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第17話
「ジェド。お前、俺が学校に居る間、何処へ行っていた」
空港へ向かう車の中。運転席のジェドへ向けて、クリスは後部座席で脚を組みながら問い掛けた。
クリスがレンの通う学校で晴人に接触している間、ジェドには人払いを命じていたが、確かに教室には誰も来なかったものの、クリスが『所用』を終えて校舎を出ると、ジェドの姿は車ごと消えていた。
暫く待っていると何事もなかったようにジェドの車は戻ってきたが、これまで何も告げずにジェドがクリスの元を離れたことはなかったので、そのことに苛立ちを覚えずにはいられなかった。ジェドだけは、クリスが命じない限り、決してクリスの傍を離れることはないと確信していたからだ。
「クリス様に依頼された人払いに関しては、仰られた通りに取り計らっておきましたので、問題は無かったはずですが」
ルームミラー越し、眉一つ動かさずに答えるジェドに、クリスの苛立ちは更に募っていく。
「俺が言いたいのはそんな事じゃない。それがわからないお前でもないはずだ。……何処で、何をしていた」
「……クリス様が高坂晴人の元へ向かわれたので、私はレン様の元へ向かわせて頂いただけです」
「レンの屋敷に行ったのか!?」
後部座席から思わず身を乗り出すクリスに、ジェドは冷静な声音で「危険ですよ」と忠告してくる。その返しに腹が立って、クリスはドサリと荒っぽくシートに座り直すと、つま先で運転席の背を軽く蹴飛ばした。
本家ではいつ、どんな来賓があるかもわからないので行儀よく振る舞っている分、クリスはジェドと二人きりになるとその反動からか、行動が非常に粗野になる。もっとも、クリス自身はそれがジェドへの『甘え』であることを一切自覚していないので、そこが性質の悪いところなのだが。
「ジェド。お前、父さんからレンの屋敷には近付くなと言われたはずだろう」
クリスが以前、勝手にレンの屋敷を訪れた際、偶然出くわしてしまったアリシアが早々父に報告したのか、その父からは改めて、クリスとジェドはレンの屋敷に立ち入らないようにと命じられていた。
さすがに当主の命とあってはクリスも逆らうわけにはいかないので、仕方なくレンへの接触は諦め、代わりに晴人の方に狙いを定めていたのだが、あろうことか父に忠実なジェドが、その命に逆らってまでレンの元を訪れていたということに、驚きと苛立ちが隠せない。
しかもあのタイミングでレンの元を訪れたということは、恐らくクリスの行動を伝えに行ったのだろう。伝えたところでもう手遅れだろうが、それでも何故、クリスの護衛であるはずのジェドが、わざわざレンの元へ出向いていったのか。
────まさか、ジェドまでレンの側に周るということなのだろうか。
(……馬鹿な。有り得ない)
幼い頃から何人もの従者が辞めていったが、ジェドだけは違った。何があっても、ジェドだけはクリスの忠実な護衛で居てくれた。
だからこそ、今更レンの側へ寝返ることなどあるわけがないし、あってはならない。
そうだろう?、と問うような視線をルームミラーに向けると、相変わらず感情の読めない視線を寄越すジェドとミラー越しに目が合った。ゾワ、と得体の知れない悪寒がクリスの背筋を走る。
「私が当主様から命じられたのは、『レン様の屋敷に立ち入るな』ということ。ですから、屋敷の敷地内には一切立ち入ってはおりません。……もっとも、レン様は出てこられなかった為、アラン様とお話するのみになりましたが」
「アランだと!? お前まさか、よりにもよって、アランに話したのか!?」
「クリス様からは、特に口止めされてはいなかったかと思いますが」
「ふざけるな! わざわざ話に行かなくても、明日レンが学校に行けば事は進んだはずだ!」
レンに話すだけならともかく、よりにもよって父の弟で、クリスも唯一口では勝てない相手であるアリシアに知られたなんて冗談じゃない。
一体何を考えてる、とクリスは後部座席から再び身を乗り出して、背後からジェドのネクタイを掴んだ。ジェドのネクタイを引くのは、クリスがジェドに忠誠を求めるときだ。ジェドもそれは重々承知しているはずだが、この日初めて、クリスの手は自分を護ってきたジェドの手によって呆気なく振り払われた。
「な……っ」
