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第19話
「さて……あの問題児は一体何処に行ったのかしら」
ジェドから受け取ったGPS受信用の端末を操作しつつ、アリシアは自身の車に乗り込んだ。
兄から「ジェドの元から逃げ出したらしいクリスを頼む」と言われたときには、正直なところ、冗談じゃないと突っぱねてやりたかった。
クリスの所為で、晴人やレンがどれだけ傷ついたか────それを思うだけで、アリシアはクリスの顔を見た途端、二、三発殴ってしまいそうだ。
兄からは一応、軽いお仕置きはしてやってくれて構わないと言われているので、それくらいなら充分許容範囲だろうとは思うのだけれど。
しかし殴るかどうかはともかくとして、まずはクリス本人を探し出さなければならない。
端末の画面では、クリスの位置情報を示すカーソルが、都心の繁華街をあちこちへ動き回っていた。
道にでも迷っているのか、それとも、万が一にもジェドが追いかけてきてくれることを期待して待っているのか……。
「全く、態度はでかいクセにお子様なんだから、性質が悪いわ」
溜息混じりに髪を掻き上げて暫くクリスの動きを監視していると、少しの間一箇所で留まっていたカーソルが、やがてゆっくりと移動を始めた。先ほどまでとは違い、何処か一点を目指している様子でクリスは少しずつ移動している。
地図を少しスクロールさせてみると、クリスの進む通りの先にあるのは、都内でも有名な高級ホテルだ。
「……なるほど。さては、ジェドと滞在していたのは此処だったのね」
せわしない繁華街と違い、落ち着いたホテルならスタッフを洗脳することも比較的容易い。実際アリシアも、『食事』の際にはよく利用している。
「さすがにそこそこ頭は回るってことかしら」
……ただし其処へ向かうのがジェドじゃなくワタシだってことが、運の尽きなんだけど。
口紅に彩られた唇を妖艶に綻ばせて、アリシアはクリスの目指すホテルへと車を走らせた。
端末はダッシュボードに置いて、信号待ちの間に時折動きを確認するようにしていたが、気になったのはクリスの進行速度が異様に遅いことだ。
徒歩であれば車で向かっているアリシアよりもゆっくりなのは当然なのだが、それにしても遅すぎる気がする。しかもその速度はどんどん失速しているのだ。
(……何かあったのかしら)
辛うじてホテル目掛けて進んでいるカーソルを見ながら、アリシアは眉を顰めた。
このままではアリシアの方が先にホテルに到着してしまいそうで、敢えて道を迂回して暫く様子を見ることにする。しかしその後もクリスの移動速度は落ちる一方で、仕舞いには止まったり進んだりを繰り返しながら、通常なら十分も歩けば着くであろうホテルまでの道のりを、三十分近くかけてクリスは漸く辿り着いたようだ。
結局ホテル傍のパーキングでクリスの到着を待っていたアリシアは、クリスが完全にホテルで移動を止めたことを確認すると、やきもきしながら車をホテルのエントランスへと滑り込ませた。
車を降りると、慣れた口振りでドアマンに車のキーを預け、アリシアは颯爽とロビーへ向かう。基本的にホテルスタッフは必ず客と目を合わせて接客をする為、こちらも洗脳しやすい。アリシアがよくホテルを利用する理由は、落ち着いた雰囲気が好きなのもあるが、一番の理由は周囲に怪しまれることなく、スタッフを丸め込めるからだ。
アリシアがロビーに着くと、フロントマンを上手く洗脳したのか、丁度ベルパーソンに部屋へと案内されていくクリスの後ろ姿が見えた。
だが、見慣れた彼とは余りにもかけ離れたその姿に、アリシアは一瞬自分の目を疑った。
髪は乱れ、折角の上質な服もボロボロで、一部には血もついているのが遠目にもわかる。さすがにスタッフたちは見て見ぬふりをしていたが、周囲の客は皆、高級ホテルに似つかわしくない姿のクリスをチラチラと見遣っている。
(ちょっと……一体何やってるのよあの子……!)
