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第13話

「クリスは、三十歳離れたレンの兄なの」  アリシアの車が走り出した直後、早々に物凄い衝撃発言が飛んできて、一瞬頭が真っ白になりかけた。 「さ、三十……!?」  聞き間違いでは、と思わず自身の耳を疑った晴人だったが、アリシアは「そういえばそれも話してなかったかしら」と軽く笑い飛ばす。 「ちょっと待ってくれ……三十も離れてるって、じゃあそのクリスは今一体何歳なんだ?」  クリスはレンより少し年上には見えたが、幾らなんでも親子ほども歳が離れているようには到底見えなかった。 「今年で七十八になるわね。だから因みに、レンはあれでも四十八歳よ。私たち吸血鬼は、人間よりもずっと長寿なの」  淡々と説明されて、まだ肝心な話を何も聞いていない内から気が遠くなる。 (……四十八って、うちの両親より年上だぞ……)  ずっと同い年で、むしろその割には臆病だったり危なっかしいところもあると思っていたレンが、まさか自分の親よりも年上だったとは……。  それならアリシアは一体今何歳なんだ、と横目で運転席の今日もメイクばっちりな横顔を見遣ったが、考えただけでも恐ろしくてとても口に出して聞くことはできなかった。  レンやアリシアが吸血鬼だと言われたときより、正直今の告白の方が衝撃が大きい気がする。  ついつい額に手を遣る晴人を横目に見たアリシアが、「続けていいかしら?」と苦笑してから晴人の答えを待たずに話し出す。 「私たち吸血鬼は、血統を重視する生き物でね。アナタも薄々気付いているかも知れないけれど、黒執家はそんな吸血鬼の中でもそこそこの名家なの」 「黒執の家が金持ちっぽいとは確かに思ってたけど、ただあいつの親って海外に住んでるんだよな? 黒執とか兄貴とかアリシアとか、名前も見た目も日本人離れしてるけど、苗字が『黒執』って日本名なのはどうしてなんだ?」 「『黒執』はレンの母親の姓よ。レンの父親……つまりワタシの兄は、黒執家の婿養子なの」 「婿養子……?」  血統を重視するのに婿養子ということは、レンの母親の方が名家だったということなんだろうか。  晴人の疑問を肯定するように、アリシアは続ける。 「レンの母親は元々日本に住む吸血鬼の中でも、古くから続く名家の一人娘でね。でも跡継ぎが居なくて、兄はそんな彼女の家系を守りたかったみたい。元々うちもそれなりの名家だったから、周囲からは反対の声もあったけど、兄は必死に周りを説得して、黒執家の当主になったってわけ」 「でも、日本の家に婿入りしたのに、今は海外暮らしなのか?」 「その辺はまあ……色々と事情もあってね」  はぐらかすようにアリシアが肩を竦めたので、晴人もそれ以上口を出すのは躊躇った。  そもそも、ごくごく普通の家庭で育った晴人には、血統だ、当主だ、なんて言われても、何だか別世界の話のようで、今一つピンとこない。  そんな胸の内が顔に出ていたのか、隣でハンドルを握るアリシアが困惑気に笑う。 「アナタには理解し難い話かも知れないけれど、人間だって、例えばそれなりの身分の家庭って、どこか普通とは違うものでしょ? 吸血鬼の場合は、その血筋を残す為に、一層それが顕著なのよ。そして吸血鬼の名家の当主は、余程の事情がない限り、長男が引き継ぐと決まっているの」 「……ってことは、黒執家の場合は、兄貴のクリスが次の当主になるってことか?」 「そうなるわね。一族に長男が誕生すると、その子は生まれたときから当主になるべくして育てられるの。専属の教育係や世話係、護衛もつくし、口にする血だって、選りすぐりの人間の血を選定係が選んできて、その血を吸うのよ」 「選りすぐりって……血の良し悪しなんてあるのか?」 「まあ、多少味の違いはあるけど、どちらかと言うと名家としてのプライドね。人間でもそこそこ地位のある者の血でないと口にしてはいけないっていう、くだらないしきたりみたいなもの。自分の好みの相手を見つけてその血を頂く方が、余程有意義で美味しいのにね?」  