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第11話

「ん……」  微かに呻いて薄らと目を開けたレンの視界にまず飛び込んできたのは、見覚えのある天井だった。  これを見たのは……そう、確か入学式の日だ。  式の最中意識を失ったレンが次に目を開けたとき、最初に見たのがこの天井だった。  あの日はその直後に担任だという男───谷川が顔を覗き込んできたので、レンはもう二度と学校なんて来るものかと思い、その場で谷川を洗脳した。  まさかそれを晴人に勘付かれることになるなんて、そのときは思いもしなかったが。  ぼんやりとそんなことを考えていると、視界にふと晴人の顔が入り込んできて、レンは驚いて目を瞠った。  慌てて上体を起こした瞬間、またグラリと視界が揺らいで、咄嗟に額を押さえる。 「馬鹿、いきなり起きるな。お前、体育の授業中に倒れたんだぞ」  覚えてるか、と問い掛けてくる晴人の腕に再びベッドへ横になるよう促され、レンは素直に従いながら、朧げな記憶を辿る。  何だかよくわからないままグラウンドを走っていて、他の生徒の足の速さに驚きながらとにかく必死で追いかけていたのは覚えているが、その途中で記憶はプツリと途絶えていた。 「……俺、どのくらい寝てた?」  レンが問うと、晴人は壁の時計を見上げて「二時間くらい」と答えた。 「今は昼休みで、保健医も席外してる」  暗にレンたち以外には誰も居ないと告げた晴人が、少し心配そうな顔になった。 「黒執、また貧血だったのか?」  長い前髪を払った晴人の掌が、レンの額に宛がわれる。  元々体温が低めのレンと違って、晴人の手は仄かに温かかったが、今のレンにはその温もりが心地良かった。 「……多分、違うと思う」  入学式の日に倒れたのは恐らく貧血が原因だろうけれど、今回は昨日晴人の血も吸わせて貰っているし、きっと苦手な太陽の下で慣れない運動をしたからだろう。  それを伝えると、晴人は困ったような呆れたような、微妙な顔つきになり、レンの額を指先で軽く弾いた。 「だから、あんな生活してると良くないって言っただろ。お前はもっと外に出て体力つけた方がいい」 「……確かに他人より外に出てない自覚はあるけど、だからって何であんな苦しいことやらなきゃいけないのか、全然意味がわからない」 「あんな苦しいって……お前、倒れたときまだ半分の百メートルにも到達してなかったんだぞ」  苦笑する晴人に、「有り得ない……」とレンは益々青褪めた。  その顔を見た晴人が、まだ保健医が戻って来る気配がないのを確認してから、身を屈めてレンに顔を寄せてきた。 「そう言えばお前、学校では眼鏡してないけど、視力大丈夫なのか?」 「ああ……あの眼鏡はブルーライト軽減用。俺たちは基本明かりとか要らないから、アレ掛けないと眩しすぎてモニター見てられない」  レンの返答に、「引きこもり装備だけは万端だな」と晴人が苦笑する。 「……ちょっと気分ラクになるなら、血飲むか?」  そう言って、晴人が昨日レンが噛み付いた場所とは反対側の首筋を寄せてきた。  そんな風に晴人の方から首筋を寄せられると、レンの中の本能が疼いて、空腹でなくてもその血が欲しくなってしまう。  人間の首筋や項が吸血鬼の欲求を最も刺激するのだと、昔アリシアに教わった。  それでも、晴人以外の人間では例え首筋を見たところで全く何とも思わなかったのに、今では晴人が目の前に居るだけで、自然と目が首元へ行ってしまうのだから、本能というものは恐ろしい。  今日は貧血で倒れたわけではないし、別に晴人の血を吸わなくてもしばらく休めば回復するだろうけれど、晴人自身から「飲むか?」と言われると、ついつい無意識に喉を鳴らしてしまうレンである。  