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第14話

 ◆◆◆◆◆ 「黒執、お前いい加減体育の授業では倒れないように頑張れよ」  すっかり常連客と化している保健室のベッドの上、晴人に呆れた声で言われたレンが、気怠げに視線を持ち上げた。 「……しょうがないだろ。大体、二百メートルでも有り得ないのに、一キロも走れとか、そんなことできるわけない」 「お前の場合はまず基礎体力が無さ過ぎるんだよ。昼間は無理でも、夜にちょっと散歩するとか、それくらいなら出来るだろ」 「散歩って、どこに?」 「どこって……別に、近所の公園とか、駅まで行って戻って来るとか……」 「用もないのに出歩くとか、何でそんな無意味なことしなきゃいけないんだよ」  疲れきった息を吐いて、レンが顔を顰めた。  取り敢えず学校には来るようになったが、学校から帰ると巨大な屋敷という殻を背負ったカタツムリみたいに引きこもりに戻ってしまうこの吸血鬼を、一体どうやって外に連れ出したものか……最近ではそれが、晴人の悩みの種になっていた。  今日の体育の授業内容は晴人の得意とするサッカー……だったのだが。  レンが引きこもって学校に来ていなかった間に行われたスポーツテストの種目を、まだ受けていないレンは毎授業ごと、別途課されていた。  先日も反復横跳びで倒れ、その翌日にはシャトルランでまた倒れ、そして今日の授業で測定するはずだった千メートル走も、二百メートル目前のところでレンはまたしてもバタリとグラウンドに倒れ込んだのである。  以前二百メートル走で倒れたときは半分にも到達しなかったことを思うと、これでも進歩した方なのだろうか。  ともあれ、体育の授業中にレンが倒れる光景は、最早生徒たちの間でもすっかり見慣れたものになってしまっていて、倒れなかった日はむしろ称賛の嵐が沸き起こるほどになっていた。  レンが登校し始めたばかりの頃は、クラスの誰もが驚きと興味に溢れた目でレンを見ていたが、最近では到底晴人以外の手には負えない虚弱体質の変わり者、という位置に落ち着きつつある。  本来なら保健室へは保健委員が付き添うことになっているが、レンに関しては当たり前のように毎回晴人が保健室へ抱えて運び、それに異論を唱える者は一人も居なかった。強いて言うなら、大和が毎回揶揄ってくるくらいだ。  保健医に至っても、さすがに体育の授業でほぼ毎回倒れているレンのことは晴人にお任せ、といった感じで、この日も「ちょっとコピーを取りに行ってくるから、黒執君のことお願いね」と晴人にレンを託して席を外している。  アリシアに、レンの兄であるクリスに気を付けるよう忠告されてから、一週間が過ぎた。  その間、レンの元にはクリスは姿を見せていないらしく、それは晴人の方も同様だった。  クリスは初めて会ったあの日以来、何の動きも見せておらず、この平穏さが却って不気味に思えるほどだ。  アリシアもレンも心配そうだったが、それは単なる杞憂で、クリスは本当にただの気まぐれでレンの様子を見に来ただけだったのだろうか。  出来ればそうであって欲しいと思いながら、晴人は疲れた顔でベッドに横たわるレンを見下ろす。そこでふと、アリシアの衝撃発言を思い出した。 「そういえばお前、ずっと俺と同い年だと思ってたけど、実はそう見えて結構いい歳なんだったな。体力無いのは歳の所為もあるのか?」  壁際に畳んであったパイプ椅子を拝借し、傍らに腰を下ろした晴人の顔を、レンが首を捻ってジロリと睨んでくる。 「別に、歳は関係ない。吸血鬼は元々、人間より三倍は長寿なんだよ」 「……てことは、お前が兄貴の歳になる頃には、俺はもう四十代後半のオッサンになってるってことか」  今から三十年先の自分なんて、全く想像もつかない。  