何故か同意を求められて、そもそも誰かの血を頂いたことなんてない人間の晴人は返答に困ってしまう。  そんな晴人の反応をいちいち楽しみながら、アリシアは更に続ける。 「そんなわけだから、クリスは幼い頃からずっと当主になるべくして教育を受け、育てられたの。クリス自身もそれを誇りに思っていたみたいで、熱心に勉強していたわ。そんな中、三十年ぶりに、黒執家の次男───つまり、クリスにとっては弟にあたるレンが生まれた」 「その頃から、仲悪かったのか?」 「いいえ、むしろ真逆。年の離れた弟を、クリスはとても可愛がってたわ。あの子たちの父親はいつも忙しくしていたし、母親は少し身体が弱くてね。そんな二人に代わって、クリスは毎日レンの遊び相手になってあげて……でもそれも、レンが言葉を覚え、字の読み書きを覚え始めた頃までだった」  遠い昔を思い返すように、アリシアが笑顔を引っ込めてほんの少し目を細めた。 「クリスは元々人怖じしない子供だったけど、レンは小さい頃から人見知りが激しい子だったの。一日中、部屋にこもって絵本を読んでいるような子だった。その所為なのか、それともレンが本来持っている才能なのかはわからないけど、レンは物事を覚えるのがとても早くてね。字の読み書きも一度教えれば完全に覚えてしまうし、一度読んだ本の内容は一言一句記憶してる。クリスが五日かかって読んだ本を、ずっと幼いレンはたった一日で読み終えて中身も覚えてしまった。だから、レンは周囲から『天才だ』って囁かれるようになって、仕舞いにはクリスよりもレンの方が次期当主に相応しいんじゃないか、なんて言い出す連中も出始めたの」  レンがろくに授業を受けていなくてもテストなんか楽勝だったのは、そういうことか…と、晴人も漸く合点がいった。でも反面、腑に落ちない点もある。 「……けどアイツ、初めて俺が家に行ったとき、俺のこと覚えてなかったよな。それだけの記憶力があるなら、何で入学式で会ってる俺のことは覚えてなかったんだ?」 「それは、あの子が単に覚える気がなかったから────興味がなかったから、と言った方が正しいかしら。小さい頃は、見るもの聞くもの何でも面白がって覚えていたけど、そのことを次第にクリスが面白く思わなくなったから、それを察したレンは、興味のないものは覚えようとしなくなったわ」 「面白く思わなくなったって、それは別に、黒執が悪いわけじゃないだろ。兄貴の勝手な嫉妬じゃないのか」  そのことでレンがどんどん外の世界と壁を作って、今のように周囲との関わりをひたすら避けたがる引きこもりになってしまったのだとしたら、それはあまりに理不尽だ。 「兄弟や姉妹感での嫉妬心や葛藤っていうものは、吸血鬼であろうと人間であろうと、どんな家庭にも少なからず存在するわ。でもそうだとしても、クリスとレンが由緒ある名家じゃなく一般的な家庭に生まれていたら、もっと良い関係になっていたかも知れないわね。でも皮肉にも、正反対の性格の二人は、名家の息子として生まれてしまった。当主になるべくしてずっと尽力してきたクリスには、人前にも出たがらず、吸血鬼のくせに血も嫌いだっていうレンの方が当主に相応しいと言われることが、耐え難かったんでしょうね。それ以来、レンを当主候補にしたがる連中を、クリスは片っ端から遠方へ追いやっていった。レンに興味を向けるものを、徹底的にレンの周りから排除したの。レンの元からそうやってどんどん人が離れていくことで、レンもまた益々他人との関わりを避けるようになって、そうして今の引きこもりのあの子があるってわけ」  溜息混じりに話すアリシアの言葉を聞けば聞くほど、晴人の腹の奧には沸々とした怒りが沸き起こってきていた。  アリシアの話を聞く限り、少なくともレンにはやはり何の非もない。  当主になりたいクリスにとって、単純にレンの存在が邪魔だったという、一方的なクリスの我が儘じゃないのか。  いつもはゲームをしていれば、アリシアや晴人が傍に居たって完全に無関心なレンが、クリスの気配には過剰なほど素早く反応していた。  それに、短いやり取りの中でも、レンはクリスに対してどこか負い目を感じているようにも見えた。  