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第15話

「レン様は、どうやら高坂晴人の血だけを摂取しているご様子です」  ホテルのソファに腰を掛け、用意された血の入ったグラスに口を付けるでもなく、注がれた鮮血を軽く揺らしながらジェドの報告に耳を傾けていたクリスは、整った眉を怒りと苛立ちに顰めた。 「特定の人間だけの血を吸っているだと?」 「はい。レン様の住居には当主様の命により近付けませんが、ここ数日、学校でのお二人の様子を伺った限り、レン様が高坂晴人以外の血を吸っている可能性はないかと。その高坂晴人からも、レン様は週に一度程度しか、吸血していないようです」 「週に一度? ……有り得ない。その程度の吸血で、持ち堪えられるわけがない」 「ですが、レン様は現状健康面では特に問題はないように見受けられます。……運動不足による、体力の衰えはあるようですが」 「アイツの運動不足なんて、今に始まったことでもない」  淡々と報告するジェドの言葉に、クリスは呆れた溜息を返した。  レンが部屋に閉じこもってばかりいるお陰で体力がないのは、昔から変わらない。  そんなことより、クリスにはレンが高坂晴人の血だけで持ち堪えているのだということが信じられなかった。信じられない、というよりも、信じたくない、という方が正しいかも知れない。  基本的に、吸血鬼が特定の人間の血だけを飲み続けるということは有り得ない。  吸血鬼は少なくとも週に二、三度は吸血する必要があるが、一人の人間からそんな頻度で血を吸い続ければ、確実にその命を奪ってしまうからだ。  なのに何故、偏食のお陰で万年貧血だったレンが、週にたった一度、あの人間の血を吸うだけで満足に動けるのだろう。あの一見平凡以外の何者でもない人間の血に、一体何があるというのか。 「レン様には、高坂晴人以外の血を飲む意思はないようです」 「……そもそも何故、レンはヤツの血を吸う気になったんだ」 「申し訳ありませんが、そこに関しては、私の見聞きした限りではわかりかねます。ただ、どうもレン様はまだ尚、吸血行為には若干抵抗があるようです。どちらかと言えば、高坂晴人の方からレン様に吸血を促しているようでした」 「人間の方から吸血を促すだと? ……洗脳して丸め込んでいる可能性はないのか」 「私が見た限り、高坂晴人は洗脳を受けている様子はありません」  馬鹿な…、とクリスは自分の中にある吸血鬼としての常識をことごとく覆すジェドの報告に、眉間の皺を深くした。  洗脳して吸血させているというのならともかく、そうでもないのだとしたら、あの人間はレンが吸血鬼であることを理解した上で、自ら血を与えているということになる。  アリシアは昔からレンを可愛がっており、一族の中でも最も我が道を行く彼はクリスの意向などお構いなしでレンの傍を離れなかったが、彼は同じ吸血鬼仲間であり親族でもあるのだからまだわからなくもない。  だが、晴人はレンとは同じ学校の生徒であるという以外、特別な繋がりなど何もなかったはずだ。  なのに何故、レンの正体を知っても、晴人はレンの傍に居るのだろう。  吸血鬼という正体を知られても尚、レンが他人である晴人を傍に置いていることも、クリスには全く理解できない。記憶にあるレンは、極力他人との関わりを避けていたはずなのに。  どうせ人間の学校へ通ったところで、レンの根っからの引きこもり体質が変わるはずなどないと高を括っていたクリスだが、まさか自分の知らない間に弟にこれほどの変化があったとは思いもしなかった。  ────どうして、いつもこうなんだ。  クリスは幼い頃から時期当主になるべく必死に努力をしてきたというのに、何においても完璧主義者のクリスについていけないと、辞めていく従者も多い。  