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第22話

 レンが両親の寝室の扉を控えめにノックすると、向こう側から「どうぞ」と母であるアヤの声が返ってきた。  すぐさまアヤについている侍女が扉を開けて、室内へ迎え入れてくれる。 「今、血をお持ち致します」  吸血鬼のもてなしというのは、コーヒーや紅茶ではなく血が一般的だ。なので、侍女のその言葉も常套句なのだろう。けれど相手は大の血液嫌いのレンであることを、侍女も言ってから思い出したらしい。  あっ、と慌てた様子で口許に手をやって狼狽える侍女に、部屋の奥でクスリと微かに笑う声がした。  ベッドの上で上体を起こしたアヤが、「貴方はもう下がっていいわよ、ありがとう」と侍女に告げる。  アヤとレンを交互に見遣った侍女は、「も、申し訳ございません。失礼致します」と深く頭を下げ、足早に部屋を出て行った。 「おかえりなさい、レン」  部屋の扉が閉まったのを確認してから、ベッド際まで歩み寄ったレンに、アヤがいつものように柔らかな笑みを向けてくる。  パッチリと大きな瞳に、長い睫毛。髪色は父親譲りだったが、顔立ちはクリスもレンも、昔から母親によく似ていると言われてきた。レンたちと似た色白の頬には薄ら赤味もさしていて、どうやら心配していたよりアヤの体調は良さそうで安心する。 「母さん、少しは体調落ち着いた?」 「お陰で今はもう随分具合も良いの。急に帰国させた上に、心配かけてごめんなさいね。────あ、座って」  示されたベッドサイドの椅子に素直に腰を下ろすと、アヤの白い腕が伸びてきてレンの頬を軽く撫でた。 「……どちらかと言うと、レンの方が顔色が悪いわね。まだ、血は苦手?」  アヤに問われて、レンは思わず口ごもる。  本当はたった一人、血を飲める相手に出会えたのだが、もうその晴人にはこの先会えないかも知れないと思うと、話すのは躊躇われた。一瞬表情を曇らせたレンの顔を見てアヤは肯定だと受け取ったのか、そのままレンの目尻を親指で辿って苦笑する。 「昔、色んな人間の血を試していたとき、蕁麻疹を出して寝込んだこともあったものね」 「……あの時、父さん笑ってた気がするんだけど」 「彼はいつだって、『大丈夫』が口癖みたいなものだもの」  アヤの手が離れたのに合わせて、彼女の長い黒髪がサラリと肩から一束滑り落ちた。ふわりと優しくて懐かしい、花のような香りがする。  アリシアの髪は本来、レンやクリスとよく似たプラチナブロンドだが、アヤの黒髪に憧れていて、今も黒く染めて真っ直ぐに伸ばした髪の手入れを欠かさない。レンも、アヤの黒髪は幼い頃から綺麗で良い香りがして、とても好きだった。  穏やかな父と、優しい母。思えばレンは、二人から厳しく叱られた記憶なんて全くないし、見ていた限り、それはクリスも同様だった。  勿論、間違ったことをすればきちんと正してはくれるのだが、声を荒らげられたり、ましてや手を上げられたりしたことなんて、一度たりともない。  だから、吸血鬼のくせに昔から血を受け付けなかったレンのことを、両親は嘆くことも、叱ることも、そして見捨てることも決してなかった。名家に生まれた以上、レン自身ですら恥ではないかと思うのに……。  どうにかしてレンの口に合う血はないかと色んな血を飲んでいる内に、拒絶反応だったのか、幼いレンは全身に蕁麻疹が出て数日間寝込んだことがあるのだが、その時もヴェルナーは「焦らなくてもきっとどうにかなるから大丈夫だよ」といつものように笑ってレンの頭を撫でてくれた。 「……父さんって、昔からああだったの?」 「『ああ』って?」 「なんて言うか……言っちゃなんだけど、その……楽観的、っていうか」  父親だが一応当主でもあるので極力言葉を選びながら言ったレンに、アヤは壁に掛けられた少し色褪せた写真へと視線を向けて「そうね」と目を細めた。その写真はアヤ曰く、ヴェルナーとアヤが出会って間もない頃の写真らしい。見た目は今とそう変わらないけれど、少しはにかんだようなアヤの笑顔から、二人の初々しい関係が見て取れる写真だった。 「私との結婚の話が出たときもそうだったわ。彼の親族は殆ど反対していたし、私も最初は結婚なんて考えられなかったもの」 「母さんも? ……何で?」 「だって彼ったら、たまたま観光に来ていた日本で私に出会って、おまけに偶然吸血鬼同士だったからって、『これはもう運命だよ』なんてサラッと言っちゃうような人だったのよ?」  出会った当初を思い出したのか、可笑しそうに肩を揺らしてアヤが笑う。本心が読めない笑顔でそう言うヴェルナーの姿が容易に想像出来て、レンも思わず苦笑した。 