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第2話
部活が終わり、帰り支度を済ませて部室を出ると空はもうすっかり日が落ちていた。
大和からの帰りの誘いをさり気なく断って、晴人は職員室へ急ぐ。校舎へ入ったところで、丁度廊下の向こう、職員室から出てくる担任・谷川 の姿が見えた。
「谷川先生!」
廊下の端から声を張った晴人に気づいて、谷川は「おお、高坂。部活上がりか」と気さくに声を掛けながら歩み寄ってくる。
谷川は二十代後半の数学教師で、校内の教師陣の中ではかなり若い層に入るが、生徒と歳が近いこともあってか、話しやすいので生徒からも慕われていた。
「お疲れさん」と労ってくれる谷川に「お疲れ様です」と軽く頭を下げて、晴人は改めて谷川に向き直った。
「先生。あの……黒執のことなんですけど……」
「黒執?」
晴人の挙げた名前に谷川が一瞬きょとんと目を丸くしたのを見て、放課後の大和の反応がフラッシュバックする。まさか担任の谷川まで黒執の名前すら覚えていないのだろうかと一瞬不安になったが、「黒執がどうかしたのか?」と谷川が続けたので、晴人はホッと息を吐いた。
────ところが。
「アイツ、ずっと学校休んでますけど、何かあったんですか」
そう晴人が問い掛けた直後のことだった。
それまでしっかり晴人の顔を見据えていた谷川の目が、突然焦点を失ったように虚ろになって、晴人は思わずゾクリと背を震わせた。
「……先生?」
明らかに様子のおかしい谷川に、晴人は恐る恐る声を掛ける。
谷川は、相変わらず何処を見ているのかわからない虚ろな視線のまま、静かに口を開いた。
「……黒執のことなら……問題ない。何も、問題ないんだ。アイツは、大丈夫だから……」
譫言のように答えるその声は確かに谷川の物で、実際目の前で晴人も見ているのに、まるでその返答を誰かに言わされているようだった。ついさっき、自分に向けて「お疲れ」と笑ってくれた相手と同一人物だとは思えない。
見慣れているはずの担任に得体の知れない恐怖を感じて、無意識に喉を鳴らした晴人の前で、谷川は何度も「黒執なら、問題ない」と空虚な目で繰り返している。
(……どうなってんだよ、何だコレ……!?)
今の谷川は、自分の知っている彼ではない。
おまけに、「黒執なら問題ない」というのは、一体どういう意味なのだろう。学校に来なくても問題ない、ということなのだろうか。
特待生だとか、そういうものは晴人はよく知らないが、全く学校に来なくても問題ない、なんてことがあるんだろうか。
それに何より、いきなり豹変してしまった谷川の様子に、思考が追い付かない。
「……先生! 谷川先生!!」
廊下に響き渡るほどの声で、晴人は必死に呼び掛ける。
すると谷川はそこで漸くハッとしたように晴人の顔を見た。その顔は、いつも見ている谷川の顔に戻っている。
「あれ……俺、今何か言ってたか……?」
怪訝そうに首を捻る谷川に、晴人は「いや、何も……」と何とか平静を装って首を振ったが、内心では酷く混乱していた。
谷川は、つい一時前の自身の発言を覚えていないらしい。だとしたら、やはりさっきのレンに関する答えは、谷川の意思で発せられたものではないのだ。
(じゃあ誰が……)
そう考えて、ふと入学式の日に見た小綺麗な横顔が脳裏に浮かんだ。
あの日からずっと登校していない、黒執レン。
谷川の様子が急変したのは、彼の不登校理由を聞いた直後だった。
まさか、彼が谷川に都合の良い答えを言わせているのか? ……いや、そもそもそんなことが出来るのだろうか。
仮にレンが裏で谷川を言いくるめているのだとしても、突然谷川が何かに取り憑かれたようになったことは説明がつかない。
……わからない。何もかも。
───一向に姿を見せない本人に、直接聞かないことには。
意を決して顔を上げた晴人は、まだ狐に抓まれたような顔をしている谷川にズイ、と詰め寄った。
「先生。今日の現国で中間に出るって配られたプリント、黒執の分も預かってるんで、住所教えてください」
「……この辺に、こんなデカイ洋館なんかあったのか……?」
咄嗟に浮かんだ嘘で、強引に谷川から聞き出した住所を頼りに辿り着いた場所に建っていたのは、思わず圧倒されるような立派な洋館だった。
グレーの煉瓦タイルの外壁は所々蔦で覆われていて、夜の所為もあってか晴人の目には少し不気味に映った。手入れされた庭の植え込みの先に見える噴水が、辛うじて薄気味悪さを和らげてくれている。
周辺に広がる住宅地の中では、明らかに異質な家だ。地域ではそれなりに噂になっていても良さそうだが、その洋館は外観とは裏腹に、まるで夜の闇に紛れるようにひっそりと佇んでいた。
何だか、洋画にでも出てきそうな豪邸だ。
ゴクリ、と一度喉を鳴らしてから、立派な錬鉄門の脇にある呼び鈴を押してみる。しかし、何の応答もない。
二度、三度と押してみたが、相変わらず応答も無ければ、屋敷の中から誰かが出てくる気配もなかった。
玄関脇の電灯にはポツリと明かりが灯ってはいるが、ここから見える窓にはどれも明かりは見えない。
「……まさか、学校休んで夜遊びじゃないだろうな」
小さく舌打ちして四度目の呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばした、そのときだった。
「ウチに何か用かしら?」
口調に反して低い声が背後から飛んできて、晴人は特別疚しいこともないのだが、反射的にビクッと肩を竦ませた。
恐る恐る振り返った先で、スラリと背の高い細身の人物が、長いストレートの黒髪を靡かせて晴人を見つめている。
漆黒のトレンチコートに、黒いパンツ。足元は、黒いピンヒール。全身に闇を纏ったようなその人物は、顔に掛かる髪を煩わしそうに払ってから、晴人に歩み寄ってきた。
「ボク、お口がきけないの?」
長身な上にヒールのお陰で、決して小柄ではない晴人より更に高い位置から、相手が揶揄うような笑みを口許に浮かべて見下ろしてくる。その顔にはバッチリとメイクも施されていて、黙っていれば海外モデルのような美女に見えるが、目の前の相手の声はどう聞いても『男』のものだ。
(お、男……だよな……?)
