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第5話
「……腹……減った……」
握っていたコントローラーをゴトリとデスクの上に投げ出し、着けていたヘッドホンもその横に放り出して、レンはだらりとイスの背に身を沈めた。
閉め切ったカーテンの隙間から、陽が差し込んでいる。
吸血鬼であるレンは、太陽の光が苦手だ。
充分に人の血を吸っている吸血鬼なら、太陽光を浴びたところでどうということはないが、レンは大の血液嫌いで万年栄養失調気味の為、あの眩しい光を見るだけで、気分が悪くなってくる。
本来ならそんな太陽が出ている時間帯は一歩たりとも部屋から出たくはないのだが、全く吸血していないレンは、どうしてもすぐに腹が減ってしまうのだ。
デスクの上にはもう飲み飽きた大量の鉄分サプリしかない。
サプリではさすがに空腹感は満たせないので、レンは溜息と共に重い腰を上げると、フラつく足取りで自室の扉を開けた。
その途端、廊下の窓から容赦なく射し込んでくる陽射しがレンを襲う。
レンはいつも廊下の窓もカーテンを閉めておくのに、アリシアが来ると彼は必ず全てのカーテンを開け放して帰るのだ。
「くそ……アランのヤツ……」
一つ一つの窓のカーテンを閉めることすらもう億劫で、レンはなるべくその陽射しを避けるよう、壁際を沿うように歩いて階下へ降りた。
黒執家の台所には窓がないので昼間でも薄暗く、レンはホッと息を吐く。吸血鬼は夜目が利くので、特別明かりなんて必要ない。
冷蔵庫の扉を開けると、中には何も入っておらず、見事に空っぽだった。
引きこもりのレンはいつも好物のトマトやスイカやイチゴなどの野菜や果物をネットで取り寄せているが、そう言えばもう殆ど食べ尽くして、先日注文した分はまだ届いていなかったことを思い出す。
野菜室を開けると、辛うじてスイカが一切れだけ残っていた。取り出した貴重な最後の食糧であるスイカを、シンクに凭れかかるようにしてレンはちびちびと齧る。
ハウス栽培のこのスイカは、少々お高いが甘くてみずみずしくて、レンのお気に入りの一品だった。
空きっ腹に、スイカの甘い汁が染み渡っていくのがわかる。
この甘みを味わっている瞬間が、レンにとっては至高の食事タイムだというのに、悲しいかなこのスイカも、その他の野菜や果物も、吸血鬼のレンの栄養源にはなってくれない。
その上、本来血を欲する吸血鬼の空腹も、スイカ程度ではいくら食べたところで、ほんの一時しか満たすことは出来ないのだ。
どうして自分は吸血鬼になんて生まれてしまったのだろう。
人間だったら、野菜や果物だって充分栄養になるし、食べ続ければ充分満腹になるだろうに。
皮との境目まで綺麗に食べきって、レンは残った皮を生ゴミ入れに放り込んだ。
まだまだ腹は満たされないが、取り敢えず気休めくらいにはなった。後はサプリを飲んで、早く追加の食糧が届くのを待とう────そう思ってレンが二階へ引き返そうとしたときだった。
広い玄関ホールに、呼び鈴の音が鳴り響いた。
(……もしかして!)
きっと注文した食糧だ、と信じて疑わなかったレンは、青白い顔を思わずパッと輝かせて、玄関へ向かった。
良かった、これでまた暫くは飢えを凌げる。
ホッと安堵したレンは、扉の向こうに居るのは宅配業者の配送員に違いないと信じて疑わなかった。
だから、開いた扉の前に立っていた見覚えのある男子高校生の姿を見た瞬間、レンの頭は一瞬真っ白になって、石のように固まってしまったのである。
「……よお。この前はどうも」
少し不機嫌そうな声を寄越されて、ハッと我に返ったレンは、慌てて扉を閉めようとした。
ところがそれを相手も見越していたのか、レンが閉めるより一瞬早く扉を勢いよく押し戻されて、非力なレンは扉ごと呆気なく玄関ホールに跳ね返されてしまった。
「な……お前、何で……!?」
よろめきながら動揺するレンを嘲笑うように、晴人が遠慮なく扉を潜って家の中へと踏み込んできた。
日に焼けた全身に、レンの嫌いな太陽の匂いを纏って。
「か、勝手に入ってくるなよ! 訴えるぞ!」
「人の記憶勝手に弄ったお前が言うのか?」
怯むことなく反論しながら詰め寄って来る晴人に、レンはぐっと言葉に詰まって後退る。
(アランの洗脳が、解けてる……!?)
