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第4話
◆◆◆◆◆
五月に入り、GWも終わった一年A組では、席替えが行われた。
入学式の翌日からこれまでずっと空席のままだったレンの席は、誰が言うでもなく自然と窓際の一番後ろに配置され、晴人の席は廊下側の一番前になった。
未だに一度も登校してこないレンを、クラスメイトはいつしかもう噂にもしなくなっていた。
入学式の直後はその登校を心待ちにしていた女子たちも、今ではレンのことを口にすることはない。
そしてそれは、晴人も同様だった。
これまでずっと目の前にポツンとあった空席。
そこに本来座っているはずの人物が、入学式で倒れたことは覚えているのだが、その名前はもう思い出すことが出来なくなっていた。
「ずっと不登校のヤツが窓際の特等席って、何か狡ぃよなー」
昼休み。
隣の席から勝手に椅子を拝借してきて晴人の机でサンドイッチを齧りながら、大和が不満げに零した言葉に、晴人は「何のことだよ」と首を捻った。
晴人のその反応に、大和がサンドイッチを口に運ぶ手を止めて驚いた顔になる。
「何って……お前が前に言ってた、黒ナントカってヤツのことじゃん。先月から全然学校来てねーヤツ」
「黒ナントカ……?」
相変わらず首を傾げたままの晴人に、大和は「おいおい」と呆れた声を上げる。
「何だよお前、ちょっと前までそいつのフルネーム覚えてたクセに、GWボケかよ?」
「フルネーム……? そんなの、俺覚えてたか?」
「覚えてたし、何で休んでんのかとか、可愛い女子そっちのけで気にしてただろ」
大和に言われて、チラリと窓際の後方へ視線を向ける。
今日席替えをするまで、ずっと大和の前にあった、空っぽの机。
その内登校してくるだろうと思っていた生徒は結局入学式以降、今日まで一度も来ることはなく、彼が何という名前でどんな生徒だったのか、思い出そうとしてもぼんやりとした面影しか一向に浮かんでこない。
いつしか、晴人の目の前の席が空席であることはこのクラスの日常になっていて、その日常の中に、晴人も居たのではなかっただろうか。
「……大和の方こそ、夢でも見たんじゃないのか? そもそも俺は、そいつの名前も覚えてない」
晴人の席とは対角線上にある空席を眺めたまま答えた瞬間、チリ…と微かに胸の奧が痛んだ気がして、晴人はまた首を捻る。
……何だろう。
これまで特別気に留めていなかったはずのあの空席を見ていると、何かを忘れているようなもどかしさが込み上げてくる。
GWに入る前から、晴人はずっと大事なことを忘れているような気がしていて、けれどいくら思い出そうとしても、決して思い出すことが出来ずに居る。
一度はもう考えても無駄かと、思い出すことも諦めかけていたのだが、今大和の言葉を聞いて、再びそのもどかしい気持ちが蘇ってきた。
自分は一体何を思い出そうとしているのだろう。
(大和が言ってた、黒ナントカってヤツに関係あるのか……?)
そう思った瞬間、まるで晴人の思考を遮るようにズキリと鋭い頭痛が襲って、晴人は小さく呻いた。
「おい、晴人?」
こめかみを押さえて顔を顰める晴人を、大和が心配そうに覗き込んでくる。
目の前の大和に視線を移すと、痛みは何事もなかったように治まった。まるで誰かに、記憶や思考をコントロールされているみたいで気分が悪い。
「何か顔色悪ぃけど、大丈夫か?」
「……何でもない。ちょっと一瞬、頭痛がしただけだ」
まだどこか心配そうな顔を向けてくる大和に無理矢理笑顔を返して、晴人は遠くなった空席の存在から無理矢理意識を逸らすことにした。
(……一体、何がどうなってるんだ……)
窓の外は清々しい青空が広がっているというのに、晴人の頭の中は晴れることのない濃く重い靄に覆いつくされていた。
「……ただいま」
モヤモヤする胸の内を少しでも軽くしたくて、いつも以上に部活に打ち込み、疲れきって帰宅した晴人が玄関を開けると、キッチンから食欲をそそる匂いが玄関先まで漂っていた。
空ききった腹が条件反射の様に音を立て、晴人は思わず鼻を鳴らす。これは、二つ下の妹が好きな煮込みハンバーグの匂いだ。
匂いに誘われるようにリビングの扉を開けると、キッチンカウンターの向こうで夕飯の支度をしていた母と、隣で手伝っていたらしい妹が揃って「おかえり」と顔を向けてきた。
テーブルには、マカロニサラダやコーンスープなども並べられている。これらも全部、妹の大好物だった。
「なんかすげー豪勢……ってか、陽菜の好きなモンばっかだな」
何かあったのか、とカウンター越しに妹の陽菜へ問い掛ける。すると得意気に笑った陽菜に代わって、答えたのは母だった。
「陽菜がね、今度のバレエ教室の発表会で、『白鳥の湖』のオディール役に決まったの。だからそのお祝い」
「オディール?」
晴人が小さい頃からサッカーをしていたように、陽菜は同じく幼少からバレエを習っているのだが、バレエに関する知識が全くない晴人には、演目や役柄を言われてもピンと来ない。
『白鳥の湖』と聞くと、チャイコフスキーの有名な楽曲くらいなら何とか浮かんでくる程度だ。
そんな疎い兄のパッとしない反応に、陽菜は不満げに唇を尖らせた。
「もー、だからお兄ちゃんには絶対わかんないって言ったじゃん。あのね、オディールっていうのは『白鳥の湖』に出てくる黒鳥で、白鳥のオデットに次ぐ大事な役なの」
「何だ、『白鳥の湖』なのに白鳥の役じゃないのかよ」
「あのねえ、黒鳥は技術的に凄く難しい役なんだよ。三十二回転する見せ場だってあるんだから!」
黒鳥か、と黒い鳥の姿を思い浮かべたとき。またしても、晴人の記憶が何かを思い起こそうと疼き始めた。
(……黒い鳥……それが、何だっていうんだ……?)