けれどそれだけの時を経ても、きっとレンの見た目は今と殆ど変わらなくて、人間の晴人は確実に中年になっているのだ。  ということは、例えこの先ずっと健康であったとしても、晴人の寿命の方が短いわけで、もしも晴人が死んでしまったら、晴人以外の血が飲めないレンは、一体どうなってしまうのだろう。 「……黒執。お前、このまま俺以外の血が飲めないままでいいのか?」  レンの身を案じて何の気なしに晴人は問い掛けたのだが、レンは途端に顔を強張らせてガバッと身を起こした。 「おい、まだ寝てろって────」 「……何で、そんなこと聞くんだよ」  晴人の声を遮って、レンが微かに震える声で問い掛けてくる。  それは、かつて晴人の血を必死に拒んでいたときのレンの声とよく似ている気がした。まるで、何かに怯えているような……。 「やっとアランが最近言わなくなったと思ったら、お前までそんなこと言うのか? ……もう俺に血を飲まれるのが嫌になったから?」  自嘲気味に笑うレンを見て、晴人も思わず眉を顰める。 「馬鹿、そうじゃない。何度も言ってるけど、俺の血くらいいくらでもやる。でも、お前の寿命が俺の三倍はあるんだとしたら、当然俺の方が先に死ぬんだ。そしたらお前は、それからどうやって生きていくんだよ」 「………」  晴人の言葉に、レンはベッドの上で膝を抱えて暫し押し黙った。  細い眉がギュッと切なげに寄せられて、その表情に思わず晴人の心臓が大きく鳴った。 「……お前の血を飲んでから、野菜や果物じゃ腹は満たせなくなったし、そうなったら────俺も死ぬ」  そう呟いたレンの横顔が、何だか今すぐにでも命を絶ってしまいそうに思えて、晴人はつい声を荒らげた。 「死ぬとか簡単に言うなよ! ……もしかしたら、探せば俺以外にも、お前に合う血の持ち主だって、居るかも知れないだろ」  自分の方が先に死ぬと言っておきながら、レンが余りにもあっさり死を受け入れるということにカッとなった晴人だったが、腹の底では得体の知れないモヤモヤとした感情が渦巻いていた。  レンの為には、出来ることなら自分以外にも口に合う血を探して貰う方が良いと思っているのに、心のどこかで、何故かそれを快く思わない自分が居る。  いつも蕩けるような顔で晴人の血を求めるレンが、もしかしたら晴人以外の誰かの血を同じように求める日がくるのかも知れないと思うと、胸の奥がひりひりと焼け付くようだった。前にも、こんな感覚を覚えた気がする。  自身の言葉と感情の矛盾に、苛々する。そしてそれはレンも同様なのか、銀色の宝石が嵌ったような双眸をキッと吊り上げた。 「お前だって、俺より先に死ぬってあっさり言ったじゃないか! やっぱり、俺なんかに構うのが面倒になったんだろ!? だから最初から、俺に構うなって言ったんだよ……!」  感情のままに叫んだレンのその顔は、荒々しい声とは裏腹に、今にも泣き出しそうに歪んでいる。  そんな顔を、晴人はこれまでにも何度か見てきた。本心を隠して強がろうと必死な、レンの顔。  しまった…と、そこで晴人も漸く自身の失態に気が付いた。  兄のクリスに遠慮するあまり、不器用に閉じこもることしかできなくなってしまったレンに、言わせてはならない言葉を言わせてしまった。  クリスとのこともあって、レンは独りにならざるを得なかったのだと、アリシアから聞かされていたのに──── 「……悪い。そういうつもりで言ったんじゃない」 「別にいい、慣れてるから。兄さんだって、その周りの連中だって、どうせ俺のことは一族の恥だと思ってるし……アランだって、俺のこと『手が掛かる』っていつも言ってる」 「お前の兄貴たちはともかく、アリシアや俺はお前のことを面倒だなんて思ってない。