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第6話
◆◆◆◆◆
「……これも……違う……」
ベッドの上。
布団に包まったまま、ネットで新たに取り寄せた高級イチゴを一口齧ったレンは、齧りかけのそれを床に並べた皿へポトリと落として返却した。
イチゴは元々レンの好物で、しかもこのイチゴは一粒五千円もしたかなりの高級イチゴだ。
さすがに飛びぬけた価格だけあって、それに見合った甘さはあったのだが、レンが求める味には程遠かった。
以前のレンなら、きっと充分満足出来たであろう味だったのに───
晴人が、どういう訳かアリシアの洗脳を破って再びレンの元を訪れたあの日から、一週間が過ぎた。
その間に、レンは全国片っ端から最高級のトマトやスイカやイチゴを取り寄せてみたのだが、どれもそれなりに美味しいとは感じたものの、これまでのようにレンを幸せな気持ちにしてくれる味ではなかった。
当然、空腹も一向に満たされない。
それもこれも、あの日晴人の血をうっかり味わってしまったからだ。
思い出すだけで、あのとき味わった晴人の血の甘みが口の中に蘇ってくるほどで、同時にとてつもない空腹感が襲ってくる。
レンは布団の中で小さく丸まって、ギリ…、と奥歯を鳴らした。
これまでずっと、好物の野菜や果物だけで飢えを凌げていたのに、あの日を境に、何を食べてもレンの身体は満足してくれなくなった。
決して認めたくないが、恐らくレンの身体は、晴人の血を求めているのだ。
人間の血なんて今まで一度も美味いと思ったことなどなかったのに、何故か晴人の血だけはレンがこれまで口にしたどんなものよりも甘くて美味しくて堪らなくて……。気が付けば、レンは我を忘れて自ら啜ってしまっていた。
あの日、レンはスイカを一切れ食しただけだったので、もしかしたら空腹の所為で偶然晴人の血が美味しく思えただけなのかも知れないと、必死で自分に言い聞かせようとした。
けれど晴人の血を飲んだ三日後、「お裾分け」とアリシアが持ってきた何処かの誰かの血を少しだけ口にしてみたら、やっぱりそれは恐ろしく不味くて、レンは一口舐めただけで突き返した。
そのときにアリシアとはちょっとした口論になり、結局晴人とのことは何も話せなかったのだが、今思えばやはりアリシアにはちゃんと相談しておくべきだったのかも知れない。
レンが無心で血を吸ったあのとき、もしも晴人が制止していなかったら、一体どうなっていたのだろう────そう考えると恐ろしくて、レンは布団を被ったまま更に縮こまった。
吸血鬼の癖に、血を求めることを恐れている自分はどうかしていると頭ではわかっている。わかってはいるけれど、こんな風に一向に消えない空腹感と、またあの自我を失うほど甘い血を啜りたいという欲求に絶え間なく襲われるのは初めての経験で、レンはそんな自分自身を持て余していた。
空腹感が酷いお陰で、ここ数日は満足にゲームも出来ず、デスクの上ではPCモニターのスクリーンセーバーが虚しく働いている。
ずっとこのまま居たら、いよいよ自分は息絶えるのだろうか。
これまで大して生きることに意欲的でもなかった癖に、そう意識した途端背筋が震えて、レンは自身の意気地の無さに思わず失笑した。
可笑しくて笑えて……泣けてくる。
こんなとき、ずっと他人と関わることを避けてきた自分には縋りつける相手も居ない。
自業自得なのは充分わかっているけれど、それでも助けを求めずには居られなかった。
「……アラン……っ」
数日前に散々憎たらしい言葉を吐いて怒らせてしまったが、今のレンには一番身近な存在である叔父の名を呼ぶ。
(……助けろよ……)
ギュ、とレンが自身を包む布団を握り込んだとき。
「ちょっと……随分萎らしい声が聞こえたと思ったら、どうしたのコレ」
ガチャリと部屋の扉が開いたかと思うと、続いて室内の惨状に驚いたアリシアの声がして、レンは思わず布団から飛び出した。
ベッドの上で跳ね起きて、そのままアリシアの長身に飛びつく。
「ちょっ……! 何なのよ一体?」
よろめきながらも何とかレンの身体を受け止めてくれたアリシアが、甥の異変に気付いて一先ずその背を抱いてくれる。
そうしながら、改めて床一面に散らばったイチゴやトマトやスイカが載った皿の数々を見渡して、アリシアは小さく溜息を零した。
「こんなに沢山……一度に食べる気だったワケ? いくら好物だからって、お腹壊すわよ。もしかして、それで寝込んでたの?」
幼い子供を宥めるようにレンの癖っ毛を優しく撫でながら、呆れた様子で問い掛けてくるアリシアに、レンはしがみついたままフルフルと首を振った。
「……どれも、駄目なんだ……」
「え?」
「……どれも美味いのに、駄目なんだよ」
「駄目って……何が駄目なの?」
「……アイツの、血じゃないと……!」
空ききった腹から声を絞り出してアリシアの服の背を握り込むと、レンの髪を撫でていた手がピタリと止まった。
「アイツの血……?」