しかしそれ以上考えようとしたところで、またもや昼間と同じ頭痛が晴人を襲って、あえなく思考が遮られる。
「……っ!」
思わず額を押さえてフラリと壁に寄り掛かった晴人に、陽菜が「お兄ちゃん!?」と驚きと心配の混ざった声を上げた。
「どうしたの、具合でも悪いの?」
母も料理の手を止めて、心配そうにキッチンから駆け寄ってくる。
そんな母を「大丈夫」と片手で制して、晴人は一度深呼吸してから体勢を立て直した。
「部活で張り切りすぎてちょっと疲れたから、今日はシャワー浴びてもう寝る。晩飯、余ったら明日の朝食うから冷蔵庫入れといて」
滅多に体調を崩すことなどないし、例え風邪をひいていても食欲だけは衰えない晴人を案じてか、母も陽菜も心配そうに晴人を見つめていたが、そんな二人に「大丈夫だから」と念押しして、晴人は足早に二階の自室へ飛び込んだ。
……やっぱり、何かがおかしい。
晴人の心は必死に何かを思い出そうとしているのに、見えない力がそれを頑なに邪魔している。
一体自分が何を思い出したくて、何がそれを邪魔しているのかはわからないが、晴人の思考が晴人自身の思い通りにならないことが、無性に我慢ならなかった。
(何だよ、クソ……! 絶対、思い出してやる……!)
襲い来る頭痛を捻じ伏せるように、晴人はギリ…と奥歯を噛み締めながら、苛立ちと共にベッドへ倒れ込んだ。
◆◆◆◆◆
翌日の一限目は音楽だった。
「今日皆に聴いてもらうのは、チャイコフスキーの『白鳥の湖』です。有名な曲だから、殆どの人は聞いたことがあるんじゃないかしら」
白髪交じりの音楽教師の選曲は、何の偶然なのか、昨日自宅で話題に挙がったばかりの楽曲だった。
昨日、晴人を襲った謎の頭痛を思い出して重い気分になった晴人の隣で、大和が「やべえ、俺寝そう」と呑気に欠伸を漏らしている。
「ご存じの通り、これは有名なバレエ音楽で、そのままバレエ作品のタイトルにもなっています。主役で白鳥に変えられてしまったオデットと、悪魔の娘で黒鳥のオディールは、プロの舞台では一人のバレリーナが正反対の二役を演じることも多いんですよ」
教師の説明の中にまた『黒鳥』という単語が出てきて、それを意識した瞬間、あの頭痛が襲ってくる。
(……だから黒鳥が何なんだよ……!)
ズキズキと疼くように痛む頭を押さえて耐えながら、晴人は目を伏せて考え続ける。
黒鳥……黒い鳥…………黒……鳥…………クロ……トリ……────。
(……クロトリ?)
胸の中でそう呟いた途端。
これまでぼんやりと霞がかっていた脳内に、人形のような美少年の姿がハッキリと思い浮かんだ。
ずっと晴人の頭の中を覆っていた霧が、一瞬にしてサアッと晴れていく。
「黒執レン……!」
気付いたときには、立ち上がってその名を叫んでいた。
教師を含め、隣で半分寝落ちていた大和や、クラス全員の視線が一斉に晴人に集中する。
「高坂君、どうかしましたか?」
驚いた様子で教師に問い掛けられ、しまった、と気まずさから言葉に詰まる晴人の隣で、大和が眠そうな目を擦りながら「やっぱ覚えてんじゃん」と呟いた。
覚えてたんじゃなく、どういう訳か忘れていたのを思い出したんだと言いたかったが、今はそれよりもっと大事なことがあった。
どうして今まで忘れていたのだろう。
あれだけ気になっていた、黒執レンの存在。
どうしても気になって、レンの自宅に押し掛けたこと。
オネエでレンの叔父さんだというアリシアに会ったこと。
レンが病欠でも何でもなく、単なる引きこもりだったこと。
それから────レンとアリシアが、どうやら吸血鬼らしいということ。
ずっと思い出せなかった記憶が、次から次へと一気に溢れ出て来る。
レンが吸血鬼の癖に血が嫌いだという話を聞いた後、アリシアに見つめられたら、確か身体の自由が聞かなくなって、抗えないままあの日のことは忘れるよう命じられた。
その言葉通り、自分は今日までレンに関する記憶も興味も、すっかり失ってしまっていたのだ。
……吸血鬼というのは、どうやら人間を自分の言いなりにする力を持っているらしい。暗示や洗脳のような類だろうか。
当然、晴人にはそんな力はないのでカラクリはよくわからないが、恐らくレンも、アリシアと同じ手段で、担任の谷川を言いなりになるようにしていたのだろう。
(勝手に人の記憶弄りやがって……!)
思い出した途端、ずっとモヤモヤしていた気持ちから一転して沸々と湧き上ってくる怒りに、晴人は机に広げていた教科書やペンケースを手早く掻き集めた。
「先生、俺頭と腹痛いんで、早退します」
「高坂君!?」
晴人の胸中など知らない教師が驚いて叫ぶ声も無視して、晴人は音楽室を飛び出し、教室に戻るとさっさと帰り支度をしてそのまま学校を後にした。
思えば正当な理由もなしに学校を勝手に早退するなんて初めてだ。
会ったら第一声は何て言ってやろうかと思いながら、晴人は以前訪れた屋敷を目指して駆け出した。
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