10 / 31
第9話
◆◆◆◆
部活の後、帰り道で大和と別れた晴人は、苛々とした足取りで、陽も落ちかけた住宅街を歩いていた。
この辺りは晴人の自宅の近所ではないが、それでも迷わず突き進めるのは、目的地を訪れるのがもう四度目になるからだ。
「……くそっ、あれだけ言ったのにアイツ……!」
思わず口に出して毒吐き、舌打ちしながら角を曲がると、路地の先に晴人が目指す大きな屋敷が見えてきた。
入学式以降、ずっと不登校を決め込んでいる晴人のクラスメイト、黒執レンの家だ。
本当なら、レンの『不登校』の肩書きも今日で消えるはずだった。少なくとも、晴人の中ではその予定だったのだ。
晴人の血に飢えてやつれきっていたレンに血を与え、その身を救ってから土日を挟んだ月曜日。
血を飲ませた後、血をやったのだからこれからはちゃんと学校に来るようにと、レンに忠告した。
だから、これまでずっと空席のままだった机に、今日こそ制服姿のレンが座っている姿が見られるのだろうと、晴人はいつもなら気怠い気持ちで迎える月曜の朝を、珍しく少し浮かれた気持ちで迎えたのだ。
────ところが。
続々と登校してくるクラスメイトたちの中にレンの姿はなく、そのまま予鈴が鳴り、そうしてHR開始のチャイムが鳴り響いても、レンは姿を見せなかった。
これまでずっと引きこもりだったし、真っ暗で一見すると昼か夜かもわからないような部屋で延々とゲームをしていたようなヤツなのだから、朝起きられず、遅刻してくるのかも知れないと、晴人は尚も僅かな期待と共にレンの登校を待った。
しかし二時限目が終わり、三時限目が終わり、昼休みも過ぎてとうとう放課後を迎えるまで、窓際最後列のレンの席は、結局この日も埋まることはなかった。
確かに、レン本人は一言も「登校する」とは言わなかった。
言わなかったが、ずっと憎まれ口ばかり叩く可愛げのないヤツだと思っていたレンに、実は弱くて臆病な一面もあるのだと晴人は知ってしまった。
だから何だかんだと言いながらも、レンは血を与えた晴人に応えてくれるだろうという、根拠のない期待を抱いていたのだ。
それが、呆気なく裏切られたことで、晴人は普段なら熱中している部活の間もずっと苛々しっぱなしで、先輩たちからも「らしくない」と注意というより心配されたぐらいだった。
晴人はどちらかと言えば普段から感情の起伏が激しい方ではないのだが、レンに関してはこうして苛々したり、怒鳴ったりと、感情を剝き出しにすることが随分多い気がする。
……本当に、らしくない。
例えば、晴人が忠告した相手が大和だったとして、その大和がすんなり聞き入れてくれなかったとしても、恐らくこうも腹が立ったりはしない気がする。
それなのに、相手がレンだとどうしてこうも腹が立つのか。疎い晴人は、その理由には未だに気付けずにいた。
やっと屋敷の前まで辿り着いて、遠慮なく呼び鈴を鳴らす。
初めて訪れたときのように無視されたらどうしてやろうかと思ったが、一度目の呼び出しで、屋敷の扉はすんなり開いた。
肩透かしを喰らった晴人だったが、扉の向こうから現れたのはレンではなかった。
「あら晴人、いらっしゃい」
引きこもりのレンに代わって出迎えてくれたアリシアが、そのまま出てきて門を開けてくれる。
「この間はレンを助けてくれてありがとう。アナタの血って凄いのね。普通、一度の吸血であんなに回復するなんてあり得ないんだけど、レンのあんな健康的な顔色を見たの、あの子が赤ちゃんのとき以来よ」
晴人を敷地内に招き入れ、そのまま晴人と共に玄関へ引き返しながらアリシアが笑う。