足元も何処かフラついた様子だった為、アリシアは急いでフロントに駆け寄ると、クリスのルームナンバーを聞き出し、そっと後を追った。
クリスが部屋に入ったのを確認してから、アリシアはクリスを案内してきたベルパーソンと入れ違いに、彼の部屋の呼び鈴を鳴らした。
ベルパーソンが去ってすぐだった為、てっきりスタッフだと思ったのだろう。あっさりとドアを開けたクリスは、アリシアの顔を見るなり驚きと恐怖と嫌悪の混ざった、何とも言えない顔になった。
アリシアもまた、改めて間近で見た、とても黒執家の長男とは思えないクリスの姿に思わず唖然とする。
互いに一瞬間を置いた後、先に声を上げたのはクリスだった。
「なっ……どうしてお前が此処に居る!?」
「アンタのパパから子守りを仰せつかったからよ。ついでに会ったらまずは数発殴ってやるつもりだったけど、アンタ、何なのその格好……」
クリスにドアを閉められる前に、素早く室内に入り込み、アリシアは全身薄汚れて傷だらけのクリスに困惑の声を漏らした。さすがにその姿を見ると、すぐにでも殴ってやろうという気にはなれなかった。
しかし一方のクリスは、「煩い!」とアリシアの心配も一蹴する。
「父さんが何故お前なんかに俺を任せる!? ジェドはどうした!?」
「どうしたって、そもそもアンタがジェドの車から逃げ出したんでしょ? ……その傷、そのときの?」
「お前には関係ない。それよりも、ジェドはどうしたと聞いてる」
今にも倒れそうな姿で意地を張る問題児に、アリシアは肩を竦めてやれやれとばかりに首を振った。
「ジェドなら、レンの護衛として帰国したわ。義姉さんの具合が良くないからって。きっともうそろそろ飛行機に乗ってるんじゃないかしら」
「レンの護衛……だと……?」
クリスが、信じられないというよりも、信じたくないといった様子で目を見開く。
「どういうことだ!? 何故ジェドがレンの護衛なんかに……!」
「言っておくけど、『当主様』からの命よ」
アリシアの言葉が耳に入っているのかいないのか。クリスは自嘲めいた乾いた笑いを零すと、数歩後ずさり、そのまま力なくベッドへと腰を下ろした。
「なるほどな……結局は、ジェドもレンの側に回ったということか」
「ジェドは兄さんの言うことには逆らえないって、アンタもよく知ってるでしょ。大体、アンタは自分から、ジェドの元を逃げ出したんでしょうが」
「アイツが……! ジェドが、あっさり『これが最後だ』なんて言うからだ! ……結局、引きこもってばかりのはずのレンが、いつも全て持って行く……」
自身の行いを少しは反省したかと思いきや、この期に及んでまだ「レンの所為だ」と言いたげなクリスに、一度は鎮まりかけていたアリシアの怒りが沸々と湧き上がる。
晴人に拒絶され、傷ついたレンの気持ちも知らないクセに────
「……いつまでも甘ったれてんじゃねぇぞ」
アリシアではなく『アラン』の素顔が出たことで、クリスの肩が僅かに強張る。アリシアが本気で怒ったときにだけ見せる顔で、だからこそクリスは昔からアリシアだけは怖くて苦手で堪らないのだ。
これまではアリシアが爆発する前にジェドが仲裁に入っていたが、今この場にアリシアを止められる人物など居ない。
アリシアは、明らかに怯えた様子のクリスの胸倉を掴んでベッドに乱雑に押し倒す。痛みにクリスが呻いたが、背中の怪我など知らないアリシアはそのまま呆気なくクリスに圧し掛かると、前髪を鷲掴んでシーツに抑えつけた。
「さっきからジェドジェドって駄々捏ねやがって。そもそもお前が自分で捨てたんだろうが!? 第一、先に一族の掟まで破ってレンの大事なモンを奪ったのは何処のどいつだ?」
