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第20話
クリスが目を覚ました頃、太陽はかなり高い位置まで昇っていて、窓からは眩しい陽射しが差し込んでいた。
いつも通りに起き上がろうとして、背中に電流のような激痛が走る。
「───ッ!」
身体を起こそうにも、痛みに加えて全身が泥のように重くて怠い。どうにか仰向けに寝返りを打つだけでも軽い眩暈がして、クリスは苦しさに息を吐いた。
柔らかなベッドに横たわっているのに、ズキズキと背中が疼くように痛む。
「……ジェド……」
無意識にいつも傍らにあった存在を求めて名前を呼ぶと、
「アラ、やっと目が覚めた?」
返ってきたのは苦手なオネエ声で、そこでやっと、クリスの意識はハッキリと覚醒した。
昨夜の出来事やアリシアとのやり取りも思い出し、ついでに自分が晒した醜態も蘇って、つい渋い顔になる。そんなクリスを揶揄うように笑ったアリシアが、ベッドの縁に腰を下ろした。
「ジェドじゃなくて悪かったわね。……そのジェドだけど、トランジット中に連絡が来たから、アンタを無事捕獲したことは伝えておいたわ」
アリシアの口からジェドの名前を聞いただけで、クリスの胸がじくりと痛んだ。アリシアが何処まで伝えたのかはわからないが、ジェドは何を思ったのだろう。
そんな心の内が顔に出ていたのだろうか。苦笑交じりに眉を下げたアリシアが、「気にしてたわよ、アンタのこと」と付け加えた。
そうか、と素っ気なく答えたものの、たったそれだけで、弱りきったクリスの心はホッとする。自分はまだ、ジェドの心の中から完全に居なくなったわけではないのだと思えたからだ。
そんなクリスの顔の前に、「はい、コレ」とアリシアがグラスに入った鮮血を差し出してきた。
「ジェドから聞いたけど、アンタ、一昨日の夜からまともに血を飲んでないんですって? 好き嫌いばっかりしてたんじゃ、レンのことどうこう言えないわよ」
日頃は血の味に煩いクリスだが、さすがに空腹も限界で、喉が勝手にゴクリと音を立てた。
「……これは、誰の血だ?」
「私が使えるコネを使いまくってどうにか手に入れた、そこそこ良い家の人間の血。だから問題ないわよ」
空いた手で、アリシアがクリスの背中を支えてゆっくりと身を起こすのを手伝ってくれる。グラスを受け取り、クリスは飢えを満たすようにグラスの中身を一息に飲み干した。
「…………不味い」
一瞬で空になったグラスを突き返すクリスの額を窘めるように拳で軽く叩いて、アリシアは受け取ったグラスをサイドテーブルの上に置いた。
「口に合わなくても、暫くは我慢しなさい。このまま飢え死にするよりはマシでしょ。まったく、兄弟揃って似た者同士なんだから」
レンと一緒にするな、と言いかけて、クリスは喉元まで出かかった言葉を渋々胸に仕舞い込む。
思えば、ジェドの血を不味いと思ったことは一度もないのに、こうして誰かから与えられる血を美味いと思ったことは、殆どないような気がする。レンのように身体が拒絶するほどではなくて、クリスの場合は我が儘が酷いだけなのだが、結局のところ、これまでの自分はレンとさほど変わらないのではないかと今になって気が付いて、クリスはアリシアに何も言い返せなかった。
昨夜だって、本当は余りの空腹に耐えかねて、昨日この部屋への案内を務めていたベルパーソンから血を貰おうかとも思ったのだが、何故か直前にジェドの顔が浮かんで、どうしても手を出せなかったのだ。これ以上掟を破るなという戒めなのか、それとも……。
その先は考えまいと、クリスは小さく頭を振って、再びシーツに身を沈めた。
極力そっと横になったつもりだったのに、僅かな衝撃でも男に蹴られた箇所が痛んで、クリスは顔を顰める。腕の切り傷には、いつの間にか綺麗に包帯が巻かれていて、その他あちこちに出来ていた擦り傷にも、ガーゼや絆創膏が貼られていた。
この程度の傷でも、身体は痛む。
……もうどのくらい、こんな痛みを味わっていなかったのだろう。
覚えている限り、初めて怪我をしたのは、まだレンが生まれるずっと前───確か、ジェドが護衛につく少し前だ。
庭で一人で遊んでいたとき、うっかり転んで膝を擦り剝いた。子供なら誰もが経験するであろう、本当に大したことのない擦り傷だったのだが、大慌てで飛んできた侍従に何事かと思うくらい大袈裟に包帯を巻かれ、そのすぐ後にはクリスの身を護るボディガードとして、まだ屋敷に来たばかりだったジェドが常に傍に控えるようになった。