けれど晴人は、アリシアのそんな言葉を素直に喜ぶことが出来ない。
あれだけやつれていたレンが元気を取り戻したことは、素直に良かったと安心している。
だが、問題はその後だ。
自分は決して、レンの引きこもりネトゲ生活を応援する為に、血を与えたわけじゃない。
「……アイツは?」
アリシアの礼は聞き流して晴人が短く尋ねると、そこに滲む晴人の苛立ちに気付いたのか、アリシアが「あらあら」とわざとらしく口許へ手を宛がって小さく肩を揺らした。
「今度は晴人が、レンのことを忘れられなくなっちゃったの? 血を吸われて、癖になっちゃった?」
「今日は血を吸わせに来たわけじゃない」
明らかに揶揄っている口調のアリシアに、晴人は眉を顰めて答えを促す。
アリシアは、晴人自身でも自覚出来ていないことに、何だか色々と気付いているようだ。
それならもうちょっとあの引きこもり問題児をどうにかしてくれと思うのだが、アリシアは晴人とレンのぎこちない関係をどうも面白がっているらしい。
「レンならいつもの場所よ。ワタシはこれからちょっと出かけてくるから、ごゆっくり」
一方的に揶揄われるのが癪で、「食事を兼ねた夜遊びか?」、と尋ねた晴人にヒョイと肩を竦めてから、アリシアは屋敷を出て行った。
扉が閉まるのを見届けて、晴人は勝手知ったるといった足取りで二階へ上がる。
以前あれだけ無造作に置かれていた野菜や果物の段ボール箱は、綺麗に無くなっていた。
二階の廊下を進んで、突き当りのレンの部屋へ辿り着いた晴人は、気配を殺して先ずは扉に耳を押し当てた。
晴人の自宅の扉より遥かに重厚な扉は遮音効果が高そうだったが、息を殺して耳に意識を集中させると、厚い扉越し、何やらカチャカチャと音がする。
その音には聞き覚えがあった。初めてこの部屋を訪れたとき、レンがキーボードやコントローラーを操作していた音だ。
(アイツ……!)
どうやら今日は、この間のように具合が悪くて寝込んでいるわけでもないようだ。
むしろ、これだけ忙しなくタイプ音やボタンを連打する音が聞こえるところからすると、レンは絶好調なのだろう。
勢いよく部屋に飛び込んでやりたい衝動を一度深呼吸することで抑えた晴人は、どうせまたヘッドホン装着でゲームの世界に没頭しているであろうレンを想像し、そ…っとゆっくり静かに扉を押し開けた。
案の定、部屋の中ではいつかのように複数のPCモニターに囲まれて、黒ぶち眼鏡とヘッドホン装備のレンがゲームに熱中している。扉を開けた晴人には、全く気付く気配もない。
もしかしたら扉が開いたことには気付いているのかも知れないが、アリシアだと思い込んでいる可能性も高い。
最後まで抗って、泣きながら晴人の血を吸っていた萎らしいレンの姿は、目の前の引きこもりゲーマーからは到底見受けられない。
開いた扉の隙間から部屋に踏み込んだ晴人の方へ、視線を向けることすらしないレンに、いよいよ晴人の苛立ちも頂点に達する。
ゆっくりと進んでレンの背後に立った晴人は、一度大きく息を吸い込むと、ヘッドホンを装着したレンの頭に、遠慮なく拳骨をお見舞いした。
「い゛っ……!!」
余りの衝撃にコントローラーを落としたレンが、何が起こったのかわからないといった様子で頭を押さえ、椅子の上で縮こまる。
その椅子を強引にグルリと反転させ、晴人は長身を屈めると、痛みからか涙目になっているレンの顔を覗き込んだ。
「随分元気そうだな」
晴人の声に漸く事態を理解したのか、怯えたように身を跳ねさせたレンが、愕然と晴人の顔を見上げてくる。
「お、お前……どうやって……」
「アリシアが入れてくれた」
