22 / 31

第21話

 放課後。  サッカー部の部長に怪我の件を伝えると、晴人はレンの屋敷へ向かうべく学校を出たのだが、門を出て最初の通りを曲がったところで、思いがけない人物が待ち受けていた。 「アンタは……!」  歩道のガードレールに凭れ掛かるようにして、レンの兄であるクリスが立っていた。ガードレールを挟んだ車道には、アリシアの車が横付けされている。  クリスは相変わらず人目を惹きつける容姿で軽く腕を組んで立っていたが、以前レンの屋敷で会ったときとは少し雰囲気が違って見えた。前はもっと威圧的な空気を纏っていたが、今はどちらかというとレンによく似たオーラを感じる。今のクリスの方が、よほどレンと兄弟らしいと晴人は思った。  それに、よく見ると手の甲やシャツの袖口から覗く手首にガーゼや絆創膏が貼られている。何かあったのだろうかと掛ける言葉に詰まっていると、晴人の姿に気付いたアリシアが、慌てた様子で車中から出てきた。 「晴人、怪我は大丈夫!?」  松葉杖姿の晴人を見詰めて、心配そうな声を上げるアリシアに、教室で止血の処置をしてくれていたアリシアの姿が蘇る。  ……そうだ。アリシアはいつもみたいに昨日も心配してくれていて────レンもまた、すぐ傍で心配そうな、不安そうな顔をしていなかったか?  それなら、晴人を傷つけて笑っていたレンは……? 「………ッ!」  記憶を辿ろうとした晴人を、鋭い頭痛が襲う。咄嗟にこめかみを押さえた拍子に、松葉杖がカランと音を立てて歩道に転がった。 「晴人!?」  ガードレールを飛び越えて駆け寄って来るアリシアの声も遠くに聞こえる。  ……この頭痛にも覚えがある。  アリシア────そう、以前アリシアに記憶を弄られたときだ。だとしたら、今の晴人の記憶はやはり何かが間違っている。 (……思い出せ……!)  ズキズキと疼き、冷や汗が滲む額を押さえながらゆっくりと持ち上げた視界に、クリスの姿が映る。  正面から晴人を見据えるその姿を見た瞬間。これまでずっと、晴人の記憶の中でナイフを手に笑っていたレンの姿が、クリスのそれにユラリと変わって、バラバラになっていた晴人の記憶がしっかりと繋がった。 「────ッ、そうだ、お前だ……!」  クリスとアリシアが同時に驚いた顔をしたが、構わず晴人は脚の怪我も忘れて、クリスの胸倉を掴んだ。 「思い出した……! 全部お前の仕業だろ! 俺に手出すだけならともかく、それを黒執の所為にするって、どこまで性根腐ってやがる……!」  晴人の脚を切りつけたのは、やはりレンじゃない。全てクリスが仕組んだことだった。  クリスが晴人の脚を切りつけ、更にそれをレンの仕業だと思い込ませて、晴人がレンを憎むように仕向けたこと。  そうして記憶を塗り替えられた晴人が、レンに心にもない酷い言葉を浴びせてしまったこと。  そんな晴人の言葉に酷く傷ついた、レンの顔────。  次々と記憶が鮮明になっていき、それに伴って怒りが全身から噴き出してくる。 「ちょ、ちょっと待って晴人! クリス、アンタ今、晴人の洗脳解いたの!?」 「……いや、まだだ。まさか、自分から思い出したのか……?」  胸倉を掴まれたままのクリスが、苦しさからか眉根を寄せながら呆然と呟いた。 「……晴人は、前にもワタシの洗脳を一度解いてるのよ。さすがにクリスのまでは解けないかも知れないってちょっと思ってたけど、まさか今回も解いちゃうなんて……晴人、ホントに何者なの?」  アリシアが、今にもクリスに殴りかかりそうな晴人を制しながら問い掛けてきたが、怒りが収まらない晴人はその制止を振り切って怒鳴る。 「そんなこと俺にわかるか! それより、黒執はどうした!? お前、まさか黒執にも手出したんじゃないだろうな!?」 