そしてクリスが十歳になった頃。父と一緒に出掛けた先で少しだけ父と離れた隙に、クリスは暴漢に誘拐されそうになった。その際、複数の男たち相手にジェドは怯むことなく対峙し、リーダー格の男がクリスに向けた刃を代わりに受け止め、そこでジェドは左目を失った。その傷を見たとき、痛いのはジェドのはずなのに、何故か自分の方が斬りつけられたような気がして、子供心にジェドがこのまま死んでしまうのではと恐怖と不安で泣き喚いた記憶がある。結局父が戻るまで、負傷したジェドの方が、いつもの落ち着いた声でずっとクリスを宥めてくれていた。
────そうか。高坂晴人を傷つけた自分は、あのときの男達と変わらない。
だからこそ、ジェドはあれほどクリスに失望と怒りを露わにしたのだ。幼かったあの日に味わった思いを、決して忘れてはならなかったのに────。
昨日この身に受けた傷の痛みは、そんなクリスへの罰だ。本来なら、こうして手当てされることさえおこがましいはずなのに……。
「……どいつもこいつも、甘すぎる……」
手の甲に貼られたガーゼを見詰めて、クリスの口から思わず声が漏れた。
『お仕置き』などと言いながらこうして丁寧に怪我の手当てをしてくれるアリシアも、突き放したくせにクリスの身を案じるジェドも、散々理不尽に傷つけられて文句の一つも言わないレンも。
「どれだけ……俺は甘やかされるんだ」
以前のクリスはそれが当たり前だと思っていたのだが、今は寄越される優しさに、胸が苦しくなる。クリスの変化に気付いたのか、アリシアが「確かにそうね」と肩を揺らして苦笑した。
「アンタのこともレンのことも、誰もが皆甘やかしてきたから、アンタたちはこんなにも手の掛かる子に育ってしまった。そこは、ワタシ達にも非はあるわ。……だけどね、クリス。アンタとレンがどれだけ問題児でも、幼い頃から見ていれば、手の掛かる子ほど可愛いって、不思議と思ってしまうものなのよ」
そう言って一度だけクリスの髪を撫でたアリシアの声が母のように優しくて、鼻の奥がツンと痛むのを、クリスは歯を食いしばって必死に堪えた。
「もう少し休んだら、取り敢えず此処を出てレンの屋敷に移動しましょう。兄さんからは、まだアンタを帰国させろとは言われてないし、あまり此処に長居して下手に怪しまれると厄介だわ」
「……アイツの怪我は、どうなんだ」
シーツに突っ伏したままボソリと問い掛けたクリスに、アリシアが一瞬「え?」と意外そうな声を上げる。アイツとは誰のことかと聞かれたら、それっきりはぐらかしてやろうかとも思ったが、勘のいいアリシアはすぐに察したらしい。
「さっきジェドと話したときにレンにも伝えたけど、学校に確認したら、大きさの割には傷が浅かったお陰で、後遺症なんかの心配はないそうよ」
傷つけた張本人であるクリスにそんな資格はないとわかってはいても、アリシアの言葉にクリスは思わずホッと息を吐いた。ジェドの左目のように、もしも晴人の脚まで奪ってしまうことになっていたら、それこそもう誰にも合わせる顔がない。
「……過ちなんて、誰だって犯してしまうものよ。大事なのは、それを二度と繰り返さないこと。アンタの怪我の具合が落ち着いたら、晴人のところに行きましょう」
「俺のことなら、もう問題ない」
「一人で起き上がることも出来なかったクセに、何言ってるの」
「大事なのは、過ちを二度と繰り返さないことなんだろう。……これ以上、俺を甘やかすな」
痛みに呻きながらも、クリスはどうにか一人で上半身を起こす。正直、身体のどこを動かしても痛みが走ったが、それでもクリスは、急いで晴人の元へ行かなければならないと思った。ジェドならば、きっとこんな痛みくらい、眉一つ動かさずに行動するのだろうと思ったからだ。
「……意地っ張りなところも、ホントにそっくりなんだから」
よろめきながらベッドから下りたクリスを見詰め、アリシアは呆れた声と共にやれやれと肩を竦めて立ち上がった。
「うげっ、何お前……どーしたんだよ、その脚?」
朝練を休み、松葉杖で教室へ入ってきた晴人を見るなり、大和が目を丸くして駆け寄ってきた。
「……ちょっとな」
仏頂面でそれだけを答えて、晴人は扱い慣れない松葉杖で何とか自分の席に向かうと、ドサリと腰を下ろした。他のクラスメイトも皆心配そうな視線を向けてきていたが、晴人の眉間に刻まれた深い皺に近寄り難い雰囲気を感じたのか、大和以外は誰も声を掛けてくることはなかった。
「朝練来なかったと思ったら、それ『ちょっと』って怪我じゃねぇじゃん。家でやったのか?」
「家じゃない。黒執が────」
そこまで言いかけて、晴人はふと口を噤んだ。
「……黒っち? 黒っちと何かあったのかよ?」
────そう。昨日の放課後、呼び出された教室で、唐突にレンが脚を切りつけてきたのだ。
今も晴人は、ナイフを手に冷たく笑うレンの姿をハッキリと記憶している。
けれどそのまま気を失って、目を覚ました病院で付き添いの教師に言われた言葉は、そんな晴人の記憶とは全く異なっていた。晴人は友人とふざけていたところ、カッターでうっかり脚を切ってしまったと言うのだ。