「アランが!? ……アイツ、絶対入れるなって言っといたのに……!」
ボソリと忌々しげに呟かれた言葉を耳聡く拾った晴人は、ピクリと片眉を跳ね上げる。
「へえ……それはつまり、俺に対して何か疚しいことがあるわけか」
じわじわと、晴人の中の乱暴な感情が顔を出し始める。
晴人はレンの頭から手荒にヘッドホンを剥ぎ取ると、デスクの上へ放り投げた。弾みでレンの掛けていた眼鏡も、外れて床に吹っ飛ぶ。
「……ッ! な、何すんだよ……!?」
眼鏡がなくなって、隔てるものがなくなったレンの銀色の瞳が、怯えた様子で揺れている。
その目を見ていると、何故か酷く嗜虐心を煽られて、晴人はレンの細い腕を掴むと、そのまま無理矢理椅子から引きずり降ろし、壁際のベッドへ転がした。
小さく呻いたレンが逃げ出す前に、その身体に馬乗りになり、レンのシャツの胸倉を掴んでグイ、と引き寄せる。
「俺も聞いていいか? 何で今日、学校来なかった」
「そ……そんなの、別に約束してないだろ……!」
「俺は来いって言ったよな」
「俺は行くなんて言ってない!」
頑固な引きこもりの主張に、晴人は深い溜息を吐くと、「あっそ」とレンの胸倉を解放した。
数日前まで死に掛けていた癖に、元気になった途端これかと思うと、本当にこの吸血鬼には困ったものだ。
部屋が薄暗いのでハッキリとはわからないが、今のレンは晴人の血を吸った直後と比べてもそう顔色が悪いようには見えない。
「……お前ら吸血鬼って、どのくらいの頻度で血を吸うんだ?」
馬乗りになられたまま唐突に聞かれたレンが、一瞬きょとんとした顔になる。
「……俺は、お前以外の血を自分から吸ったことなんかないからよく知らない。アランは、多分週に二、三回は吸血してると思う」
ポツポツと、躊躇いがちにレンが答える。
「お前が俺の血を吸ってから今日で三日目だろ。まだ、腹減ったりしないのか」
「俺は元々空腹に慣れてるし、今はまだそんなに空腹感はない。でも……」
そこまで言って、レンは一瞬言葉に詰まると、そのままフイっと顔を背けてしまった。
「……何でもない。それより退けよ! 重い!」
馬鹿!ゴリラ!、と散々悪態をつきながら、晴人の下でレンが暴れる。
細い両腕で懸命に晴人の身体を押し返し、まるで必死に晴人を遠ざけようとしているようだった。
そんなレンの反応が面白くない晴人は、細くて白い両腕を難なくシーツに縫い付けて、ズイ、と更に顔を寄せた。
目の前に迫った晴人に、レンの身体が強張るのがわかる。
「何でもないことないだろ。『でも』、何だよ?」
「…───っ」
ぐっ、と声を詰まらせたレンの視線が、ほんの一瞬、チラリと晴人の首筋を掠めた。その直後、レンの喉がコクリと音を立てて小さく上下する。
もしかして、と思った晴人が試しにレンの口許へほんの少し首筋を寄せると、レンは非力ながらも晴人の下で必死に抵抗を示して身を捩った。
「やめろよ……っ!」
「何で。別に、腹減ってないんだろ」
「減ってなくても、お前が目の前に居ると、飲みたくなるんだよ……!」
絞り出すような声で叫んだレンが、どうにか晴人の首筋から顔を背けて足掻く。
なるほどそういうことか、と納得した晴人は、そこでふと人の悪い笑みを浮かべた。
「……いいぜ、飲んでも」
「……!? ば、馬鹿だろ、お前!? いいわけな────」
「ただし。ちゃんと学校来るって約束するなら、だけどな」
レンの目の前に、まだ彼の噛み痕が残る首筋を寄せたまま告げた晴人に、レンがギリ…と悔しげに奥歯を鳴らした。
アリシアは、吸血鬼は本能で血を求めると言っていた。