一瞬、お言葉に甘えて……と晴人の首へ顔を寄せようとしたレンだったが、そこでふと今朝の晴人とのやり取りを思い出し、レンは慌ててその身体を押し返した。 「……黒執?」 「昨日も飲んでるから、いい。要らない」 「飲んでもラクにならないのか?」 「そうじゃない。ただ、お前は……部活?だか何だか……それがあるんだろ。授業終わった後も」  運動なんて、レンにとっては拷問に近いものを、晴人は自主的にやっているのだ。  レンには到底理解できないが、血を吸い過ぎて晴人の方が貧血で倒れてしまったら困る。  不器用なレンの気遣いに気付いてくれたのか、晴人がレンの髪をくしゃりと掻き混ぜるように撫でて目を細めた。 「……学校、来てみてどうだった」 「地獄」  即答すると、晴人が小さく噴き出す。  こうしてレンに向けられる晴人の笑顔に、ホッとしている自分が居る。  教室で大和と笑い合う晴人を見ていたときは胸が痛くて苦しかったのに、どうして二人だと、こんなに安心するんだろう。  その気持ちの正体を探ろうとするレンを邪魔するように、無粋な予鈴が割り込んだ。 「お前が倒れた後、クラス中から『黒執どうしたんだ』とか『黒執とどうやって仲良くなったんだ』とか、質問攻めされて大変だったんだぞ」  教室へ戻る為か、身を起こした晴人がレンを見下ろして苦笑する。 「何でお前に……? 俺には、誰も何も聞いてこなかったのに」  朝からずっと、クラスメイトからはひたすら遠巻きに見られてコソコソと囁かれるばかりだったので、てっきり引きこもりで不登校だった自分の陰口でも叩かれているのかと思っていた。 「黒執は、綺麗過ぎるから近寄り難いんだよ。おまけにすぐ倒れるしな」  後半は明らかに揶揄い交じりに言われて、レンは「悪かったな」と鼻を鳴らした。  それに晴人は前にもレンの容姿が「綺麗」だと言っていたけれど、レンからすればこんな容姿より、太陽の下で驚くほど速く走っていた生徒たちの運動神経や体力の方が、遥かに羨ましい。  ……体力不足は、レンの生活習慣に原因があるのだが。 「お前が思ってるよりも、周りはお前のこと気にしてるってことだ」 「……別に、周りの人間から気に掛けられたいなんて、思ってない。それよりも、もっとお前が────」  そこまで無意識に口が滑って、レンは慌てて「何でもない」と口を噤んだ。 (……今、何て言おうとした……?) 「? 俺が、何だよ?」  晴人が食い下がってきたが、丁度そこでタイミング良く本鈴のチャイムが鳴って、晴人は舌打ちし、レンはホッと息を吐いた。 「俺は教室戻るけど、後でちゃんと聞かせろよ」  そう言って保健室の扉口へ向かう晴人の背中へ「知らない。忘れた」と素っ気なく返し、レンはバサリと頭から布団を被った。  ……もっと……レンの家だけでなく、学校でももっと、晴人がレンを気に掛けていればいいのに────  さっき口にしかけた欲求を改めて胸の中で呟いた途端、レンは我ながら気恥ずかしくて堪らなくなった。  晴人が家に来る度に、帰れ帰れと散々悪態を吐いていたくせに、いざ慣れない学校で他人に笑いかける晴人を見た途端、そこに嫉妬を覚えるなんて、自分でも身勝手すぎると思う。  それは充分わかっているのに、さっきみたいに晴人がレンに触れて、レンだけに笑ってくれると、いつまでも独占していたい気持ちになる。  他人なんて煩わしいだけで、身内でさえ、不必要に傍に居て欲しいなんて思わなかったのに。  なのに晴人には傍に居て欲しいと思うのは、きっとレンにとって晴人の血が必要だからだ。  自分は偏食家の吸血鬼で、たまたま晴人の血しか受け付けなかった。だから晴人が必要なだけだと、レンはドクドクと煩い鼓動を落ち着かせるように、布団の中、何度もそう言い聞かせ続けた。  結局放課後までを保健室で過ごしたレンは、日が傾き始めたお陰でやっと少し軽くなった身体を伸ばすと、荷物を手に校舎を出た。  