そうじゃない、これは黒執にやられたのだと、晴人は教師に説明しようとした。
けれどどういうわけか、『レンにやられた』『レンのことが許せない』という思いがずっと脳内をグルグルと回っていたにもかかわらず、晴人はそれを口に出すことが出来なかった。出してはいけない気がしたのだ。
結局晴人は傷口を二十針近く縫い、後遺症などの心配はないと医者から言われて安心したものの、暫くは部活にも参加出来なくなった。
なのに、途中で教師からの連絡を受けて病院に駆けつけてきた母にも、それから今目の前に居る大和にも、晴人は何故か「黒執にやられた」と言うことが出来なかった。
本来なら、これだけの傷を負わされたのだから、いっそ警察に連絡したっていいくらいだ。故意に傷つけられたのなら、むしろ届け出なければならない。
なのにどうして、晴人は誰にもレンのことを話せないのだろう。
その理由がわからず、昨夜はろくに眠れなかった。
レンに切りつけられた、という記憶はあるのだが、そもそも何故レンが晴人を切りつけたのか。その経緯が、どれだけ記憶を辿っても思い出せないのだ。
大体、レンは吸血鬼のクセに晴人の血を吸うことを未だに躊躇っているような臆病者だ。そんなレンが、一体どういう理由で、突然晴人を切りつけたのだろう。普段のレンを見ていたら、とてもそんな行動に出るとは思えない。
だからこそ自分の記憶の矛盾が気持ち悪くて、晴人は結局誰にもレンにやられたのだとは言えないまま、HRを迎えることになった。
チラリと横目でレンの席を見遣る。
晴人に言われて最近は毎日登校していたレンだったが、今日はその席は空っぽだった。
もしも晴人の記憶が間違いで、教師の話が正しいのだとしたら、レンはいつものように登校してきているはずだ。欠席しているということは、やはり晴人のこの傷はレンによるものなのだろうか。
気を失う前、アリシアとレンが目の前に居て、痛みの中、レンに感情任せに言葉をぶつけたことも晴人は覚えている。けれど、晴人を傷つけたはずのレンは、何故か酷く傷ついた顔をしていた。
泣き出しそうなレンの顔を思い出すと、ズキ、と晴人の胸がそれこそ切りつけられたように痛む。そのことが一層、晴人の記憶を混乱させていた。
レンが晴人を切りつけたのなら、晴人に責められてレンが傷つく理由がわからない。脚の傷の痛みには一晩でとっくに慣れてしまったが、記憶のピースが全く上手く繋がらず、苛々して気分が悪い。
この、頭の中にモヤモヤとした霧がかかっているような感覚には、覚えがある気がする。
レンが憎い。許せない。だけどそんなはずはない……相反する感情がずっと晴人の胸の中で渦巻いている。
不機嫌な顔で机に頬杖を突く晴人のすぐ傍で教室の扉が開いて、担任の谷川が教室に入って来た。
「きりーつ」という日直の気怠げな号令に合わせて皆が立ち上がる中、恐らく彼もまたレンの仕業だとは思っていないのだろう。谷川が「高坂は座ったままでいいぞ」と気遣ってくれた。
全員が着席したのを見届けて、谷川が一度教室内をぐるりと見渡してから口を開く。
「えー、先ずは皆に報告しておく。急なことだが、黒執が暫くの間、休学することになった」
(……休学?)
谷川の言葉に教室内が少しザワつく中、晴人もまた眉を顰めた。
斜め後ろの席から、大和が「マジで黒っちと何があったんだよ?」と小声で問い掛けてきたが、晴人は答えなかった。答えられることがなかった、という方が正しい。
晴人の記憶が真実なら、きっとレンはもう学校へ来ることはないだろう。けれど、それならわざわざ担任の口から、皆へ報告させたりするだろうか。
不登校だった時期も担任の谷川を洗脳し、周囲の関心がレンに向かないように仕向けていたのに。
「復帰時期は未定だそうだが、もし戻ってきたときは、また皆仲良くしてやってくれよ」
やっぱり病気だったのかな、留学じゃない?、などと思い思いにヒソヒソ言い合うクラスメイトの声を聞き流しながら、晴人は奇妙な違和感を募らせていた。
……何かがおかしい。
晴人の記憶の中に、レンが二人居るようだった。
レンが学校に来ないのなら、いっそ晴人の方から出向いてやろうか。どうせ暫く部活には参加出来ないのだから、放課後はたっぷり時間がある。
レンの顔を見たら憎しみが込み上げてきて、何か言ってしまうかも知れない。そうしたら、レンは再び傷ついた顔をするのだろうかと思うと、晴人の胸はまたズキリと痛んだ。
────やっぱり変だ。自分を傷つけたレンが傷つくことを想像すると、胸が痛むなんて。
晴人の心の奥底で、晴人の本心が、必死に何かを叫びたがっている気がした。
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