レンが悪いわけではないのに、クリスが一方的にレンを孤独に追い込んだのだとしたら、絶対に許せない。同時に、そんな事情も何も知らず、これまでレンの引きこもりを責めていた自分自身にも腹が立った。  自分でも知らない内に膝の上で強く拳を握り締めていた晴人に、アリシアの方が気づいて困ったように眉を下げた。 「……レンの両親は社交性を高める為に学校へ通わせることにしたって話したけど、本当は、あの子をクリスの元から逃がす目的の方が大きかったの。利口なレンには学校での授業なんて特に必要はないし、単純に社交性を高める為なら、無理にでも社交界に引っ張り出せばいい。だけどクリスの傍に居ると、レンは益々委縮して閉じこもってしまう。だからせめて、本家から離れた日本の学校へ通わせることにしたのよ」 「……黒執も、そんな兄貴に萎縮する必要なんかないのにな」  ポツリと零した晴人に、目の前の赤信号を見上げていたアリシアが一瞬意外そうに目を瞬かせた後、「アナタらしいわね」と笑みを零した。 「だって、別に黒執は当主になりたいと思ってるわけじゃないんだろ?」 「ただでさえ、人前に出たがらない子だもの。そんなもの、なりたいわけがないわ」 「じゃあ、別に何も問題ないだろ。兄貴の方は当主になりたくて、子供の頃からその為の努力もしてる。黒執だって、兄貴に当主になってもらいたい。なのに何で、あんな険悪になるのかがわからない」  思うまま告げた晴人の言葉に、アリシアは何かを愛おしむような表情を浮かべたまま、青になった信号にアクセルを踏み込んだ。 「……ホントにね。お互いの思いは同じはずなのに、どうしてああも拗れちゃったのかしら、あの二人。今のクリスには、レンの全てが疎ましいのよ。レンもそれに気づいてるから、なるべくクリスの前では何もできない引きこもりを演じようとしてる。でも……今日、クリスはレンがアナタの血を吸ったことを知ってしまった」 「それ、さっきも思ったけど、何が問題なんだ?」 「言ったでしょ。今のクリスには、レンの全てが疎ましいの。誰の血も飲めないと思っていたレンが、アナタの血だけは飲めることを、クリスは知ってしまった。────レンに特別な存在が出来たことを、知ってしまったのよ」  アリシアがそう言った直後、車は晴人の自宅の前で静かに停車した。 「さっきも言ったけど、レンの家には今後クリスに寄り付かせないように、兄さんにはもう一度強く言っておく。だからレンの家は恐らく安全だけど、さすがに家の外となると、ワタシも守りきれない。例えば学校とかね。……くれぐれも気を付けて、晴人」  車から降りる晴人に忠告するアリシアの張り詰めた声に、背中をゾクリと悪寒が駆け抜けた。  気を付けろと言われても、何をどう気を付ければ良いのかわからない。  けれどアリシアの話からすると、クリスにとって、レンの傍に居る晴人は『排除』すべき対象になったということなのだろう。  今になってやっと、レンが必死に晴人をクリスから隠そうとしていた理由もわかった。レンはどうにかして、晴人を守ろうとしてくれていたのだ。  容姿こそよく似ていたが、レンとは全く違う威圧的なクリスの声を思い出す。  晴人自身が『排除』されることよりも、仮にそうなった場合、レンはどうなるのだろうと思うと、そのことに晴人は強い不安を覚えた。  クリスが今何を考えていて、今後どういう行動に出るのか、晴人には想像もできない。だがこれ以上、レンの元から何かを奪わせて堪るかと、晴人は指先が白むほど拳を握り締めて、走り去るアリシアの車を見送った。  都内に聳え建つ、高級ホテルの最上階スイートルーム。 「……ごちゃごちゃと煩い街だな」  眼下に広がる眩い夜景を見下ろしながら、クリスは抑揚のない声で呟く。  絶景への興味も大して湧かず、クリスはソファへ腰掛けると「ジェド」と短く声を上げた。  間髪置かず、扉の外に控えていた黒のスーツ姿に隻眼の男が静かに室内へ入って来る。クリスが幼い頃からずっとクリスの護衛に就いているジェドだ。  よく鍛え上げられた肉体はクリスを護る為のものであり、眼帯に覆われた左目も、クリスが子供の頃暴漢に襲われた際、それを庇って失ったものである。  