現にレンも、散々吸血することを嫌がっておきながら、一旦晴人の血を吸い始めると本能が勝るのか、無心で血を求めているようだった。
恐らく、その本能を抑えるというのは、晴人が思う以上に困難なのだろう。
それを敢えて利用しようとしている自分は少し卑怯なのかも知れないとは思ったが、この問題児を外の世界へ引っ張り出すには、このくらいの荒療治が必要な気がした。
「学校サボって延々ゲームやってるような引きこもりに、血はやらない」
卑怯者、と晴人を睨んで、レンはまた思いっきり顔を背ける。
「……別にお前の血なんか貰わなくても、サプリ飲んでどうにかするからイイ」
あれだけ無我夢中に啜っていたくせに、「お前の血なんか」と今更毒吐くレンに、もう一発拳骨でもくれてやろうかと握り締めた拳を、晴人は何とかシーツに叩きつけるだけに留めた。
「それでこの前死にかけてたくせに、まだ懲りてないのか!?」
「お、お前こそ、毎回毎回力任せで強引すぎるんだよ! やっぱりゴリラだ!」
「うるさい。お前がブサイクだったら、もうとっくにぶん殴ってるとこだ」
「初っ端に殴っただろ!」
「あんなの、殴った内に入るか。ただの拳骨だろ」
「何が違うんだよ!?」
意味わからない、と嘆くように呟いたレンが、お手上げだとばかりに小さく溜息を零した。
「……何で、そんなに俺に構うんだよ。学校なんか、親が勝手に手続きしただけで、俺は行きたかったわけじゃない」
「アリシアも言ってたけど、お前の両親は、お前のその引きこもりをどうにかしたいと思って学校に行かせようとしてくれたんだろ。こんなデカイ家住んでるくらいだからお前ン家、相当金持ちなんだろうけど、それでも学校だってタダじゃない。親の気持ちも金も無駄にして、お前はずっと部屋にこもってゲームしてるつもりなのか? 俺も正直、お前の社交性には問題あると思う。だから学校くらい、ちゃんと来いよ」
「………」
晴人の言葉をジッと聞いていたレンは、少しの間何かを考えるように黙り込んだ後、背けていた顔を晴人の方へ向けた。
諦めの色が滲んだ銀色の双眸が晴人を見上げて、その唇から今度は盛大な溜息が零れた。
「……お前、アランより口煩い」
「俺だって、こんな面倒臭いお前に何でこうも構いたくなるのか、不思議で仕方ない」
「面倒臭いなら放っとけばイイのに」
「放っといたら、お前死ぬだろ」
「…………ホント、最悪だ」
一体何が最悪なのか、それを聞く前に、レンが堪りかねた様子で晴人のシャツの袖を引っ張った。
「……お前の所為でもう無理。ちょっとだけ、吸っていい?」
何を、とは聞かずともわかったが、晴人の答えを聞く前にレンが晴人の項へ腕を絡めてきたので、晴人は「待った」とレンの後ろ髪を緩く握り込んで制する。
「ちゃんと、学校来るって約束するか?」
「……わかったよ。しょうがないから、行ってやる」
「何で上から目線なんだよ」
憎らしいけれど、レンらしい言い回しに思わず笑った晴人の首筋に、レンが甘く噛み付いた。
本能的なものなのか、レンはもうすっかり血の吸い方も心得ているようで、噛み付かれる瞬間の痛みは今回殆ど感じなかった。
握り込んだままだったレンの髪から、また微かに甘い香りが漂ってくる。
「お前……なんか、甘い匂いするよな」
晴人は別に吸血鬼でも何でもないのに、どうしてか自分もレンに喰らいつきたくなる衝動に駆られるような匂い。
こちらの呟きなど聞こえていないらしいレンの細い身体を気付けば抱き締めていた晴人は、レンが満足するまで、必死にその衝動に耐え続けた。
ともだちにシェアしよう!