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第8話

 ギィ…と重く軋んだ音を立てて、玄関の扉が開く。  晴人が初めて訪れたときと同じく、屋敷の中は真っ暗で、明かりは一切点いていない。  ただ一つ違っていたのは、そこかしこに、スイカやイチゴやトマトの絵が描かれた段ボール箱が、いくつも置かれていることだ。  恐らく偏食家であるレンの貴重な食糧なのだろうということは推察出来たが、これだけ食べてもやはり血がないと駄目なのだろうか。  暗い為、足元の段ボール箱に躓かないよう慎重に進みながら、晴人は二階へと続く階段を上がる。  二階もやはり真っ暗で、廊下は怖いくらいにシンと静まりかえっていた。  まさかもう既に手遅れだったりしないだろうなと、若干の焦りを感じて、晴人は少し歩調を速めて突き当りのレンの部屋の前までやってきた。  これで扉を開けたとき、以前のようにPCモニターに囲まれてゲームに没頭している少年が居たら、今度は一発くらい殴ってやろう────そう心に決めて、晴人はドアノブに手を掛けるとゆっくりと扉を押し開けた。  真っ暗闇の部屋で、煌々と光る複数のPCモニター。  一瞬、やはり騙されたのか!?と乗り込みかけた晴人だったが、よく見るとデスクの前のイスは空っぽだった。  レンが使っていたヘッドホンやコントローラーも、デスクの上に無造作に置かれている。  そして何より晴人を驚かせたのは、床に置かれたスイカとイチゴとトマトの数々だ。  それらが載った皿が、足の踏み場もないくらい、床に点在している。しかもよく見ると、どれもほんの少し齧った痕がある。  一階にあった無数の段ボール箱といい、一体これは何事だと踏みとどまっていた晴人の耳に、「……アラン……?」とくぐもった弱々しい声が聞こえてきた。  声のした方へ目を凝らすと、壁際のベッドの上で、布団がこんもりと盛り上がっている。  どうやらこの部屋の主は、今日は布団の中に引きこもり中らしい。  取り敢えずまだ息があったことにホッとしつつ、晴人はつま先立ちで皿の間を縫って進み、何とかベッドに辿り着いた。 「……黒執?」  少し躊躇いがちに晴人がそう呼び掛けた瞬間。  ビクッ、と布団の芋虫がベッドの上で大きく跳ねた。 「何でまたお前が居るんだよ!? アランは!? アラン……!!」  布団の中から、今度はくぐもった憎まれ口が飛んでくる。  何だ、思ったより元気じゃないかと、晴人は布団に手を掛け、ありったけの力で一気に布団芋虫の皮を剥ぎ取った。 「……ッ!!」  突然布団を剥ぎ取られたレンが、身を縮こまらせて声にならない悲鳴を上げる。  その姿を見て、晴人も思わず小さく息を呑んだ。  憎まれ口を叩ける元気があるならそう深刻でもないのではと思ったのだが、布団の中から現れたレンは、たった一週間ほど前に見たときよりも随分と痩せていた。  元々華奢な体つきだったのが、今は骨が浮き出るほどになっている。顔も、暗がりでもわかるほどやつれてしまっていて、折角の小綺麗な顔が台無しだった。 「……お前、どうしたんだ、それ……」  愕然と呟く晴人から必死な形相で布団を奪い返して、レンは再びその中へ潜ってしまった。 「帰れよ……早く帰れ……!」  帰れ、と繰り返す声にも、先週のような覇気がない。  改めて、アリシアの言葉が冗談などではなかったのだと実感して、晴人はそこで初めて恐怖を覚えた。  吸血鬼に対する恐怖でも、血を吸われることへの恐怖でもない。  ────目の前に居るレンが、本当に死んでしまうのではないかという恐怖だ。  小さく身震いした晴人は、咄嗟に布団の上からレンの細い両肩を掴んだ。 「誰が帰るか。……アリシアが言ってた。お前、俺の血が要るんだろ? だったらくれてやるから飲めよ」 「うるさい! お前の血なんか要らない! 飲まない!」  布団の中、力なく抵抗を示してレンが身を捩る。  血が嫌いだと言いながら晴人の血を一度は求めた癖に、頑なに拒絶するレンに、次第に苛立ちが込み上げてくる。  