校門まで歩く途中、フェンス越しに見えるグラウンドに何気なく目を向けると、丁度その中央でサッカー部が練習している真っ最中だった。  夕陽を浴びながら、真剣な顔でボールを追って走る晴人の姿を見つけて、レンは思わず足を止めて見入ってしまった。  今朝は教室でふざけていた大和も、まるで別人のように必死な顔で汗を流している。 「高坂! ボーッとすんな! 今の右行けただろ!!」 「すいません……!」  上級生らしい人物からの厳しい檄に、肩で息をする晴人が顎へ伝う汗を拭いながら、答えてすぐにまた走り出す。  きっと今はサッカーのことしか頭にないであろう晴人の姿を見ていると、彼がいつも太陽の匂いを全身に纏っている理由がわかった気がした。  晴人の血を飲むことを躊躇っていたレンに、「死ぬよりマシだ」と言い放ったときも、あんな風に必死な顔をしていた。  きっと晴人にとって、サッカーは特別なものだ。  でもそのサッカーに向き合うときと同じくらい、レンに対しても晴人は必死になってくれた。  胸の奥が痛みとは違ってじわりと熱くなるような感じがして、気付けばレンは辺りが薄暗くなっても、晴人の姿から目を離せずに居た。  一体どのくらいの時間、眺めていたのだろう。 「格好イイわよねぇ、サッカーしてるときのあの子」  不意に隣から耳慣れたオネエ声がして、レンは持っていた荷物を落としかけるほど驚いて竦み上がった。  レンのあまりの驚きように、いつからそこに居たのか、隣に立つアリシアが「失礼ね」と溜息混じりに肩を竦めた。 「び、びっくりさせるなよ、アラン!」 「だって、引きこもりの甥っ子が珍しく学校に行ったかと思ったら、それっきり全然帰ってこないとなれば、心配にもなるでしょ」  でもお邪魔だったかしら、と含み笑いで視線を寄越されて、レンは「別に」と顔を背けて歩き出す。  本当はもう少し晴人の姿を見ていたかったけれど、アリシアの前で延々晴人を眺めているのも気恥ずかしくて、レンは名残惜しい気持ちを無理矢理捻じ伏せた。  そんな意地っ張りなレンの内心を見透かしたように、アリシアがクスクスと笑いながらついてくる。 「それで? 久々の学校はどうだったの?」 「……別に。特に何も」  本当は三時限目で倒れて残りは保健室でひたすら寝ていた、とは言えない。 「あれだけ家に閉じこもってたアンタを外に引っ張り出してくれた晴人には、改めて感謝しないとね。───だけどレン、いくらアンタがあの子の血しか受け付けないって言っても、飲む量には気を付けるのよ? 晴人は普通の人間なんだし、飲みすぎるとあの子の方が倒れちゃうんだから」 「そんなの、言われなくてもわかってる」  だから今日、レンは敢えて誘惑を断ち切って、晴人の血を遠慮したのだ。  でも晴人にも無暗に吸血を促さないように言っておかないと、その内誘惑に打ち勝てなくなるかも知れない。  今日だって、血を吸う前だったから何とか歯止めが利いたものの、もし一口でも晴人の血を口にした状態だったなら、恐らくレンはまた我を忘れていただろう。  もしもレンが理性を失って、本能のまま晴人の血を求め続けたら、最悪その命まで奪ってしまう可能性もあるのだ。  そう考えて思わず身震いしたレンに気付いたアリシアが、「大丈夫よ」と宥めるように肩を抱いてくれる。  まるでレンの中にもう一人、レンという名の魔物が潜んでいるようで、時々自分自身が怖くて堪らなくなる。  レンの身体を容易く捻じ伏せてしまえる晴人なら、レンの中の魔物も、同じように抑え込んでくれるだろうか。 (晴人……)  決して本人の前では呼ばない名前を心の中で繰り返すと、不安に揺らぐレンの心は、不思議と凪いでいくのだった。

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