「レンなら、今は一時的に帰国している。……レンには手は出していないが、お前を切りつけたのはお前が思い出した通り、俺だ。……すまなかった」  昨日、不敵に笑いながら躊躇いなく人を切りつけてきたのが嘘のように、一変して萎らしい態度でクリスが謝罪の言葉を寄越した。その豹変ぶりに、晴人の感情が行き場を失くして余計に暴れ回る。  ……「すまなかった」?  こっちは怪我をさせられた上、嘘の記憶を植え付けられた所為で不必要にレンを傷つけてしまったというのに、今更「すまなかった」? 「……ふざけるなよ。謝るくらいなら何でこんなことした!? 大体俺は黒執にも謝らなきゃならないのに、帰国してるってどういうことだよ!? またお前が、アイツから俺を遠ざけるように仕向けたんじゃないのか!?」 「落ち着いて晴人! それは違うの……! 晴人がクリスに対して怒るのは当然だけど、少しだけ話を────」  振り上げた晴人の右腕へしがみつくようにして必死に止めるアリシアを、今度はまだ掴みかかられたままのクリスが「アラン」と制した。 「いい。殴られるくらい、承知の上だ」 「クリス……」  真っ直ぐに晴人を見据えるクリスを見て、アリシアが躊躇いがちに、晴人の腕を解放する。  何だろう……今晴人の目の前に居るクリスは、明らかに昨日とは何かが違う。  まるで大事な何かを失ったみたいに、覇気がない。さっきの謝罪も、軽々しくその場凌ぎで言ったようには聞こえなかった。それに、昨日までのクリスなら晴人が「お前」なんて呼び方をすれば確実に機嫌を損ねそうだったが、今はそれすらも気にしている様子はない。  たった一日の間に、クリスやレンに一体何があったというのだろう。晴人だけが事態を把握出来ず、置いて行かれてしまったようで腹立たしい。 「……何なんだよ、クソ……ッ!」  苛立ちと共に吐き捨て、晴人は振り上げていた拳を思い切りクリスの顔目掛けて繰り出した。アリシアが息を呑む気配がして、クリスもさすがに衝撃に備えて目を閉じる。  ────しかし、二人が予想した打撃音が響くことはなかった。晴人の拳は、クリスの鼻先でピタリと止まっている。  本当はそのままぶん殴ってやりたかったのだが、もしもこの場にレンが居たら、やはり止めたような気がしたからだ。きっとレンは、晴人がクリスを殴ることなんて望んでいない。 「……どうして殴らない」  怪訝そうに問い掛けてくるクリスの手はいつの間にかギュッと強く握られていて、おまけに小さく震えていた。びびってるクセに、と内心可笑しくなって、晴人はほんの一瞬苦笑する。 「勘違いするなよ。俺はアンタをまだ許してない。ただ、『殴ってくれ』って言ってるヤツを言われるまま殴って何になるんだよ」 「……お前も、俺を甘やかすのか」  呟くように言ってフッと微かに笑ったクリスのその顔が酷く哀しげで、晴人は眉を顰めた。  そう簡単にクリスを許す気にはなれないが、本当に、一体何があったのだろうか。  一先ずこの場でこれ以上クリスを責める気にはなれず、晴人は掴んでいたクリスの胸倉を解放したが、彼は乱れたシャツの襟元を正そうともしなかった。  そんなクリスの様子に、どうも調子が狂うと項を掻いた晴人へ、アリシアが「コレ」と地面に転がったままだった松葉杖を拾って手渡してくれた。 「取り敢えず、二人とも車に乗って。これ以上此処で揉めてると、いい加減通報されるか、先生が飛んでくるわよ」  言われて、晴人は漸くハッとなって周りを見渡す。そういえば、此処は学校のすぐ近くだったことを忘れていた。  何人かの生徒が、遠巻きに晴人たちの様子を見て、ヒソヒソと何かを囁き合っており、目が合うと怯えたように逃げられてしまった。  ……確かに、このままでは晴人まで学校に居辛くなる噂が流されそうだ。  松葉杖を受け取った晴人は、横断歩道まで戻ってガードレールの外側に周り、車道を引き返すと、クリスと共にそそくさとアリシアの車に乗り込んだ。     ────西欧 某国郊外。 「レン様、そろそろ到着致します」  運転席から聞こえた声に、レンは閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。  長旅の疲れから、すっかり寝入ってしまっていたらしい。  ジェドの運転する車は、既に本家の敷地内に入っていた。  広大な敷地に建つ館までは、門を潜ってから更に車で5分ほどかかる。  目を覚ましたレンの視界には、やっと館の正面入り口が見えてきていた。此処を離れてまだたった数ヶ月だが、もう何年も戻ってきていないような気がする。  程なくして車がエントランスに停車し、扉の前でレン達の到着を待っていたらしい使用人が車のドアを開けてくれる。 「おかえりなさいませ、レン様」 「……ただいま」  聞き慣れていたはずの出迎えの挨拶も、今のレンには妙に居心地が悪く、ボソリと声を返して足早にエントランスホールへと足を踏み入れた。  屋敷に居たころは挨拶を返すことすらせず自室に直行だったレンが、「ただいま」と返したことで、背後で使用人たちが顔を見合わせて驚いていたことは、後から車を降りたジェドしか知らない。 「レン! ジェド!」  レンに続いてジェドが館内へ入ってきたタイミングで、二階からレンの父・ヴェルナーが出迎えに降りてきた。歩く度に揺れる、長いプラチナブロンドの髪。クリスとレンの髪は、父親譲りだ。年頃の息子が二人も居るとは思えない程見た目も若く、街を歩けば人間からはほぼ確実に兄弟と間違われる。 「ただ今戻りました」  真っ先に、ジェドが恭しく頭を下げる。 「急な話で悪かったね。……おかえり、レン。少し背が伸びたかな」 「ただいま……」  ハグのついでにチュッと髪へ口づけて問い掛けてくるヴェルナーに、レンは「多分気のせい」と苦笑混じりに軽いハグを返した。人見知りのレンとは違って、ヴェルナーは昔からスキンシップも過剰気味だ。 「アヤも会うのを楽しみにしていたから、顔を見せてやってくれ」 「母さんの具合は?」 「今はもう大分と落ち着いてるよ。寝室に居るから、挨拶がてら行っておいで」 「お荷物はレン様の私室へお運びさせて頂きます」  ヴェルナーとジェドに急かされ、レンは小さく頷いて二階にある両親の寝室へ向かった。  懐かしい、本家の匂い。  両親との再会は素直に嬉しいけれど、此処に居るとどうしても息が詰まる感じがする。日本に行くまではその息苦しさに慣れてしまっていたが、久しぶりだからだろうか。前よりも重圧感が増しているような気がして、レンは無意識に喉元を押さえた。  ────いや、久しぶりだからじゃない。晴人と居るときの心地良さを、知ってしまったからだ。  今頃、晴人はどうしているだろう。学校にはちゃんと行けたんだろうか。  途中の空港でアリシアから、晴人の怪我は後遺症の心配はないと聞いて一先ず安心したけれど、あの傷では恐らく暫くの間サッカーは出来ないだろう。  そのことで気落ちしていないだろうか。……今でも、やっぱり自分は恨まれているんだろうか。 「……もう、関係ないか……」  廊下の窓越しに見える、緑豊かな異国の景色を眺めて、レンは自嘲気味に呟く。  何日か前。最後に晴人の血を飲んだ日に、晴人はこの先一生、晴人以外の血が飲めなくてもいいのかと言っていた。  レンは心から晴人以外の血なんて飲みたくないと思ったし、まさかそんな日が本当にやってくるなんて、あの時は思いもしなかった。  