アリシアはあの日、確かに晴人の中からレンたちに関する記憶を消したはずだ。
現にその後、晴人はすんなり帰って行ったし、吸血鬼が人間をマインドコントロール出来るなんて知らなかったであろう晴人が、洗脳されたフリをすることなんて、出来るハズもない。
まともに吸血していないレンの洗脳が解けるならまだわかるが、普段から充分に吸血しているアリシアの洗脳が解けたなんて、これまで一度も聞いたことがないのに────
そもそも仮に洗脳が解けたとして、またしても自分から吸血鬼の元を訪れるなんて、一体この男は何を考えているのだろうか。
晴人との距離が縮まるにつれて、鼻をつく太陽の匂いが強くなる。
「……一体何なんだよ、お前……!」
目の前の男の考えが全くわからず、ましてや日頃から引きこもりで他人と極力接点を持たないようにしているレンは、得体の知れない恐怖を感じて咄嗟に自室へ逃げようと踵を返した。
「おい、待てよ!」
急いで階段を駆け上がるレンを、晴人が信じられない速さで追って来る。
傍から見れば、単純に引きこもりとスポーツマンの運動能力の差だったのだが、今のレンにはそんなことを冷静に判断する余裕はなかった。
(追いつかれる……!)
どう考えても自室まで逃げきることは不可能だと判断して、レンは階段を上がった目の前にある部屋へと飛び込んだ。
そこは黒執家の書庫だ。
もうとっくに全ての蔵書は読み終えてしまって最近は出入りしていないので、随分と埃っぽい。
駆け込んでから、そういえばこの部屋の扉には鍵がついていなかったことを思い出して、レンは青褪めた。
全身で凭れかかるようにして抑えた扉を、外から容赦なく叩かれて扉が大きく震える。
「開けろよ、黒執!」
ドンドンと扉を叩く傍ら、晴人がガチャガチャとドアノブを回す。
「うるさい! さっさと帰れよ! 帰れ……!!」
最早最後は祈るような思いでレンは叫んだ。
すると、散々喧しく扉を叩いていた音がピタリと止んだ。やっと退いてくれる気になったのだろうかと、レンは安堵しかかったのだが。
「……どうしても開けないんだな。────だったら、ちょっと離れてろよ」
「え……?」
扉越しに聞こえた言葉の意味がわからず、嫌な予感にレンが聞き返したその直後。
ドシン!、と勢いよく晴人が身体ごと扉に突っ込んで来て、強引に押し開けられた扉にレンは見事に本の山の上へとふっ飛ばされた。
「うわ……っ!」
倒れたレンの上に、更にドサドサと周囲から本が降り注いできて、もうもうと埃が舞い上がる。
それをまともに吸い込んでゴホゴホと咳き込むレンへ、「大丈夫か?」と扉をぶち破った張本人が呑気に問い掛けてきた。
「大丈夫なワケあるか! 帰れって言っただろ、このゴリラ!」
腹立ち紛れに、レンは手近な本を片っ端から晴人に向かって投げつける。
有り得ない。
こんな人間見たことがない。
こいつが何を考えているのか、全然わからない。
晴人がどうしてこうも執拗に構ってくるのかもわからず、レンは晴人に向かって手あたり次第、本を投げ続けた。
飛んでくる本を軽い身のこなしでヒョイヒョイとかわしながら、「おい、危ないだろ」と窘める言葉と共に晴人が歩み寄ってくる。
そうして気が付けば、晴人はレンの目の前に立って高い位置からジッとこちらを見下ろしていた。
「引きこもりの吸血鬼に、ゴリラ呼ばわりされる筋合いはない」
「だからお前に関係ないだろ!? 何でわざわざウチに来るんだよ!? 俺のことなんか放っとけって言っただろ!」
「あんな話聞かされて、おまけに勝手にその記憶も弄られて、黙ってられるか」
「お前にとっても、その方が都合イイだろ!? 俺は吸血鬼で、お前は人間。本来関わるべき相手じゃない」
「だけどお前は、ウチの学校の生徒で、俺と同じクラスだろ。無関係じゃない。大体、俺の都合をお前が勝手に決めるな」
「……────っ!」
一向に引き下がる気配のない晴人を、追い返す術が思い浮かばない。
……こうなったら、もう一度自分が晴人を洗脳するしかない。