予想もしなかったジェドの行動に、クリスは思わず声を詰まらせた。
「クリス様。お言葉ですが貴方こそ、当主様を裏切ったこと、理解されていますか。貴方が破った、我ら吸血鬼一族の掟────当主候補の貴方が知らないはずはない」
行き場を失った手を中途半端に持ち上げたまま動けずに居るクリスに、ジェドはフロントガラスを見据えたまま淡々と言葉を紡ぐ。
ジェドの声に抑揚がないのはいつものことだが、今日はやけにその声が冷たく思えた。冷えた怒りと失望が、確かにそこに潜んでいる。
「……俺が父さんを裏切ったりするわけがない。父であり、黒執家の当主だぞ」
「一族の掟を破られた時点で、貴方は当主様だけではなく、奥様やレン様、貴方に関わる全ての方を裏切ったことになる」
「ハッ……掟を破ったのは俺じゃない。レンだ」
明らかにこれまでとは違う、ジェドの態度や言動。そこに対する焦りや不安を誤魔化すように、クリスが自棄気味に鼻で笑った瞬間。
キキィ────ッ!、とけたたましい音を立てて、ジェドの車が急停車した。
「痛っ……!」
中途半端に後部座席から身を乗り出していたクリスは、ダッシュボードに額を強打する羽目になった。どうやら車通りの少ない路地の端に停止したらしいクリスたちの乗る車を、何事かと通行人がチラチラと横目に見ながら通り過ぎていく。
「っ……ジェド、貴様、さっきから一体どういうつもり────ッ」
額を押さえつつ身を起こしたクリスのシャツの胸元が、不意に強い力で掴み上げられた。そのまま喉元まで圧迫されそうで、苦しさにクリスは眉を顰める。
「……ジェ、ド……っ!?」
抗おうとジェドの腕を両手で掴むが、鍛えられたそれはクリスの力ではビクともしない。
一体、何がどうなっているのか。どうして自分はジェドに胸倉を掴まれなければならないんだ。
自らの過ちに気づかないクリスに、ジェドが胸倉を掴んだまま、失望の息を吐いた。
「貴方は、大事なことを何も学ばれていない。今回の件もどうにか思い止まって頂きたかったが、貴方はそんな期待には応えて下さらなかった。私は当主様の命で貴方の護衛を務めてきましたが、私が仕えているのはあくまでも当主様であり、貴方ではない。それを覚えておいて頂こう」
「……どういう、ことだ……」
ジェドは長年クリスの護衛役を務めていた。だがそれは、あくまでも父の命だからという理由だけで、そこにジェドの意思はなかったということなのだろうか。
どれだけ傷を負い、片目を失ってでも尚クリスを護り抜いてくれたのは、主である父に命じられたから……ただ、それだけだったのか。
アリシアの耳に今回の一件が入ったのであれば、もう既に父に連絡が行っていてもおかしくはない。それを受けた父が、もしもジェドにクリスの護衛の任を解くと言えば、ジェドはあっさり、クリスの元を離れていくのだろうか。
……だとしたら、自分には本当に、誰も居ないじゃないか……。
胸に突然大きな風穴を開けられたような虚無感がクリスを襲う。
掴んでいたジェドの腕から脱力した両手を滑り落としたクリスを、ジェドはこれまでの関係が嘘のように、乱暴に後部座席へと押しやった。
「当主様には、クリス様を本家へ連れ帰るようにと命を受けていますので、それを完遂するまでが私の責務です。そしてクリス様をこうしてお送りすることは、これが最後になるでしょう」
「………!」
最早ミラー越しにも視線を寄越さずに告げられた言葉が、クリスの心に止めを刺した。
────これが最後?
幼い頃から共にありながら、こんなにも呆気なく『これが最後』だと言い切ってしまう、冷徹さと潔さ。長年共に居たからこそ、それがジェドらしいと思ってしまうことが一層虚しかった。
ジェドが居なくなってしまったら、自分は一体どうなる?
昔から、身の回りに居る人物は自ら求めるものではなく、全て周りから選ばれ、与えられる存在ばかりだった。気に入らなければ別の者を与えて貰えば良いのだと、ずっとそうして生きてきた。
手遅れだ、なんて、レンや晴人のことを鼻で笑って高を括っていたが、本当に手遅れだったのは、クリスの方だったということなのか。
これまで信じてきたものも、プライドも、何もかもが崩れ去っていくのを感じて唇を噛み締めるクリスを他所に、車はまた静かに動き出す。
……このまま本家に戻れば、自分は本当に独りになる。
────そんなもの、冗談じゃない……!