「……っ、う、るさい……! アランお前……俺にこんな真似して許されると────」
苦し気に顔を顰めて足掻くクリスに、アリシアは「残念でした」と意地の悪い笑みを浮かべて鼻先が触れ合う距離まで顔を寄せる。ヒュッ、と微かにクリスの喉が鳴った。
「兄さんからは、お前にお仕置きしてやってくれとも頼まれてるんでね。ガキのお仕置きとくれば、尻百叩きか?」
血も飲んでいない上に、体格差でも敵わないクリスが小さく震えるのを愉しげに見下ろして、アリシアは容易くクリスの身体を引っ繰り返した。冗談半分でそのまま尻を叩いてやろうかと、シャツ越しにクリスの背中を掴んだとき。
「ぃ────ッ!!」
クリスが声にならない悲鳴を上げ、異変を感じたアリシアは思わず掴んだシャツを離した。それでもクリスはシーツに爪を立てて、痛みを堪えるように小さく呻いている。
「……クリス?」
様子がおかしいことに気付いて、遠慮なくクリスのシャツを捲り上げる。本来は白くて綺麗なはずの背中には、酷い痣が出来ていた。もう血は乾いていたが、改めて見ると腕にも切り傷が出来ている。
「アンタ……この怪我、一体何があったの……?」
「……ッ、い、きなり……オネエに戻るな……サディスト……!」
「憎まれ口叩いてる場合じゃないでしょ。アンタが妙にフラついてたのも、ひょっとしてこの怪我の所為?」
アリシアが圧し掛かっていた身体を起こしても、クリスはもう起き上がろうとはしなかった。
「……人間の血を吸おうとして……このザマだ。どうせ俺は、独りになれば何も出来ない……。此処にも、本家にも、もう居場所なんかない……」
天井を見詰めたまま、可笑しそうにクリスが自嘲する。その顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
いつだって偉そうに踏ん反り返っていた、プライドの高いクリス。けれど、今アリシアの目の前に居るのは、レンとそう変わらない、まだ幼く未熟なただの少年だった。
未熟だからこそ、感情任せに道を踏み外してしまい、そうして誰にもそのことを咎めて貰えなかった、哀れで虚しい少年。
乱れきったクリスの銀髪を整えるように、アリシアはそっとその髪に指を梳き入れた。
「クリス……レンは、最初は確かに引きこもってばかりだったけれど、今はちゃんと、自分で大事なものを見つけてる。だからこそ、アンタはそれが疎ましかったんでしょう? でもそれは、どうして疎ましかったの? 今のアンタは、その理由に気付いてるんじゃない?」
先ほどまでとは打って変わって穏やかな口調で問い掛けるアリシアに、クリスはベッドの上で背を向けた。文字通り傷ついたその背中が嗚咽を堪えて震えていて、アリシアは「面倒くさい子ね」と苦笑する。
「…………ジェドが離れるなんて、耐えられない……」
「ちゃんと言えるじゃないの。アンタは同じ苦しみを、レンと晴人に味わわせたのよ。……怪我が落ち着いたら、晴人の洗脳を解いて、きちんと二人に謝罪して。晴人もキレるとワタシ以上に怖いから、覚悟しなさいよ」
消え入りそうな声で本音を告げた強情な甥っ子は、「わかった」と嗚咽交じりに短く答えたものの、結局最後まで、アリシアに涙を見せようとはしなかった。
ジェドが日頃感情を表に出さないように、恐らくクリスもまた、涙を見せるのはきっとジェドの前だけなのだろう。それだけ強い想いがお互いにあるというのに、全くもって面倒で人騒がせな連中だ。
アリシアがクリスの傷の手当を終え、彼が眠りに就くのを見届けた頃。窓の向こうの空は薄らと白み始め、新しい一日が始まろうとしていた。
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