アリシアの洗脳すら解かれているので効果があるかはわからないが、一時でも効いてこの場は立ち去ってくれれば、あとはもう二度とこの家に入れなければ良いだけの話だ。
吸血鬼が人間をマインドコントロールするには、相手に自分の目を見つめさせる必要がある。
ろくに食事も摂っていないので上手く力が入らない腕を伸ばして、レンは晴人の手首を掴んで引っ張った。
不意を突かれた晴人がよろめいて、レンの前に片膝をつく姿勢になる。
それでも小柄なレンと高身長の晴人とでは目線の高さがかなり違ったが、これくらいの距離なら恐らく問題ない。
そうしてレンが目を覆いかけている自身の前髪を掻き上げた瞬間。
「おっと」と何かに気づいたような声を上げた晴人が、空いた手でレンの細い手首を捕らえた。
えっ、と驚いている間に、晴人がレンの手を振り払う。その手に頤を掴まれ、抗う間もなく強引に顔を背けさせられた。
「……っ!?」
愕然とするレンの顎を固定したまま、晴人が呆れたような息を吐く。
「言ってる傍から、また俺のこと言いなりにする気か? この前もアリシアの目を見たら身体が動かなくなった。お前ら吸血鬼は、そうやって相手を自分たちの言いなりにするんだろ? ……谷川先生みたいに」
(……洗脳の方法まで理解してる。ホントに完全に、アランの洗脳が解かれたんだ……)
絶望感と、追い詰められた恐怖感で、レンの指先が微かに震える。
……どうしよう。どうしたら良い?
自分自身に問い掛けても、そもそも人間とまともに関わったことがないレンに答えが出せるはずもない。
アリシアは今日から三日間、私用で出掛けるのでここには来ないと言っていたから、頼ることも出来ない。
「安心しろよ。別にお前が吸血鬼だとか、周りに言いふらしたりするつもりはないから」
「……だったら、ホントに俺に何の用なんだよ」
「それがわからないから来てるんだ」
「は……?」
思わず間の抜けた声で聞き返すレンの顔は相変わず抑えたまま、晴人は小さく息を吐いた。
「どういう訳か、お前のことが無性に気になるんだよ。この前ここに来た理由もそうだ。自分でも、どうしてなのかは正直わからない」
それはつまり、レンが吸血鬼だと知る前から気になっていた、ということだろうか。入学式の、たった一日しか登校していないのに?
「……入学式で、俺が倒れたから?」
「いや、そうじゃない。まあ確かにアレも強烈だったけど、お前、見た目もかなり印象的だったから。前髪、もっと切れよ。折角綺麗な顔してんのに勿体ないだろ」
レンは晴人の名前どころか顔さえ覚えていなかったというのに、そんな相手にサラリと小っ恥ずかしい台詞が吐ける理由が益々わからない。
こんな引きこもりで、おまけに吸血鬼の自分と関わって、この男に何の得があるというのだろう。
仮にレンが吸血鬼ではなかったとしても、いかにも太陽の下で走り回るのが好きそうな晴人とレンとでは、どう考えても相容れない気がする。
他人と、ましてや人間と深く関わるなんて、レンには恐ろしくて到底考えられない。
埃っぽい空気に混じって、さっきからずっと太陽の匂いがレンの中に入って来る。
直接日光を浴びているわけではないのに、まるでレンまで太陽の下に居るような気持ちになる匂い。
この匂いに引き込まれたら、何だか二度と戻れないような気がして、レンはギュッと目を閉じると、顎を捕らえた晴人の手から逃れるように大きく頭を振った。
「あっ、おい!」
「お前の記憶はもう弄らない! だから今すぐ帰れ! 俺は誰かと関わるとか、ゴメンなんだよ!」
半分は自分自身に言い聞かせるようにそう叫んで、レンは落ちて開きっぱなしになっていた本を目の前の晴人に向けて思いっきり投げつけた。
怯ませてその隙に逃げる目的で投げつけたのだが、本を咄嗟に手で受け止めた晴人が小さく呻く声を聞いて、思わず立ち上がるタイミングを逃してしまった。
「お前……さっきからいい加減にしろよ。本は投げるモンじゃないだろ」