「………っ」
ジェドが歩行者を避ける為、車の速度を少し落としたその隙をついて、クリスは後部座席の扉を開けると、動いている車中から強引に外へと飛び出した。
上手く降りることが出来ずにみっともなく路上に転がる羽目になったが、今のクリスにはとにかくジェドの車から降りられればどうでも良かった。
「クリス様……!?」
さすがにクリスのその行動はジェドにも予想出来なかったのだろう。車内から呼ぶ声に驚きが滲んでいたが、クリスはまたしても人々の注目を浴びる中、構わず人波を掻き分けて車の入れない路地へ飛び込むと、そこからは無我夢中で知らない街を駆け抜けた。
「……全く、本当に手の掛かる方々だ」
再び道路脇に車を停車させ、クリスが開け放ったまま立ち去った後部座席のドアを閉めて、ジェドは小さく溜息を吐いた。
それなりに博識なクリスは、母親が日本人ということもあって言語に関しては日本語も堪能だが、土地勘は殆ど無いはずだ。
おまけにクリスは、幼い頃から与えられた血ばかりを飲んでいたお陰で、自ら人間の血を吸ったことなどない。まともに飢えを凌げない可能性もある。
車を降りる直前、ルームミラー越しに盗み見たクリスの、今にも泣き出しそうな表情を思い返して、ジェドは苦笑する。
(ああいう顔は、本当によく似ているお二人だというのに……)
クリスが走り去った路地の方角に目をやったとき。ジェドの胸ポケットで、携帯が震えた。
「────はい」
襟元のマイクで応答した相手は、ジェドが生涯忠誠を誓うと決めている黒執家の当主だった。
『やあジェド、お疲れ様。まだ、日本に居るのかい?』
いつもながら、穏やかな声がイヤホンから聞こえてくる。
帰国を急かされているのかと、たった今車から脱走したクリスの後ろ姿を思い浮かべながら「はい」とだけジェドは答える。しかし当主の用件は、そんなこととは全く見当違いのものだった。
『……実は、アヤが倒れたんだ』
「…………奥様が?」
アヤ、とは当主の妻────クリスとレンの母親だ。
元々身体の丈夫な人物ではなく、昔から体調を崩すこともよくあったのだが、わざわざ日本に居るジェドに連絡が来るということは、少し病状が深刻なのかも知れない。
『医者には峠は越えたと言われたんだが、まだベッドから出られる状態じゃなくてね。悪いけど、レンにも一度帰国させようと思うから、その護衛を頼みたいんだ』
「レン様の護衛……ですか? しかし、クリス様は……」
『……ついさっき、アランから連絡があってね。クリスの件は粗方話を聞いたよ。それについてはまたゆっくり話し合うとして、一先ずレンの帰国を優先させて欲しい。アランにも、レンを帰国させることは既に伝えてあるから、今回は気兼ねなく屋敷に迎えに行ってくれ』
やはりクリスの行動は既に本家に伝わっていたか、と密かに溜息を吐いたジェドだが、これはまた随分と頭の痛い用命を賜ってしまった。
レンは恐らく今頃晴人の件でショックを受けているだろうし、本来連れて帰る予定だったクリスに至っては現在逃走中なのだ。
「……レン様の件は承知致しました。ですが、クリス様が……実はつい先ほど、私の車から脱走されまして」
少し間を置いて、悩んだ末にジェドがありのままを告げると、一瞬の沈黙の後、当主の小さな笑い声が返ってきた。
『全く……うちの息子たちは本当に手が掛かるな』
つい今しがた、自分が漏らした呟きと同じ言葉が聞こえてきて、ジェドも思わず苦笑する。
『クリスには、GPSがついているんだろう?』
「はい、いつものように靴に発信機を忍ばせてありますので、探し出すのにそう時間は掛からないかと」
『それなら、クリスの方はアランに任せよう。あの子には、ちょっとお仕置きも必要だからね。アランには私から連絡しておくから、ジェドはレンをよろしく頼むよ』
「……承知しました」
通話が切れ、襟元を正して車の中へと戻ったジェドは、シートに座って深い溜息を零した。
まさかこの状況で、今度はレンの護衛を任されるとは。
レンの心中を思えば、母親がいくら気掛かりでも、それと同等に……もしくはそれ以上に気掛かりな晴人を残して帰国など、すんなり受け入れられるはずがない。けれど当主の命は絶対だということは、例え次男とはいえレンもよくわかっているはずだ。
あくまでもクリスの『護衛』という立場上、傍に居ながらクリスの行動を止められなかったことに罪責感を覚えているジェドとしても、どう迎えに上がったものか……。
クリスはアリシアに任せると当主は言っていたが、そちらはそちらで、相当な荒療治になりそうだ。クリスは昔からアリシアを毛嫌いしているし、アリシアもそれを知っている。
(……あの方には、今はそのくらい必要か)
取り敢えずは、クリスが大人しくGPS発信機つきの靴を履いていてくれることを願うしかない。
もう一度息を吐いて、ジェドは空港へ向かっていた車をUターンさせると、レンの屋敷を目指してアクセルを踏み込んだ。
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