けれど一方のレンは、いつまで経っても人前に出ることを嫌い、薄暗い部屋に閉じこもってばかりだというのに、少し知能が高いというだけで、努力もせずに一定の人物を引き寄せる。  レンの肩を持つ連中は、両親やアリシアを除いて全て遠ざけたと思っていたのに、いつの間にかレンは、高坂晴人という信頼できる存在をまた新たに見つけているのだ。  気が付けばクリスの周りには次期当主に擦り寄る一族は山ほど居ても、心を許せる存在なんて、ジェドくらいしか居ない。知らない内に、クリスとレンの立場は、逆転しているのではないのか──── (そんなことがあって堪るか……!)  苛立ちにギリ…と歯を鳴らして立ち上がると、クリスは結局一口も口を付けていないグラスを荒々しくテーブルへ置いた。弾みでグラスから飛び散った鮮血が、真っ白なテーブルクロスに紅い染みを作る。  じわりと布に染みわたる血を見つめ、そこに高坂晴人の姿を重ね合わせる。  ……あの人間さえ居なければ、全ては元に戻るはずだ。レンはまたこれまで通り部屋に引きこもるようになり、クリスがこうも苛立ちを感じることもきっとなくなる。  テーブルクロスを見つめるクリスの背後で、ジェドが跪く気配がした。 「……クリス様。今回レン様の元を訪問したことは予定外です。当主様からも、早くクリス様を連れて帰国するようにと仰せつかっております」 「わかってる。────『所用』が終わればすぐに戻ると伝えておけ」  吐き捨てるように告げて、クリスは振り返ると同時にジェドのネクタイと掴むと、グイ、と力任せに引き寄せて強引に立ち上がらせた。  とはいえ、クリスとは圧倒的な体格差があるジェドが、クリスの力で動かせるわけがない。クリスの意図を一瞬で察したジェドがあたかもクリスの手に引かれるように立ち上がり、首筋に突き立てられる歯を受け止めた。   空腹を満たす為というより、ただ苛立ち紛れにジェドの血を吸う。その頭上でジェドの唇が何かを紡ぐように薄く開いたことに、このときのクリスが気づくことはなかった。  ◆◆◆◆◆ 「お疲れ様でした」  部室の前で先輩たちに挨拶した晴人は、大和と並んで校門へと歩き出した。 「あっち~……制服って何でこんな暑いんだよ」  隣で制服のシャツの胸元をバサバサと扇がせて僅かばかりの風を送りながら、大和が顔を顰める。  梅雨入りが近いのか、最近は空気がジメジメし始めていて、部活が終わっても汗が乾ききらないことが多かった。  よく晴れた日は陽射しがキツイから嫌だと言いながら、雨の日は雨の日で頭が怠くなる気がするから嫌だと言う我が儘な吸血鬼の顔が脳裏を過ぎって、晴人は思わず口許だけで笑う。このまま梅雨入りしたら、きっとまた外に出るのが嫌だと言い出すに違いない。 「晴人、帰りマック寄って行かね?」  隣から夕飯に誘ってくる大和に、晴人は「悪いけど今日は無理だ」と眉を下げた。そんな晴人に向かって、大和はつまらなそうに「今日『も』だろ」と口を尖らせる。 「どーせまた黒っちンとこ行くんだろ。お前らもう付き合ってんじゃねぇの? 別に俺そーゆーの偏見ないから正直に言えよ」 「何でそうなるんだよ……」 「何でも何も、多分クラスの大半はそう思ってるぜ? だって黒っちが体育で倒れる度にお前がすかさず保健室まで運んでくし、黒っちも最近やっと話かけりゃ答えてくれるようにはなったけど、基本お前としかまともに話さねーじゃん」  大和に言われて、自分たちは周囲から見るとそんな風に見えていたのか、と晴人は多少気まずいような、擽ったいような、複雑な気持ちになる。  晴人にとってレンが特別な存在であることには違いないのだが、自分たちの関係はどう表現するのが正しいのだろう。  