「でも、だったら何で、母さんは父さんと結婚したの」 「私は元々身体が弱かったから家にこもりがちだったし、父親も早くに亡くしていたから、男の人と面と向かって話す機会なんて殆どなかったの。だから、最初はヴェルナーのことを『なんて胡散臭い人なんだろう』って思ったわ。生まれ育った国も違ったから余計にね。それに、こんな病弱な自分ではどうせ跡取りだって残せはしないだろうから、結婚自体も諦めていたし。────でも、彼は私の身体が弱いことを知っても、名家の一人娘だってことを知っても、どんな面を知っても『僕がどうにかするから大丈夫』って決して譲らなかったの。ヴェルナーの笑顔って、いつも穏やかだけど何故か逆らえない雰囲気があると思わない?」  アヤは冗談めかして小首を傾げて見せたが、それは確かにレンも感じていた。あの笑顔で言われると、どうしてか逆らってはいけない気がするのだ。それは恐怖や威圧感というよりは、根拠のない信憑性がある、というのが正しい。  ヴェルナーがあの笑顔で「大丈夫」と言うと、どういうわけか本当に大丈夫だと思えてしまう不思議な力がある。 「結局、彼は私との結婚を反対する親族を根気よく説得して、言葉通り、私のことも、私の家も守ってくれた。私は長く生きられる身体じゃないかも知れないって何度も言ったけど、彼はいつも『大丈夫だよ』って笑って、気がつけば今では二人の息子の母親になれているんだから、本当に不思議だわ」  そう言って微笑むアヤの横顔がとても幸せそうで、レンの胸もじわりと温かくなった。  両親がこんな出来損ないの吸血鬼である自分を見捨てずに居てくれたから、お陰でレンも、晴人というかけがえのない存在に出会えた。  自分からは絶対に誰とも関わりたくないと思って、ずっと閉じこもってばかりだったレンを、初めて外へ連れ出してくれた晴人。  晴人との出会いを思い返せば、やっぱりヴェルナーの言った通り、「きっとどうにかなるから大丈夫」だったのだろうと思えるし、むしろその言葉は晴人と出会う為のものだったようにも思えてくる。  ……そういえば晴人も、レンがどれだけ素っ気ない態度を取ったって、いつもお構いなしだった。自分のやりたいことは自分で決めると、こちらの都合なんて関係なくレンの元へやってきて、こんな面倒臭いレンを甘やかしてくれる。 (……お前は今、どうしてる……?)  クリスの洗脳が解けないまま、居なくなったレンのことなどもう知るかと、日常に戻っているのだろうか。  脚の傷が癒えてまたサッカーが出来るようになったら、その内レンのことも、晴人の記憶から消えてしまうんだろうか。 「レン、私の生まれ育った日本はどうだった?」  レンの心中など知らないアヤに問い掛けられて、胸がギュウッと絞られるように痛んだ。  母の顔を見て安心もしたし、本当は今すぐに日本に帰って晴人に会いたい。例え憎まれていようとも、レンにはもう、晴人でないと駄目なのだ。 「……悪く、なかった……」  溢れそうになる涙をどうにか堪え、レンは擦れた声を絞り出すと、顔を背けるようにして椅子を立った。これ以上アヤの優しい声を聞いていると、泣きついてしまいそうだった。 「ゴメン、ちょっと久し振りに帰って来て疲れたから、部屋戻る」 「レン……?」  アヤの心配そうな声を背中に聞きながら、レンは寝室を飛び出すと、長年引きこもっていた私室へと駆け込み、机に突っ伏して静かに嗚咽を零した。   ◆◆◆◆◆ 「何だよ、まだ傷痛むのか?」  レンの屋敷の客間にノックも無しに入室した晴人は、ベッドに横たわるクリスにほんの少し眉を顰めつつ、少し離れた壁際のソファへ腰を下ろした。  大分使い慣れてきた松葉杖を傍らの壁に立てかけ、来る途中に買ってきたスポーツドリンクを一気に半分ほど飲み干す。  梅雨真っ只中のこの時期、外は気温も湿度も高く蒸し暑いというのに、この屋敷の中は空調が利いていなくても何故かいつもひんやりとしている。  レンが帰国したことを知らされて、今日で三日。  相変わらず部活には参加出来ず、放課後暇を持て余している晴人は流れでレンの屋敷に通うのが日課になっていた。いつもはアリシアも居るのだが、今日はたまたま外出しているのか、居候状態のクリスが一人で客間に居るだけだった。  道端でクリスに掴み掛かった後、アリシアの車の中でクリスやレンに何があったのか、大体のいきさつは晴人も聞いていた。レンの帰国の理由も仕方がないと思ったし、晴人はその時初めてジェドの存在を知ったが、クリスの負った怪我に関しては、これまでの彼の態度や行いを見聞きする限り、自業自得だとも思う。  けれど、いくらこれまで温室育ちで怪我に慣れていないとはいえ、クリスはこの屋敷にやって来てからもうずっと、毎日ベッドの上で過ごしている。