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第1―21話

横澤は桐嶋の家を出たその足で、羽鳥の自宅マンションがある最寄駅へと向かった。 羽鳥は約束の時間の10分前だというのに、もう改札口にいた。 日曜日の朝7時の駅前は人影もまばらだ。 「羽鳥、悪い。待たせたな」 羽鳥は「いいえ。俺が早いんです」と微笑んだ。 横澤と羽鳥が並んで歩き出す。 「でも…本当に良かったのか?」 横澤が遠慮がちに切り出す。 「大丈夫です。 あの家は無駄に広いですから」 「でもなあ…吉川先生のマンションに居候するなんて…。 吉川先生がよく許してくれたよな」 「吉野にはまだ話していません」 「はあ!?」 横澤が思わず立ち止まる。 「話して無いって大丈夫なのか!?」 「大丈夫ですよ。 言ったでしょう? あの家は無駄に広いんです」 羽鳥がにっこり笑う。 横澤は整った羽鳥の顔をまじまじと見つめた。 羽鳥は10分も歩くと、タワーマンションのエントランスに入って行く。 横澤は感心していた。 流石、一千万部作家、吉川千春先生の自宅兼仕事場。 高級マンションどころの比では無い。 そしてエレベーターに乗り目的の階で降りると、羽鳥はある玄関の前で立ち止まり、合い鍵で扉を開け玄関の中に入ると、横澤に「どうぞ」と言いスリッパを並べてくれ、自分もスリッパを履くとスタスタと廊下を歩いて行く。 廊下を隔てる扉を抜けると、広いリビングだ。 様々なソファが並んでいる。 羽鳥は「どうぞ座っていて下さい」と言うと奥に消えた。 羽鳥は恐らくキッチンにいるのだろう。 程なくしてコーヒーの香りがしてくる。 横澤は落ち着かなくて、三人がけのソファの端に大きな身体を縮めて、ちょこんと座っていた。 羽鳥がトレイにカップを乗せて戻って来る。 羽鳥は横澤の前にカップを置きながらクスリと笑った。 「何だよ?」 「いえ。 そんなに緊張しないで下さい」 羽鳥が横澤の正面に座る。 羽鳥はコーヒーを一口飲むとカップをソーサーに置いた。 「横澤さん、それで荷物は午後に届くんですよね?」 横澤が頷く。 「ああ。お前の提案通り午後2時に届く」 「そうですか。 それなら夕方までに荷物の整理も終わりますね」 「でも何で2時なんだ?」 「吉野はから昨夜プロットが閃いたとメールがありました。 たぶん夜更かししたか、徹夜したでしょう。 今日は起きて来るのが遅いと思います。 横澤さんの事情を説明して一緒に昼メシでも食べれば、人見知りの吉野も横澤さんに慣れるでしょう。 そこに荷物が到着するのが、ベストのタイミングだと思うからです。 それに今夜は俺もここに泊まります」 横澤はホッと息を吐いた。 「悪いな、羽鳥。 色々と気を使って貰って」 「いいえ。 横澤さんにはいつもお世話になっていますから。 それより朝メシまだなんじゃないですか? サンドイッチを作っておいたんですけど」 横澤はその時、自分が空腹であることを自覚した。 羽鳥に会って、話しをして、少し緊張が解れたらしい。 「じゃあ遠慮なく頂く。 本当に色々とすまん」 「はい」 羽鳥が微笑んで頷く。 羽鳥はコーヒーを飲み干すと、またキッチンに向かった。 日和は横澤が仕事に出掛けた後、洗面を済ませ着替えも済ませた。 どうせ桐嶋は昼近くまで寝ているだろうと、ひとりで朝食を取ることにした。 キッチンのカウンターにそれは置かれていた。 日和の大好きな漫画のキャラクターが描かれた封筒。 見慣れた横澤の文字で『ひよへ』と書かれている。 日和は胸がドキドキした。 まるで怖いテレビ番組を見ているような、オバケが出るのを待っている時のように手の先がひんやりとしているのに汗ばんでくる。 日和はそっと封筒を手に取って封を開けた。 『ひよへ 今まで仲良くしてくれてありがとう。 これからはもう今までみたく一緒に暮らせないけど、ひよが毎日笑顔で過ごせるように遠くから祈ってます。 ひよと桐嶋さんの幸せを祈っています。 ひよも桐嶋さんも絶対幸せになれます。 俺が保証します。 だからひよは何にも心配しなくていいから、これからも桐嶋さんと仲良く、元気に学校に行って下さい。 それと少しですが作り置きの料理を作っておきました。 温め方は…』 日和の頬に涙がポロポロ零れる。 