手が掛かって憎たらしいところが、お前らしいって思ってるんだよ」 「……憎たらしくて悪かったな」  抱えた膝に額を押し付けるようにして、レンは弱々しい声で憎まれ口を叩く。そうして、ポツリと呟いた。 「……俺はお前以外の血なんて、飲みたくない」  その瞬間、ギュウッと何かに胸を強く締め付けられるような思いがして、晴人は堪らずレンの身体を抱き締めていた。  これまで、晴人のことを好きだと言ってくれたどの異性に対しても、こんな衝動に駆られたことは一度もない。  それなのに同性の、しかも吸血鬼に対して抱き締めずに居られないなんて、自分はどうかしているんだろうか。  例えそうだとしても晴人には、目の前の実際は晴人より遥かに年上な吸血鬼が、愛おしくて堪らなかった。 「お、おい……何だよ……!」  レンが突然の抱擁に驚いて身を捩ったが、晴人はその身体を抱き締める腕を弛めなかった。 「……お前、さっきの凄い殺し文句だぞ」 「え……?」  自覚がないのか、レンが一瞬抗うのを止めて晴人の腕の中、首を傾げる。  そんな所作すらも可愛く思えて、晴人はまだ保健医が戻る気配がないのを確かめると、念の為入り口側のカーテンを引いてから、レンの後頭部を抱き寄せた。 「丁度いいから、ついでに血、飲んどけよ」  晴人が言うと、レンは「まだ大丈夫だ」と晴人の胸を押し返そうとする。 「大丈夫って、お前もう一週間以上俺の血飲んでないだろ」 「……俺はお前の血以外飲みたくないけど、でもお前の血だって、極力飲みたくないんだ」 「何だよ、やっぱりやせ我慢だったのか」 「だって……! ……お前の血飲むと、おかしくなるんだよ……」  本能的に飲みたい欲求を堪えるように、レンが晴人の胸元へ額を擦りつけるようにして緩々と首を振る。 「おかしくなる?」 「お前の血飲んでると、段々『もっと飲みたい』っていうことしか考えられなくなって、自分が自分じゃなくなるような気がして……怖いんだ」  震える声でもう一度「怖い」と繰り返したレンが、縋るように晴人のシャツを緩く握り込んだ。  確かにいつも、レンは晴人の血を一旦飲み始めると、晴人が止めるまで夢中になって吸っている。  けれど、我を忘れそうになるのは何もレンだけじゃない。晴人だって、何故かはわからないが、レンに血を吸われていると徐々に思考がぼんやりしてきて、目の前のレンに無性に触れたくて堪らなくなるのだ。 「……アランは、どんなに美味い血でも同じ人間の血は二度と吸わないって言ってた。お前の血を飲むまで、どうしてなのか全然わからなかったけど、今ならちょっとわかる気がする……」 「……俺の血を飲んだこと、後悔してるってことか?」 「後悔してるのに、もっと飲みたいって思うんだ。お前の血を飲んでると、その内夢中になりすぎて、お前のこと……殺してしまいそうで……」  そう言って小さく身を震わせた臆病な吸血鬼を、晴人は改めて力強く抱き締めた。  これほど怖がりで、素直じゃなくて、可愛い吸血鬼なんて居るんだろうか。  どうしてこんなにもレンのことが気になって、構いたくて仕方ないのか、晴人にはずっと不思議だったが、今になってやっとわかった。  ……こんなヤツ、放っておけるわけがない。 「お前が夢中になりすぎてたら、俺がちゃんと止めてやる。今までだって、毎回止めてやってただろ」  華奢な背中を軽く撫でてやると、レンがシャツを握り込んでいた指を解いて、その手をおずおずと晴人の首へ絡めてきた。不器用でぎこちない、レンの催促だった。 「……約束しろよ。絶対、俺のこと止めるって」 「ああ……約束する」  晴人の答えを聞いて、レンは第一ボタンを外した晴人の首の付け根あたりへ、躊躇いがちに噛み付いた。  