歳もまだ二十代くらいにしか見えないので、レンの親にしては若すぎるし、兄だとしてもレンとはあまり似ていない気がする。
相手の正体がわからないので先にそれを問い詰めたい晴人だったが、何となくここは一先ず相手の問いに素直に答える方が良い気がした。
「……黒執レンの自宅って、ここで合ってますか。俺、同じクラスなんですけど」
長身オネエの迫力に負けじと、晴人は真っ直ぐに相手を見据えて答える。
「レンの……クラスメイト……?」
つけ睫毛で飾られた目を丸くして呟いた彼(彼女?)は、みるみるその顔を輝かせると、不意にガシッと晴人の両手を取って握り込んできた。
「あのレンを! クラスメイトが訪ねて来るなんて…!!」
「あ、あの……手、痛いんすけど……」
「何てことなの、こんなこと初めてよ……! レンの家はここで合ってるわ、さあどうぞ!」
晴人の訴えには全く耳を貸すことなく、長髪の彼はそのまま晴人の手を引いて門を潜り、ズンズンと庭を突っ切っていく。
「だから手ぇ痛いって! てかアンタこそ一体誰なんだよ!?」
玄関の鍵を開けた彼は、そこで漸く気付いたように「アラ、ごめんなさい」と晴人の手を解放し、玄関ドアを開いて恭しく一礼して見せた。
「ようこそ、黒執家へ。ワタシはアリシア。レンは、ワタシの甥っ子なの」
「甥っ子? ……親は?」
「レンの親は訳あって多忙でね。おまけに海外暮らしなものだから、ワタシがこうして時々レンの世話役を仰せつかってるのよ」
入って、とアリシアに促されて足を踏み入れた玄関ホールは、外観を裏切らず、とてつもなく広かった。
映画なんかで、こういう豪邸でパーティーが開かれている光景を何度か見たことがある。
子供の頃物凄く憧れた、手摺りの滑り台が出来そうなカーブ階段に、高い天井から釣り下がっている豪華なシャンデリア。ただ、その立派なシャンデリアに明かりは灯っていない。
それどころか、屋敷の中には見渡す限り、何処にも明かりが点いておらず真っ暗だ。
「イヤだわ、レンったら。また明かりを切らしっぱなしにしてる。暗くてごめんなさいね、足元に気を付けて」
壁のスイッチを何度か触って明かりが点かないことを確かめたアリシアが、肩を竦め、手近な場所に置いてあったランタンへ火を入れた。懐中電灯ではなくランタンというところが、何とも浮世離れしている。
「……黒執、今居るんですか?」
こんな真っ暗な屋敷に、黒執はたった一人で居るんだろうか。
幽霊の類は信じていないし、ホラー系が特別苦手なわけではない晴人だが、この広い屋敷に暗闇の中たった一人で……というのは、さすがにちょっと心細い気がする。
けれどアリシアはあっさり「居るわよ」と答えて、慣れた足取りで階段を上がっていく。
「あの子が外に出て行くなんて、まず有り得ないもの」
「………?」
それは一体どういうとことだと晴人が尋ねる前に、アリシアは二階の廊下の突き当りにある部屋の前で足を止めた。
二階の廊下もやはり真っ暗で、月明かりのお陰で夜だというのに窓の外の方が明るく見える。
「レン、入るわよ」
言いながらコンコンと扉をノックしたアリシアは、中からの返答を待たずに扉を開けた。
その先の光景に、晴人は愕然とした。
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