寡黙な男だが、共に過ごした時間も長く、今ではクリスが最も信頼している相手だった。  ソファの傍までやってきたジェドは、巨躯を折ってクリスの脇に跪き、慣れた所作でクリスの前へ鮮血の入ったグラスを差し出した。  受け取ったグラスに口を付け、数口含んでクリスはグラスをジェドへと突き返す。 「……不味い。この血を選定したのは誰だ?」 「申し訳ございません。先任の者が辞めた為、新しく着任した新人かと。厳しく申し伝えます」 「辞めた? またか……」  これで何人目だ、とクリスはうんざりと溜息を吐いて足を組む。  クリスはレンのように血が嫌いなわけではなかったが、昔から味の好き嫌いが激しく、血の選定係と好みが合わずに揉めることが度々あった。  我が儘、という点ではクリスとレンは非常によく似ているのだが、思っているのは周囲の者だけで、肝心のクリス本人には自覚がない。  なのでこうして次々と血の選定係が辞めていく状況も、クリスには面白くないのである。  黒執家の次期当主になるのは自分だとクリスは確信しているが、吸血鬼の命の源とも言える血を自分で選ぶことができないことだけは、唯一不自由だ。  そこでふと、ずっと血が飲めなかった────いや、飲めないと思っていた弟の顔が脳裏に浮かぶ。  最近本家で姿を見かけないと思えば、いつの間にか日本に住居を移して人間の学校に通っているという話を聞きつけ、父は一体何を考えているのか確認する意味も兼ねて、様子を見に訪れてみて驚いた。  誰の血も受け付けず、そもそも他人すらも寄せ付けずに部屋にこもってばかりだった弟は、いつの間にか人間を部屋に招き入れ、その血を飲むようになっていた。  あれだけ頑なに血を拒んでいた弟が、何故あの人間の血は受け付けたのだろう。  あのレンの舌をも唸らせるほどの血の持ち主だとでもいうのだろうか。  見たところ、高坂晴人と名乗ったその人間は、ごく平凡な学生のように見えた。  一族の中でもクリスにあんな口調で食いついてくる輩はそうそう居ないというのに、妙に威勢だけは良かったが。  そんなところもレンとは相容れないように思えるが、クリスの知らないところでレンにどういう変化があったというのか。  それがわからないこともまた、クリスの心を苛立たせた。  父は別にクリスに厳しいということはなかったが、偏食家で引きこもりでクリスのように努力をしないレンに、随分甘い気がする。  あんな屋敷を与えてやって、その上クリスが親族の中でも最も苦手なアリシアを、目付役として傍に置いている。  ────気に喰わない。  眉を顰めて、クリスは組んでいた足を解くと再び「ジェド」と目の前の男へ向かって呼びかけた。  察したジェドが、「失礼致します」と慇懃に頭を下げてから、ソファに凭れかかるクリスの上に、体重を掛けないようそっと覆い被さる。  従順なジェドの首へ腕を絡めて、クリスは自ら身を乗り出すと自身よりずっと逞しい首筋へ歯を突き立てた。  吸血鬼同士で血を吸うことは、特別禁じられていたり害があるわけではないが、基本的には行わない。  ただ、好き嫌いの激しいクリスは、選定された血が気に入らない場合、こうしてジェドの血を吸うことがしばしばある。  ジェドの血の味が好みだということもあるが、名家の当主や当主候補は選定された『人間』の血しか口にしてはならないという決まりはあっても、『吸血鬼』の血を口にしてはならないという決まりはないからだ。  最早屁理屈に近いのだが、クリスは秘め事のように愉しんでいたし、ジェドも特に何も言わなかった。  こうしてクリスに対して常に従順なジェドの存在が、唯一クリスの心を落ち着かせてくれる。  空腹も満たされて、ジェドの首から唇を浮かせたクリスは、絡めた腕はそのままに、血に濡れた唇をジェドの耳許へ移してそっと囁いた。 「レンと同じ学校に通っている、高坂晴人という生徒。暫く目を付けていろ」 「────承知しました」

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