少し前までは吸血鬼と、そいつに血を分けてやっている関係、という他人に言えば笑い飛ばされそうな関係だったが、最近では単純にそれだけでもない気がする。少なくとも晴人にとっては、レンはただ血を与えるだけの相手ではなくなっていた。  相変わらず晴人の方から促してやらないと満足に血も飲めないし、晴人の血以外は飲みたくないと言う、素直じゃなくて我が儘で臆病なレンが、とても愛おしくて仕方がない。その『愛おしい』という感情が、庇護欲からくるものなのか、それとももっと別の欲求からくるものなのか、そこはまだ晴人の中ではどこか曖昧ではあったが、何にせよレンが大事であることには変わりない。  今日も、レンには部活が終わったら家に寄ると、放課後に約束していた。 「取り敢えず、飯はまた今度な」 「俺こんだけフラれ続けてんだから、次飯行くときは晴人の奢りな。いつかの黒髪美人のこともいい加減詳しく聞かせろよ」  アリシアのことはレンの親戚でたまたまレンの家で会ったのだと、大和には大雑把に説明はしたのだが、アリシアを完全に女性だと勘違いしている大和は未だに諦めていないらしい。詳しく聞かせたら絶望するだけだぞと内心思いながら、晴人が曖昧に苦笑したとき。 「高坂!」  不意に頭上から晴人を呼ぶ声がして、晴人は大和と揃って声がした方を見上げた。  視線の先、校舎三階の窓から、誰かが軽く半身を乗り出して晴人たちを見下ろしている。制服姿なので生徒だということは確認出来たが、もう日が殆ど沈んで薄暗いお陰で、相手の顔まではよくわからなかった。 「谷川先生が、教室まで来て欲しいってさ!」 「教室……?」  こんな時間に教室へ呼び出される理由がわからず、晴人は首を捻った。隣で大和が「何か忘れ物でもしたんじゃね?」とスポーツドリンクを飲みながら言う。  担任の用件を確かめようと晴人が再び顔を上げると、校舎の窓に、もう人影はなかった。 「忘れ物した覚えはないけど、取り敢えず一回教室行ってくる」 「じゃあ俺先帰ってるわ。お疲れ、黒っちによろしく」  ニヤリと笑って手を振ってくる大和に苦笑いで「お疲れ」と軽く片手を上げ、晴人はそこで大和と別れた。  校舎内へ消えた晴人の背中を見送って、視力の良い大和は校門を潜りながら怪訝そうに首を捻った。 「……あんなヤツ、同じ学年に居たっけ?」  言われるまま、一年A組の教室までやってきた晴人は、明かりの点いていない教室を前に首を傾げた。  扉に手を掛けてみると鍵はかかっておらずすんなりと開いたのだが、教室内は薄暗く、担任の谷川の姿もどこにも見当たらない。 「先生……?」  数歩踏み込んで訝しむように名を呼んでみても、シンと静まり返った室内に、晴人の声が響くだけだった。 (イタズラか……?)  校舎の窓から晴人を呼んだ相手の顔もよくわからなかったし、性質の悪いイタズラかと晴人は呆れと苛立ちの混ざった息を吐く。  どこの誰の仕業かわからないが、とんだ無駄足だったと踵を返したところで、晴人は息が止まりそうになった。 「────!」  さっきまで誰も居なかったはずの扉口に、この蒸し暑い中、漆黒のコートを纏ったクリスが立っていた。  アリシアに忠告されて以来、全く姿を見せることもなかったので、すっかりクリスの存在を忘れかけていたこともあって、晴人は驚きに数歩後退る。  そんな晴人の反応を愉しむように、クリスは唇に薄らと笑みを浮かべながらゆっくりと歩み寄って来る。一定の距離を保って逃げる背中がガタッと教卓にぶつかり、退路を断たれた晴人の目の前に迫ったクリスが、歪んだ笑みを深めた。 「随分と警戒心が薄いことだな。レンやアランから何の忠告もされなかったのか?」 「……もうとっくに家に帰ったのかと思ってたからな。そんなに暇なのか、次期当主ってのは」  クリスの威圧感に負けじと晴人は敢えて挑発的な言葉で返したが、内心ではまんまとクリスの罠に嵌ってしまったことを強く後悔していた。  