晴人はアリシアの洗脳を破ってでも、レンのことを思い出したというのに、そのレンにこのまま死なれるなんて堪ったものじゃない。  何とか手はないか…と室内を見渡したところで、デスクの端に置かれたハサミが目に留まった。長身を活かして腕を伸ばし、そのハサミを掴み取る。 「お前が飲まないって言うなら、俺が手首でもどこでも切って、無理にでも飲ませてやる。別にどこから飲んでも変わらないんだろ?」  そう言って晴人がハサミを握り締めると、ビクリと再び身を震わせたレンが「やめろ!」と慌てた様子で布団から顔を出した。 「ホントに駄目なんだよ……! 頼むから……帰って……!」  力のない腕が、ハサミを握る晴人の手を制するように掴む。その指先は驚くほど冷たく、おまけに小さく震えていた。  倒れた入学式の日でさえ、レンには青白いながらも何処か力強いオーラがあったのに、今晴人の目の前で震えるレンは、まるで別人のように弱々しく見える。見ている方が、痛々しくなってくるくらいだ。 「何が駄目なんだよ。俺が飲めって言ってるんだから、問題ないだろ」 「だから、それが駄目なんだ……! ……お前が拒んでくれなかったら、俺はどうなるかわからない……!」 「どうなったって、死ぬよりマシだろ!」  苛立ち紛れに、晴人はレンの手を振り払うと、持っていたハサミをレンの顔のすぐ傍へと突き立てた。  ────どうにかしてレンを助けたい。  そう思っているのに、その心が伝わらないもどかしさに腹が立つ。  晴人の行為に怯えてなのか、それとも観念したからなのか。暗闇でも淡く銀色に光るレンの瞳に、じわりと涙が溢れた。 「……何で……帰ってくれないんだよ……。今ならまだ間に合うのに……。お前の為に言ってるのに……っ!」  この日初めて晴人の顔を見上げたレンの、眦から伝い落ちる涙を見た瞬間。  晴人は衝動的に、レンの身体を抱き竦めていた。  少し力を加えれば、呆気なく折れてしまいそうなくらい細い身体。  その身体が腕の中で強張るのがわかって、晴人はレンの後頭部へ手を添えると、自身の首筋へ促した。  それでも尚レンが抗おうとしたので、ほんの少しだけ力を込めて抑えつける。 「……俺の為って何だよ。前にも似たようなこと言っただろ。俺のやりたいことは、俺が決める。俺はお前を死なせたくないから、血を飲ませる」  首筋は吸血鬼にとって最も魅惑的といっても良い場所であることを、当然晴人はこのとき知らなかった。ただ何となく、吸血鬼と言えば首筋から血を吸うイメージが強かったので、レンの口をそこへ誘導しただけだった。  レンが、晴人の身体を押し返そうとしながらも、首筋でゴクリと喉を鳴らした。 『レンは、未だにアナタの血を吸うことを迷ってるの』   別れ際、アリシアの言っていた言葉が蘇る。  ────そうか。  晴人の心が伝わっていないワケじゃない。  レンもまた、晴人を思って葛藤しているのだ。  ここまで衰弱してしまうほど一人で耐えていたレンが酷く健気に思えて、晴人は最後の一歩を後押しするように、自らレンの口許へ自身の首筋を押し当てた。 「馬鹿……」という呟きと一緒に、温かい水滴がポタリと晴人の首筋に落ちてくる。  その直後、首筋に鋭い痛みが走った。 「……っ」  思わず呻いた晴人だったが、痛いと感じたのはほんの一瞬で、覚悟していたこともあってか、痛みはすぐにじわりと痺れるような感覚に変わった。  これまでの飢えを満たそうとするように、レンは夢中で晴人の血を啜っている。  吸う前は押し返そうとしていた手も、いつの間にか「もっと」と強請るように、晴人の制服の胸元を握り込んでいた。  前に血を吸われたときは短い時間だったこともあってよくわからなかったが、レンに血を吸われていると、頭の芯がぼうっと熱に浮かされたようになってくる。  何も考えず、ただ感情の赴くままに身を任せたくなるような……。  これも、吸血鬼が血を吸う際、抵抗されない為の手段なのだろうか、とぼんやり考えながら、晴人は目の前のレンの髪に無意識に指を梳き入れた。  