首筋はさすがに目につきやすいので、レンは最近こうして吸う場所を僅かにずらしてくれるようになった。  それでも、一旦晴人の血を啜ると次第に我を忘れてあちこち噛み付きたがるので、晴人はレンの甘い匂いに思考を持っていかれないよう何とか堪えつつ、窘めるようにレンの髪を握り込んで緩く引っ張る。  けれどレンが懸念するように、回数を重ねるごとに、レンはなかなか晴人から離れようとしなくなっていた。  今も首の付け根から鎖骨に場所を移して、夢中で晴人の血を味わっている。  レンの体操着の背中を引っ張っても離れる気配がなく、次第に頭の芯が甘く痺れ始めた晴人は、無意識にレンの体操着の裾から手を忍ばせると、綺麗に背骨の浮いた背中を掌で撫で上げた。  初めて触れたレンの裸の背は、まるで陶器みたいに滑らかだと思ったその瞬間。ビクッ、と大きく身を跳ねさせたレンが一瞬で我に返った様子で、晴人を見上げた。 「なっ、何やって……!」  欲求に流されるままレンに触れていた晴人は、白い顔を赤らめて見上げてくるレンの顔を見て、つられたように我に返った。 「ああ……悪い。何か、気がついたら触ってた」 「き、気がついたらって……」 「お前ら吸血鬼って、吸血するとき、フェロモンか何か出してるのか?」  毎回甘くてイイ匂いがする、とレンに伝えると、レンは「そんなの知るか」と赤みの残る顔をプイ、と背けた。  レンの甘い香りに思考が蕩けそうになるのは、レンが晴人の血を吸い始めると止まらないのだということと、同じような感覚なのだろうか。だとしたらレンが我に返らなければ、晴人はレンに、どこまで何をしてしまうのだろう。 「……嫌だったか?」  一瞬で正気に戻るほど、晴人に触れられたことがショックだったのだろうかと多少複雑な気持ちで問い掛けたが、レンは背けた顔を耳まで紅くしてボソボソと口を動かした。 「……別に……嫌、とかじゃなくて……ビックリしただけ」  そんなレンの反応が愛おしすぎて、晴人は堪らず腕の中でそっぽを向くレンの身体をギュウ、とまたも強く抱き締めた。  申し訳ないが、大和がいつも「可愛い」と絶賛しているクラスの女子よりも、晴人にとってはレンの方が余程可愛く思える。  腕の中で「苦しい」と訴えるレンを抱き締めながら、ふと悪戯心に火が点いた晴人は、レンの服の裾から再び手を忍ばせた。今度はしっかり味わうように、レンの薄い肌に浮いた背骨を辿ってゆっくりとその肌の質感を味わいながら撫で上げていく。 「ぁ……っ」  微かな声を漏らして背を震わせたレンが、慌てたように自分の口を両手で塞いだ。一瞬だけ聞こえたレンの甘い声に、晴人も思わず喉を鳴らす。 「今のも、ビックリしただけか?」  掌がレンの肩甲骨に辿り着き、そこから脇を掠めて晴人がレンの胸元まで手を滑らせると、さすがにとうとうレンがその手を掴んで制した。 「い……いい加減にしろよ……っ!」 「でも、夢中で血吸ってたの、望み通り止めてやっただろ? それに、お前嫌じゃないって言ったよな」 「嫌じゃないけど、擽ったい!」  そんな反応が晴人を悦ばせていることを、レンは恐らく気付いていない。 (墓穴掘りすぎだろ……)  いくらレンが力なく晴人の腕を押し返したところで、紅潮した頬で何を言われても、触っても良いのだと言われているとしか思えない。 「……何、ニヤニヤしてるんだよ」 「正直、ちょっとやらしいこと考えてた」  じとっと晴人を睨むレンに、揶揄い交じりに答えると、「もう教室帰れ馬鹿!」と弱々しいパンチが飛んできた。  そうしてじゃれ合う二人は、窓の外から静かに室内へと注がれる視線には、全く気付かなかった────

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