恐らくさっきの生徒は、クリスが洗脳して晴人を呼ばせたのだろう。  アリシアやレンはもう晴人を洗脳したりはしないし、レンにも学校では無暗に人の記憶や思考を弄るなと言ってあるので、油断しきっていた。  廊下の蛍光灯の明かりで、クリスの銀髪が鈍く光る。  晴人の言い方が気に障ったのか、クリスは浮かべていた笑みを消すと、冷えた双眸を僅かに細めた。 「レンも随分と上手く飼い慣らしたものだ。人間を飼い慣らすなんて、俺には到底理解できないが」 「そんな物言いしかできないアンタには、そりゃ理解できないだろ。……アンタと黒執、見た目はよく似てるけど中身は全然似てないな。アイツはアンタよりよっぽど可愛げがある」  晴人がそう吐き捨てた瞬間、怒りと屈辱に顔を歪めたクリスが「黙れ!」と叫んで晴人の胸倉を掴んだ。  まずい、と慌ててクリスから目を逸らそうとしたが、ほんの僅か、間に合わなかった。  身体の自由が利かなくなった晴人の瞳を捕らえた銀色の目が、怒りに揺れている。クリスがこんな風に怒る必要も、レンがクリスに萎縮する必要も、全くないじゃないかと言ってやりたいのに声が出ない。 「あれだけ血を毛嫌いしていたレンが、何故お前の血だけは受け入れた?」  晴人が答えられないことはわかっているくせに、クリスが一方的に問い掛けながら、懐から何かを取り出した。廊下から入り込んでくる光で鋭く光った刃先を見て、それがナイフであることを知り、晴人はギクリと動かない背を強張らせた。  逃げようにも抗おうにも、指先一つ動かないのだから、晴人にはどうすることもできない。 「吸血鬼と人間が慣れ合うなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。お前の血は、一体何なんだ?」  そんなこと俺にわかるか、と心の中で答える晴人の首筋へ、クリスがナイフの刃をピタリと宛がう。刃を立てることはせず、ゆっくりとナイフを滑らせていき、一度胸元で手を止めたクリスが、ふと口端を歪めた。 「────そう言えば、お前はサッカーをしているんだったか」 「………っ!」  まさか…と思った、次の瞬間。  太腿に、鋭く焼けるような痛みが走った。  身体の自由が利かないので、何をされたのか確かめることもできなかったが、太腿がドクドクと脈打つように痛んで、生温かいものが足を伝い落ちていく感覚がある。切られた、ということはわかったが、どの程度の傷なのかもわからない。  痛みに顔を顰める晴人の前で、クリスが晴人の血の付いたナイフの刃先へ見せつけるように舌を這わせた。 「……どれほどのものかと思えば、大して美味くもない。お前もレンも、目を覚ますべきだ」  真っ直ぐに晴人を見据えるクリスの瞳が、愉しげに妖しく揺らぐ。 (……やめろ。余計なことするな……!)  心で必死に叫んでも、口から洩れるのは浅い息ばかりだった。 (黒執……!!)  念じるように、この場に居ないレンの名を脳内で繰り返す晴人に向けて、クリスが非情にも静かに口を開く。 「いいか、お前は黒執レンに大事な足を切りつけられた。お前はそんなレンが憎くて堪らない……そうだろう?」  まるで幼い子供に言い聞かせるように、不気味に甘い声が囁き、思考が晴人の意思に反してぐにゃりと掻き混ぜられる。 (黒執が……憎い? ……違う、そんなわけがない。でもアイツは俺を切って……俺の足を……)  目の前でナイフを掲げて笑うクリスの姿が、次第にレンの姿に変わっていく。  同時に痛みで徐々に視界が霞み始め、やがて晴人はそのまま意識を失った。

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