レンの言葉を繰り返したアリシアは、綺麗に描かれた眉を寄せ、レンの両肩を掴んで詰め寄るように身を屈めた。
「待って。……アンタ、誰かの血を飲んだの?」
数日前、アリシアが持ってきてくれた血を思いっきり拒んだ経緯があるのでレンは一瞬返答に詰まったが、観念してコクリと小さく頷き返した。
それを見たアリシアが、驚いたのか呆れたのか、わからない息を吐く。
「……あれだけ誰の血も受け入れなかったレンが……信じられないわ。どういう風の吹き回し?」
「俺だってわからない……」
「わからないって、一体いつ、誰の血を飲んだの?」
「……一週間前。アイツが、またウチに押し掛けて来て……」
「一週間前って、ワタシが血を持ってきてあげたときよりも前じゃない。それに『アイツ』ってまさか、アンタのクラスメイトだって言ってたあの子のこと?」
再び小さく頷いたレンに、さすがのアリシアも事態を把握しきれないのか、額に手をやって深い溜息を零した。
足元に散らばった皿を器用に避けてベッドに腰掛け、長い脚を組んでレンへと向き直る。
「彼の記憶は、ワタシが確かに消したはずよ。アンタへの関心すら既に無くなってるはず」
「でも全部思い出してた! 俺のことも、アランのことも。……アラン、ちゃんと洗脳出来なかったんじゃないのか?」
レンの問いに、アリシアが整えられた眉を吊り上げる。
「馬鹿言わないで。まともに血を吸ってないアンタじゃあるまいし、ワタシの洗脳が解かれたことなんて、これまで一度もないわよ」
「じゃあ何で、アイツは俺たちのこと思い出したんだよ!?」
「そんなの、ワタシが聞きたいわ。その理由も気になるけど……彼の洗脳が解けたことは一旦置いておくとしても、どうして血が嫌いなはずのアンタが、彼の血を吸おうと思ったの?」
「そんなの、俺が聞きたい!」
気付けばお互い全く同じ答えを言い合っていることに気付いて、アリシアが先に小さく笑い、レンにも座るようベッドを叩いて促した。
空腹で足元が覚束ないレンは、素直に従ってアリシアの隣にポスン、と腰を下ろす。
「……アイツを追い返そうとしてたらアイツが指を怪我して……そのとき出た血から、凄くイイ匂いがしたんだ」
自分は血が嫌いなのだということさえ呆気なく忘れてしまうほど、蠱惑的な匂い。
まるで自分が、花の蜜に誘われる虫にでもなったみたいだった。
レンが求めたんじゃない。レンの本能が、あのときは完全にレンの意識を支配していた。
そのときの状況をポツポツと語ると、聞き終えたアリシアは「なるほどね……」とまた一つ溜息を吐いて天井を仰ぎ見た。
「つまり、それ以来アンタは彼の血の味が忘れられないワケね。……まったく、どうしてこの前来たときに話さなかったのよ」
「だって、アランが不味い血を飲め飲めって押し付けるからだろ」
「あのときの血が不味かったってことは、どうもアンタが受け付けるのは、彼の血だけってことみたいね」
(……アイツの、血だけ……)
一週間前、初めて間近で見た晴人の顔を思い出し、彼の纏う目が眩むほどの太陽の匂いも思い出して、レンの胸が小さく疼いた。
どうして、彼なのだろう。
どうして晴人は、アリシアの洗脳を破って、再びレンの元に辿り着いたのだろう。
どうして……。
考えても考えても理由はわからず、それどころか晴人の存在を思い出すだけでレンはまた耐え難い空腹感に見舞われる。
辛くて苦しくて、すぐ傍の肩につい寄り掛かると、気づいたアリシアが一度レンの肩を抱いた後、その手を青白い頬へ滑らせた。
「前よりずっと、顔色が悪いわ。だから言ったでしょ。ワタシたち吸血鬼は、人間の血がないと生きていけないの」
「でも、何でアイツだけ……?」
「それは……ワタシにもわからないわ。でも、吸血鬼としては異常と言ってもいい偏食家のアンタが『美味しい』と思う血の持ち主なんだもの。アンタにとって、何か特別な相手なのかも知れないわよ。運命なんて言葉、ワタシはあんまり信じてないけど、ひょっとしたら、そういうものもあるのかしらね」
だとしたら少し羨ましいわ、とアリシアは苦笑交じりに呟いて、レンの身体をベッドへ横たえた。
「取り敢えず、アンタは少し横になってなさい。血を求めるのは吸血鬼の本能だもの。それに抗うのは容易じゃない。……彼のことは、どうするか少し考えてみるわ」
「どうするかって……またアイツの血、飲むのか!?」
指先からほんの少し溢れた血を舐めただけで我を忘れてしまったくらいなのに、晴人の血をまともに吸ったら今度こそどうなってしまうかわからない。
けれどレンの最奥でずっと疼いている本能は、もう一度あの血を味わうことを望んでいる。
不安と欲求の狭間で揺らぐレンの心中を察したように、アリシアはくしゃりとレンの髪を掻き混ぜて笑った。
「らしくない顔しないの。アンタは憎たらしくて丁度いいんだから。……それに言ったでしょ? ワタシはあの子なら、レンを何とかしてくれる気がするのよ」
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