色素が薄く、ブロンドというよりは銀髪に近いレンの髪は柔らかく、仄かに甘い香りがして、いつまでも触れていたくなる。  離しがたくてついついレンの髪を弄り続けていた晴人の首筋から、レンがゆっくりと顔を上げた。  満足したのかと思いきや、角度を変えて、レンは再び晴人の首筋に噛み付いてきた。 「い……っ! ちょ、おいコラ! 黒執……っ!」  今度は晴人の方がレンの身体を押し返そうとするが、レンは晴人の項に腕を絡め、一向に離れようとしない。  血をやるのは構わないのだが、さすがに首を穴だらけにされるのは困る。 「黒執! よせ、ストップ!」  華奢な肩を掴んで半ば無理矢理レンの身体を引き剥がす。  すると、唇を晴人の血で真っ赤に染めたレンは、まだどこかとろんとした様子で晴人に縋りつこうと腕を伸ばしてきた。  晴人の血が、どうして血が嫌いだというレンの口に合ったのかはわからないが、一度味を占めた偏食家の吸血鬼の執着はなかなか恐ろしい。  よく見ると、さっきまであれだけやつれていたレンの顔色は、相変わらず色白ではあるが、入学式の日よりもずっと健康的に見えた。  たった一回血を吸っただけでこうも変わるものなのかと、晴人は思わず感心する。 「黒執……黒執!」  まだ晴人の首筋に顔を寄せようとするレンの肩を数回揺さぶると、漸くそこでレンは正気に戻ったようだった。 「あんまり首に穴開けられると、さすがに部活のときに目立つから止めてくれ」  晴人の訴えを聞いて、自分が晴人の首に完全に抱き付いていることに気付いたらしいレンは、大慌てでベッドの端に飛びずさった。 「……わ、悪い……」  気まずそうに謝ったレンが、ベッドの隅っこで両脚を抱えて丸くなる。PCモニターに照らされたレンの顔が、初めて赤味を帯びた瞬間だった。  そんなレンを、素直に可愛いと思ってしまった自分は、どこかおかしいのだろうか。 「……だから、駄目だって言ったのに……」  さっきまであれだけ夢中で晴人の血を求めておきながら、今更自己嫌悪に陥っているらしい吸血鬼の姿に、晴人は思わず噴き出す。 「顔色、だいぶ良くなったな。少しは腹膨れたか?」 「……お前の血、飲むと止まらなくなるんだ」  だから困る、とレンはボソボソと呟く。 「俺はお前に死なれる方が困る」  キッパリとそう言った晴人に、チラリと一度視線を向けたレンは「変なヤツ」と呟いてから、小さなボトルを投げて寄越した。  胸の前でキャッチしたそれは、恐らくこれまでレンが飲んでいたであろう鉄分サプリだった。 「俺、今日結構お前の血飲んだから、多分お前の方が、それ必要だと思う」  言われてみれば、さっきから動く度に少しフラつくような感じがする。  散々帰れ帰れと悪態をついておきながら、何気に晴人の身体を気遣ってくれるレンに、思わず笑みが零れる。  レンは憎まれ口ばかりの引きこもりだが、きっと根は悪いヤツじゃない。だから我が儘な問題児でも、アリシアだって放っておけないのだろうと思った。 「じゃあこれからは俺がサプリ飲むから、黒執は俺の血飲んで、ちゃんと学校来いよ」 「が、学校なんか、行くとは言ってないだろ!」 「俺が居なきゃ、死にそうになる癖に」 「なっ……! さっきのは、お前が無理矢理────」 「途中から我忘れてガジガジ俺の首噛んでたのは、どこの誰だよ。あと、『お前』じゃなくて、『高坂晴人』」 「……────っ!」  言い返す言葉に詰まるレンの、まだ血のついた口元を指先で拭って、晴人は少し意地悪く笑う。 「そんなに俺の血、美味かったか?」  揶揄うように問い掛けると、すっかり元気を取り戻したらしいレンから「帰れ!!」と枕が飛んできた。  どうやら偏食家の吸血鬼を手懐けるのは、まだまだ長い道のりらしい。  晴人とレンの運命の歯車は、まだようやく、噛み合ったばかりである。

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