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第10話
◆◆◆◆◆
「……嘘だろ?」
「入院してるって誰か言ってなかった?」
「手術の為に渡米したんじゃなかったっけ?」
「え、そもそも生きてたの……?」
遠巻きに自分を見つめながらヒソヒソと口々に囁き合う、名前も顔も知らないクラスメイトたちに、レンは心底うんざりした溜息を吐いた。
晴人と交わした約束を守って、一ヶ月以上ぶりに渋々学校へとやって来たものの、教室に入るなり一斉に注がれた好奇の視線に、レンは早くも後悔していた。
入り口の近くに立っていた生徒に席の場所を尋ねると、何故か半歩後退りながら答えられたし、今だって皆レンのことを口にしながらも、一定距離以上近づいてくる者は居ない。
お陰で、レンの席の周囲には半径二mほどの見えないバリケードが張られているようだった。
居心地が悪いことこの上ないし、着慣れない制服も落ち着かない。
……だから来たくなかったんだ、と二度目の溜息を落として、レンは頬杖をついた。
窓から差し込んでくる陽射しが眩しすぎて、目がチカチカする。
そもそも太陽が大嫌いだというのに、どうして自分の席はこんな窓際の日当たり良好な場所なのだろう。
席替えというものすら知らないレンは、不登校だった自分への戒めなのかと思ってしまったほどだ。
ずっと不登校を決め込んでいた引きこもりが突然登校してきたところで、所詮周囲はこうして遠巻きに眺めるだけなのだ。
この反応は当たり前だと思うし、だからこそやっぱり晴人は異常だとも思う。
因みにこのとき、クラスメイトたちは皆レンの登校に驚いていたのもあるが、改めて目にした美しすぎる容貌に面喰って近寄ることすら出来ずにいたのだが、そこはレンの知るところではない。
(帰りたい……)
まだHRすら始まっていないというのに心底そう思ったレンの机の上へ、ふと影が落ちた。
「ちゃんと遅刻せずに来たな」
制服のシャツを肘まで捲った晴人が、気付けばレンを見下ろして笑っていた。
すっかり見慣れたその顔に、思わずレンは心の中で安堵の息を吐く。
「……お前が来いって散々言ったんだろ。大体、来いって言うならせめて教室で出迎えるくらいしろよ」
そうすれば知らないヤツに席の場所を聞く必要もなかったし、少なくとも延々一人で居心地の悪さを感じる必要もなかったのに、とついつい普段の我が儘が出てしまったレンに、晴人が「悪い」と少し眉尻を下げた。
「朝練あるから、教室来るの大体いつもこの時間なんだよ」
「アサレン?」
「そう、サッカー部のな」
「………?」
学校生活自体が初めてのレンには、晴人の言っていることがサッパリわからない。
怪訝な顔で首を捻るレンを見て、晴人もそのことに気付いたようだった。
「そうか、お前部活とかも知らないのか」
「……知らない」
「部活ってのは……まあ、同じ趣味の人間が集まって活動することで、俺の場合はそれがサッカーってこと」
「……それは、皆やってるのか?」
「いや、朝とか放課後とか、授業時間外でやるモンだから、別に強制じゃない」
強制でもないのに、授業前にも、授業が終わってからも、晴人はいつもサッカーをしている、ということだろうか。
レンはと言えば今すぐにでも帰りたいくらいなのに、授業が終わってからもまだ学校で何かするなんて信じられない……とレンは晴人を見上げて唖然とする。
その晴人の後ろから、不意にひょこっと見覚えのない男が顔を覗かせた。
晴人よりは少し背が低いが、レンから見れば彼もまたそこそこ長身で、髪は少し茶色い。
晴人同様、よく日に焼けた顔がレンを見下ろして人懐っこい笑顔を見せた。
「おお、マジで黒ナントカじゃん!」
「……黒ナントカ? ……誰?」
困惑顔で晴人に助けを求めると、晴人は隣の彼の頭を「黒執だって」と軽く小突いた。
「コイツは本城大和。俺と同じサッカー部で、ちょっとうるさいけど悪いヤツじゃない」
「うるさいって失礼だな。俺はお前と違って感情表現豊かなの。大体お前こそ、黒執のことばっか毎日うるさかったじゃん」
晴人を小突き返した大和が、再びレンを見下ろして笑う。
「もーコイツさあ、黒執が来てない間、黒執黒執ってマジうるさかったんだぜ。可愛い女子にも無関心なクセに、お前らどういう仲なの?」
「どういうも何も、プリント届けに行って少し話しただけだって言っただろ」
レンの方へ身を乗り出そうとする大和を晴人が片手で制したところで、教室内にチャイムが鳴り響いた。
「……別に、都合の悪いことは言ってないから安心しろよ」
素早く身を屈めてレンの耳元でそう囁いた晴人は、まだレンに何か聞きたそうな大和を強引に引っ張っていき席に着いた。
晴人の席は、レンの席とは正反対の、廊下側先頭のようだ。
その斜め後ろが大和の席らしく、席に着いても尚まだ何かじゃれ合うように遣り取りしている二人の様子に、チリ、と焼けるような痛みを胸の奥に感じて、レンは思わず制服の胸元を握り込んだ。
(………?)
