は深いため息を吐き、続けた。 「その時の小野寺の顔がさー、でっかい目に涙浮かべてんだよ。 それで高野さんなんかもう知りませんっつって消えてった。 階段使ったんだろうな」 「……」 「俺を軽蔑したような顔してさ」 「……」 「流石に仕事場じゃそこまで酷くねーけど、俺を軽蔑して怒ってるのは分かる。 羽鳥とも最低限しか口利かねーだろ? 木佐も態度がおかしいし」 羽鳥はハッとした。 朝から吉野のことで浮かれていた自分は気にならなかったが、確かに小野寺は最低限のことしか話し掛けてこないし、木佐の態度もおかしい。 「俺達、あいつらに何かしたか?」 羽鳥は考え込むが全く思いつかない。 先週までは普通だったし、今週だってエメラルド編集部に変わりはない。 「すみません。 思い当たりません」 「だよな。俺もだ」 二人、店を出て丸川書店に戻ると、社員達がそこかしこで高野と羽鳥を見ながらコソコソ話している。 女性だけで無く男性もだ。 「高野さん、これは…」 「分かんねー。 みんな仕事は普通なんだけどな」 高野はエメ編に戻る前に一服するが、最近ハマっている缶コーヒーがあるとかで休憩室に寄るという。 その缶コーヒーは休憩室の自販機にしか無いのだ。 羽鳥も高野がそこまでハマってる缶コーヒーを飲んでみたくなり、休憩室に寄って行くことにした。 高野と羽鳥が休憩室に入ると、一瞬の静けさの後、またコソコソ話が始まる。 高野と羽鳥にしたら無視するしか無いので、気にせず自販機でお目当ての缶コーヒーを買うと、制服姿の女子社員三人、ツカツカと高野と羽鳥の元にやって来た。 「高野さん」 「なに?」 「今、休憩時間ですよね。 だから私的なことを話してもいいですよね。 私達、高野さんのファンでした!」 「あ、そうなん…」 「でも辞めます!! 高野さんの馬鹿ッ!!」 そう怒鳴ると三人は休憩室から出て行く。 「何だ…あれ…」 呆然とする高野に、羽鳥は思い出した。 昨夜、花屋で女子社員に「ギャーッ」と叫ばれ、「私、ずっと羽鳥さんのファンだったのにー!!羽鳥さんの馬鹿ッ!」と言われたことを。 俺と高野さんが『ファンを辞める』と言われ『馬鹿』と罵られた。 それじゃあ桐嶋さんの『再婚話』も、俺が考えているような軽い話じゃないんじゃないか? 「高野さん、大事な話があります。 会議室を押さえますから聞いて貰えますか?」 「あ、ああ」 未だ呆然としている高野の背中を押しながら、羽鳥は歩き出した。 羽鳥は高野と急に打ち合わせが入って会議室にいると、美濃と木佐と小野寺に伝えた。 美濃はいつもと変わらず謎めいた微笑みを浮かべて「ホント急だね。頑張って」と言ったが、木佐と小野寺は無表情で「はい」と言っただけだった。 羽鳥が押さえた会議室は定員数五人の小さな会議室だ。 通常2~3人で使う。 高野と羽鳥は向かい合って椅子に座ると、まず羽鳥が昨夜の花屋であった出来事を話した。 高野は「お前も馬鹿って言われたか」と小さく笑った。 「それにしても桐嶋さんの再婚話は、どう考えたって嘘だろう? 桐嶋さんはよく再婚話の噂が出るけど、大抵ガセだしな」 高野が呆れたように言う。 「俺もそう思います。 でもおかしくないですか? 直前まで桐嶋さんの再婚話をしてた女子社員が俺に馬鹿って言った。 桐嶋さんの再婚話と、俺達が馬鹿呼わばりされたのが無関係とは思えません」 「でもお前もLINEを見ただろう? あんなに浮かれて横澤の為に不器用な桐嶋さんが編み物してるんだ。 それに今週喫煙室で桐嶋さんにも横澤にも会ったけど、別に変わったところもなかったぜ? まー俺とお前が馬鹿って言われたのも全然意味分かんねーけど」 その時、羽鳥はハッとした。 「そうだ…桐嶋さんも横澤さんも高野さんも俺も何も知らない…。 あれだけ噂になってるのに、誰も面と向かって何も言ってこない…。 『馬鹿』って言うのが精一杯なんだ…」 高野の目がキラリと光る。 「つまり?」 「まだ噂に関係してる人がいるってことです。 その人を突き止めれば何か分かるかもしれない」 「だけど、その人のせいで皆、俺達に分からないように噂してんだろ? それなのに話してくれるようなやつがいるか?」 「います」 羽鳥がキッパリ言って、高野が身を乗り出す。 「誰だ?」 「エメ編の最終兵器…」 「美濃か!」 小野寺の瞳からポタっと涙が落ちて書類を濡らす。 「律っちゃん…」 木佐が慌てて小野寺の肩を抱く。 小野寺は指で目を擦るとへへっと笑う。 「すみません。 高野さんも羽鳥さんも居なくなったら、緊張感が無くなっちゃって…」 「あんな噂、嘘だよ!」 「でも画像も動画もあるし。 もういいんです。 さっ仕事仕事!」 小野寺がニコッと笑ってコピーに立つ。 木佐はスマホを持つと、動画かあ…と思う。 でもこの動画も画像も、何かおかしいんだよな。 噂通りなら男女の比率も合ってるけど…雪名がなあ…。 噂してるやつらは『雪名らしい事情』があって、雪名が同席してるって言ってるけど。 雪名がわざわざそんなことするかなあ…。 雪名は俺の為にホワイトデーのプレゼント作ってるくらいだから、噂通りなら辻褄は合うけど。 ん? ホワイトデー? そうだ!! ホワイトデーのプレゼント作りさえ、俺に馬鹿正直に話す雪名だ。 俺が訊けばきっと話してくれる筈!! 「ちょっと私用電話してくる!」 木佐は叫ぶように言うと、エメラルド編集部を出て行った。

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