母をこれから見舞うというのに、晴人の心配ばかりしている自分はつくづく親不孝だとレンは自分自身を鼻で笑ってから、辿り着いた部屋のドアを控えめに叩いた。 「ジェド、随分と苦労をかけたね。クリスも無事見つかったって?」  サロンでお茶……ではなく、グラスに注がれた鮮血を呷りながら、ヴェルナーがジェドを労ってくれる。  ジェドはアリシア同様、普段は必要に応じて自ら人間の血を吸いに出掛けるのだが、時折こうしてヴェルナーが用意してくれた血をご馳走になることがある。  特に、今回のようにクリスの我が儘に振り回された後は、お詫びの意も兼ねてなのか、大抵ヴェルナーが血を振る舞ってくれることが多かった。 「アラン様のお言葉通りですと、『ボロボロの悪ガキは無事捕まえた』との事でしたが」  「はは、さては独りになって、少しは世間の荒波に揉まれたかな」 「……良いのですか?」  いつもなら出された血は有難く頂くジェドだが、今回は口を付ける気にはなれなかった。  アリシアがクリスと無事合流したと聞いても、ヴェルナーはまだクリスを帰国させるつもりはないらしい。それはつまり、クリスを当主候補から外し、代わりにレンを次期当主にしようということなのだろうか。  レン自身も言っていたが、そんなことはクリスもレンも望んでいない。そして恐らく、ヴェルナー自身も、レンを当主になどとは思っていないはずなのだ。父親である彼が、レンの性格を把握していないわけがない。  母親が倒れたことを理由に帰国しろと言うのであれば、クリスもまた帰すべきではないのだろうか。  それに正直なところ、『ボロボロの~』というアリシアからの報告は、長年クリスの身を護り続けてきたジェドにとって、その身を案じずには居られないものだった。  恐らくその表現は、敢えてジェドの心配を煽る為のものだろう。ただこれまでは、クリスの身にかすり傷一つ付けないよう、ジェドは身を挺して護ってきたのだ。  突き放したのはジェドの方だったとは言え、まさか走行中の車からなりふり構わず飛び降りるほどの行動力が、クリスにあるとは思っていなかった。  もうこれを機会に最後にするつもりではあったが、アリシアの報告を聞いて、ついクリスの身を心配してしまう辺り、自分はまだまだ割り切れていないと実感した。これ以上クリスを甘やかしてはならないという自制心を、試されているのだろうか。  レンを無事帰国させたのだから、いっそクリスも連れ帰るようにとヴェルナーが命じてくれれば、任務と割り切ってジェドも迎えに行ける────そう思ってヴェルナーに問い掛けたのだが、ヴェルナーは相変わらず穏やかな笑顔を浮かべたまま、「何のことかな?」と心中の読めない声で問い返してくる。 「……クリス様は、帰国させないおつもりですか」 「ジェドはこれだけクリスに振り回されても、そうやって気に掛けてくれるんだね。ジェドをクリスの護衛に就けて正解だった」 「いえ、私は私情でお訪ねしているわけでは────」 「ジェド、僕はクリスに『帰ってくるな』と言った覚えはないよ。そしてレンにも、『日本へ戻るな』と言った覚えもない」  静かに答えたヴェルナーは中身を飲み干したグラスをそっとテーブルに下ろすと、ゆっくりと脚を組み、ジェドに向けてにこやかに笑って見せた。  彼を取り巻く空気は至って穏やかだが、ジェドの内心などお見通しだとばかりの笑顔が却って恐ろしい。 「今回の件で、クリスもレンも成長しただろう。ここから先は、彼らがどう行動するかを、静かに見守ろうじゃないか」  隙のないその笑顔に、もしかすると最も意地が悪いのは他の誰でもない、目の前の主なのではと、クリスとレンを内心案じながら、ジェドは黙ってグラスに手を伸ばすことしか出来なかった。

ともだちにシェアしよう!