紙で切れた、と顔を顰める晴人の指先に一センチほどの切り傷が出来ていて、そこからツ…と鮮血が一筋伝い落ちる。
────その瞬間。
レンの鼻先を、これまで嗅いだことのない、強く甘い香りが掠めた。
同時にドクン、と心臓が大きく脈を打つ。心臓というよりも、レンの中の本能がドクドクと騒いでいる感じだった。
「黒執、お前ン家、絆創膏あるか?」
問い掛けて来る晴人の声も耳を素通りする。
無意識に身を乗り出して近付くと、晴人の指を伝う血液から漂う甘い匂いは一層強くなった。
(……なに、この匂い……)
頭の芯が痺れて何も考えられなくなりそうな、こんな強い匂いは嗅いだことがない。
熟した果実よりも、もっとずっと甘い芳香────
目の前の景色が色褪せて、晴人の指から伝う血液だけが、妙に鮮やかに映る。
「……黒執?」
怪訝そうに名を呼ぶ晴人を気にも留めず、レンは誘われるように晴人の手を取ると、その傷口へ顔を寄せ、そっと舌を這わせた。
ビクリと驚いた様子で手を引っ込めようとする晴人を制するように、レンはその手首をありったけの力で掴む。
舌で味わった晴人の血は、これまで食べたどんなに熟れた野菜や果物よりも甘くて、舌が蕩けるほど美味しかった。
さっき、甘いと思って食べていたスイカが、ただの水に思えるほどに。
……こんな血の味は知らない。
今まで無理矢理飲まされた、どんな血の味とも違う。
そもそも血を飲んで美味しいと思ったことなんて、一度もないのに。
(……もっと……もっと飲みたい……)
身体の奧から勝手に沸き起こって来る欲求が抑えきれず、気付けばレンは晴人の指先へ鋭い牙を突き立てていた。
「痛……っ! おい、黒執……!!」
噛み付いた箇所から溢れてくる鮮血を無心に啜るレンの肩を、晴人が掴んで強く揺さぶる。
ありったけの力で身体を押し返されて、そこでやっとレンもハッと我に返った。
自分は何をしているんだと、呆然とする頭で、慌てて晴人の指を解放する。
「黒執、お前……」
レンに噛まれた手を押さえながら、晴人が動揺の滲む声音で呟いた。
その指先に、レンの遺した噛み跡がくっきりと残っていて、そこから血が伝い落ちている。
自分から吸血したのなんて、父親から初めて吸血の仕方を教わって、「不味い」と思った幼少のとき以来だった。
けれど、今レンの口内にハッキリと残っている晴人の血の味は、そのときのものとは全く違う。
甘くて、思考が蕩けるようで、出来ることならいつまでも味わっていたいほどの美味しさ。
「お前、血が嫌いなんじゃなかったのか……?」
────そうだ。
ずっとずっと、血なんて大嫌いだった。
身体がもたないからと、これまで幾度となく無理矢理飲まされてきたが、毎回毎回、不味くて苦痛で堪らなかった。
血を飲まなくても生きていられる身体になりたいと、何度も願った。
血が苦手なお陰で満足に動けないから、外に出ることも煩わしくなった。
自分はきっと、薄暗い部屋の中で、その内じわじわと衰えて死んでいくのだろうと、そんなことさえ考えていた。それなのに……。
「……んでだよ……」
「黒執……?」
「……何でお前の血だけ美味いんだよ!?」
何がなんだか自分でも訳がわからなくなって、レンは弱々しい力で目の前の晴人の身体を押し返すと、今度こそ書庫を飛び出した。
少し出遅れて追ってきた晴人を何とか振り切って自室に飛び込み、扉に鍵をかける。
何で。何で。何で…────!
忘れようとしても、晴人の血の味がいつまでも口の中に残って消えてくれない。
「黒執!」
レンの部屋の扉をノックしながら何度も呼ぶ晴人の声が聞こえたが、無視してベッドに飛び込み、頭から布団を被った。
それから何分ほど、晴人はレンを呼び続けていたのだろう。
随分経って声が聞こえなくなり、やがて扉の前から晴人の気配が消えても尚、レンの舌には忘れがたい甘さがずっと残っていたのだった。
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