味わったことのない痛みに、レンは戸惑ってついつい晴人に視線を向けたが、レンの席から最も遠い場所に居る晴人は気づく気配もなく、相変わらず大和と話している。
時折親しげに笑みを浮かべる晴人を見ていると、痛みはどんどん強くなった。
教室という同じ空間に居るのに、晴人が果てしなく遠くに居るように感じる。
ただでさえ、さっき紹介して貰った大和は抜きにしても、周りは顔も名前も知らない人間だらけで落ち着かないというのに。
そもそも学校という場所すらレンは殆ど知らないのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、改めて学校内での晴人はレンの知らない晴人なのだと痛感する。
それがレンにとっては何故だか凄く面白くなくて、無性に苛々する。
(……やっぱり、来るんじゃなかった……)
こんな思いをするくらいなら、いつもみたいに自室にこもっていれば良かった。
やっぱりここには、レンの居場所なんてない。
晴人の血の誘惑に負けてしまったことを今更後悔しながら、レンは胸の痛みを溜息に込めてそっと吐き出した。
事件は、三時限目の体育の授業中に起きた。
体育の授業は男女別で行われる代わりに、二クラス合同で行われる。
「今日は今月末にある体育祭の、リレー選手の選考するからなー。全員二百メートルタイム取って、それ参考に決めるから、背の順でトラック並べー」
体育教師の指示に従って、男子たちはゾロゾロと歩いて背の順に並ぶ。
ここでも小柄なレンは一番先頭で、晴人は列のかなり後方に居た。
五月も半ばになると、日中の陽射しは結構強い。
日光を遮るものなど何もないグラウンドで授業をするだけでも、引きこもりのレンには信じがたいことなのに、そこで更に二百メートルも走るなんて、最早その状況を想像することさえ出来ない。
何せレンは毎日、最低限の用事以外は自室から出ない生活を送っていたのだから。
どうしてこんな理不尽なことをさせられなくてはいけないのだろう。
学校とは、レンにとっては理解できないことばかりの場所だ。
(……まあ、取り敢えず走ればいいんだろ……)
二百メートルを全力で走る、ということがどういうことかすらわかっていなかったレンは、スタート位置に着いた直後に後悔することになった。
体育教師の笛の合図でスタートした途端、隣のコースに並んでいた生徒たちは恐ろしい速さで駆け出していった。
実際は決して彼らが飛び抜けた俊足のランナーだったわけでも何でもなく、レンが異常なほど遅かっただけなのだが、日常生活の中で走ったことなどないレンには、それすら理解できなかったのだ。
「おいおい、黒執大丈夫かよ? 何か足元危うくね?」
大和の声が背中に届いた気がしたが、レンには自分が覚束ない足取りで走っている自覚すらない。
とにかく前を走る生徒たちがどうしてあんなにも速いのか、それを考えることで精一杯だった。
(え……ちょ、こんなのどうやって追いつけって……)
そういえば、一度晴人が屋敷に乗り込んできたとき、晴人の足も凄く速かった。
人間というのはどいつもこいつも、こんなに足が速い生き物なのだろうか。
必死で走っているつもりだったが、酷い運動不足な上に体力も無さ過ぎるレンは、五十メートルを過ぎたあたりで早くも限界を感じ始めていた。
息は苦しいし、足も痛い。
おまけに頭上から容赦なく照り付けてくる陽射しの所為で、徐々に視界がグラグラと不自然に揺れ始めている。
(……何だコレ……苦しい……気持ち悪い……)
上手く息が吸えなくて、自分が走っているのか歩いているのか、そもそもちゃんとコースを進んでいるのかすらわからない。
全力で走る、ということがこれほど苦しいことだなんて知らなかった。
そうしてとうとう視界が大きく傾いたのと、レンが意識を失ったのは、殆ど同時だった。
入学式の日のように、ドサリと派手にグラウンドに倒れ込んだレンの耳に、「黒執!」と叫ぶ晴人の声が、遠くで聞こえたような気がした。
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