そして最後の『さよなら』の文字が目に入った時、日和は手紙を握りしめ寝室に走った。 封筒がハラリとキッチンの床に落ちる。 だがそんなことはどうでもいい。 日和は寝室のドアを開けると「お父さん!」と叫んだ。 桐嶋はピクリともしない。 日和が桐嶋の身体を揺さぶる。 「お父さん、起きてよ! お兄ちゃんがいなくなっちゃった!」 「……ん?横澤がどうかしたか?」 桐嶋が半分寝ぼけ声で枕に突っ伏しながら言う。 「お父さん!お兄ちゃんがいなくなっちゃったんだよ!」 次の瞬間、桐嶋ががばりと起き上がる。 「……横澤がいなくなった?」 「このお手紙見てよ!」 日和が桐嶋の目の前にくしゃくしゃになった手紙を突きつける。 桐嶋は日和の手から手紙をひったくるように奪うと、手紙を読んだ。 日和は声を上げて泣いている。 桐嶋は1分もしないうちに、日和を抱きしめた。 「ひよ、心配するな。 俺が絶対に横澤を連れ戻す。 ひよは顔を洗って朝ごはんを食べるんだ。 お父さんはこれから電話を掛けたら出掛けて来る。 ちゃんと昼ごはんも食べるんだぞ」 「でも…でも…」 日和が泣きながら桐嶋を見つめる。 桐嶋がフッと笑う。 「横澤がひよの為にごはんを作っていってくれたんだ。 食べてやってくれ」 「う、うん!」 「それから、ひよは遊びに行ってもいいからな。 いつも通りの日曜日を過ごすんだ。 きっと横澤もそれを望んでると思う。 お袋にはお父さんから連絡しておくから、家のことは心配するな」 「分かった!」 日和は涙でぐちゃぐちゃの顔で頷くと、寝室を走って出て行く。 桐嶋は横澤の親友―――高野に電話を掛けた。 高野はまず社内で噂になっていることを細部まで桐嶋に話した。 桐嶋はスマホを落としそうな程、驚いた。 そして高野は続けて、井坂の計画も話した。 桐嶋はスマホを叩きつけたくなるのを何とか我慢した。 そして最も肝心なこと。 高野の家に横澤が行ってないかと訊いた。 高野は編み物の件を話し、横澤は一旦は高野のマンションに居候させてくれと言ったが、高野が断り来ていないと答えた。 では横澤は何処にいるのか? 高野は 『心当たりはありますが、横澤の気持ちを考えると答えられません。 それに3月14日まであと少しです。 ホワイトデーで真相を知ったら、横澤は必ず桐嶋さんの元に帰って来ます』 と冷静に言った。 桐嶋は高野を怒鳴りつけたかった。 じゃあお前は、例え数日でも小野寺が居なくなっても耐えられるのかと。 そして怒鳴る代わりに電話を切った。 桐嶋の家の客間はからっぽだった。 横澤の桐嶋から別れようとする決心をひしひしと思い知らされる。 それに合い鍵を返し合ったとしても、聡い横澤のことだ。 自分のマンションに帰り、直ぐに見つかるような真似は絶対しないだろう。 桐嶋はすっくと立ち上がり、寝室で着替えてスマホと財布だけを持ち、家を飛び出した。 一応最初に横澤のマンションに行ってみたが、当然横澤は居なかった。 桐嶋は横澤がお気に入りの場所を虱潰しに探して廻った。 だが横澤は何処にもいない。 桐嶋は二人で行った海にも行ってみた。 いないと分かっていても行かずにはいられなかった。 まだ三月初旬の海風は冷たい。 桐嶋は海風に吹かれながら、何故か笑いが出た。 俺は勝ち目の無い戦いをしいる。 あんな噂を聞いて、横澤は俺とひよから身を引く決心をした。 それはどんなに悲しくて辛いことだっただろう。 その決心は例え数日とはいえ、どんどん固まっていくだろう。 その時。 桐嶋の頭に羽鳥が浮かんだ。 羽鳥も勝ち目の無い戦いを諦めようとしていた。 あの時、俺は何て言った? 「お前は自分自身の『闘わないやつ』に笑われてんだよ。 笑われるなら、せめて闘って笑われろ」 俺はまだ笑われる程、闘っていない。 いい年した男が、別れを告げられ、振られた相手を追いかけ回している。 『闘うきみの歌を 闘わないやつらが 笑うだろう』 笑われたっていい。 横澤がこの手に帰ってきてくれるなら。 ……羽鳥? そうだ! 羽鳥も手作り本の仲間じゃないか! 羽鳥なら何か知ってるかも知れない! 桐嶋はスマホを取り出すと、高野に電話を掛け、渋る高野に羽鳥の住所を聞き出した。 そうして桐嶋は車に戻ると、急いでエンジンをかけた。

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