さすがにそろそろ、動けるようになっても良さそうだと思うのだが。 「……お前が気にすることじゃない」  クリスは一瞬だけ晴人に視線を寄越した後、すぐに天井を見上げて重い溜息を吐いた。  晴人がその身を案じて声を掛けても、こうして毎回素っ気ない返答しか返ってこないのだから、晴人だってお手上げだ。クリスが人間なら一度医者に診て貰えと勧めるところだが、さすがに吸血鬼をその辺の病院に連れて行くわけにもいかない。  クリスに捻じ曲げられた記憶が元に戻った直後は、クリスに対する怒りでいっぱいだった晴人だが、アリシアから事の経緯を聞き、おまけにこうしていつもベッドに横になっている覇気のないクリスを見ている内に、すっかり毒気を抜かれてしまっていた。  それよりも、帰国しているレンが今頃どうしているのか。そちらの方が、今の晴人には気掛かりだった。  レンはもう三日以上晴人の血を飲んでいない。それまで常に貧血状態だったレンなので、今はまだそう深刻な事態にはなっていないだろうが、問題はレンがこのまま日本に戻って来なければどうなるのか、ということだ。  出来るならすぐにでもレンの生まれ育った国へ飛んで行きたいが、生憎晴人はパスポートを持っていない。おまけに脚の傷も抜糸までは出来る限り安静に、と言われているし、その抜糸までもまだ数日かかってしまう。だから、どうしたって今すぐにレンの元へ駆けつけることは叶わないのだ。  そのもどかしさに無意識にギリ、と奥歯を鳴らした晴人に、「そういえば」とクリスが天井を見上げたままふと口を開いた。 「アランから、レンと連絡を取ることを断ったと聞いたが、本当か?」 「……だったら何だよ」 「ちゃんと記憶も戻ったと、どうしてレンに伝えない」 「電話なんかで、済む話じゃないからだ」  アリシアは定期的にレンの父親と連絡は取っているようで、レンとも電話でなら話は出来ると言われたのだが、晴人は少し悩んだ末にそれを断った。クリスの洗脳が既に解けていることも、敢えて今はまだ黙っておいて欲しいとも頼んだ。  本当なら声だけでも聞いて、今はもう晴人の記憶も戻っていると伝えれば、お互い少しでも安心出来るのだから、その方が良いのかも知れない。けれど、晴人はクリスの洗脳が解ける前、レンに投げつけてしまった言葉の数々をハッキリと覚えている。その言葉で、どれだけレンが傷ついたかも────。  だからこそ、晴人はどうしてもレンの顔を見て、直接謝って話がしたかった。今すぐにレンの傍に行って、伝えたい言葉が山ほどあるのに晴人にはそれが出来ない。  どうにもならない悔しさに歯噛みするしかない晴人を横目に見て、クリスは何故か吐息だけで微かに笑って見せた。 「……今ほど、レンを羨ましいと思ったことはないな」 「は? どういうことだよ。また何かするつもりなら、次こそぶん殴るぞ」  ジロリと鋭くクリスを睨む晴人に、クリスは相変わらずどこか切ない笑みを浮かべたまま「そうじゃない」と首を振る。  晴人からすれば、自由に国を行き来することが出来るクリスの方が今は余程羨ましく思えたし、一体どういう意味なんだと首を傾げたところで、ガチャリと客間の扉が開いた。 「アラ晴人、来てたの?」  幾つかの紙袋を提げたアリシアが、室内に入ってくる。 「アリシアは買い物か?」 「ええそうよ。誰かさんの着替えも必要だしね」  外が蒸し暑すぎて死ぬかと思ったわ、とベッドに横たわるクリスに向けて軽口を零しながら、アリシアは提げていた荷物をドサリとベッドサイドに下ろす。そうしてそのまま長身を少し屈めると、クリスの顔を覗き込んだ。 「クリス、まだ背中が痛むの?」 「………」  無言のままフイ、と僅かに顔を背けるクリスに溜息を零して、アリシアは少し強引にクリスの身体とシーツの隙間に手を差し込む。その手が背中に触れた瞬間、クリスが堪らず、といった様子で小さく呻いて顔を顰めた。 「……日本にも探せば吸血鬼の医師は居るはずだから、一度診て貰った方がいいかも知れないわね。座ってるのも辛いんでしょ?」 「いい。必要ない」 「一体いつまで意地張ってるつもりなの。今、兄さんからアンタの面倒をみるように言われてるのはワタシなのよ? まだアンタを帰国させろとは言われてないけど、まともに座ることも出来ないんじゃ、帰国しろって言われても出来ないでしょうが」 「どうせもう、父さんが俺に帰国しろなんて言ってくることもないだろう。レンが帰国した以上、本家には俺が戻る理由がない」 「……ちょっと待てよ、それってどういう意味だ?」  それまでクリスとアリシアのやり取りを黙って聞いていた晴人は、嫌な話の流れに思わず口を挟んだ。  クリスが本家に居る理由がないというのはどういうことだ。それはつまり、クリスの代わりにレンがこの先ずっと本家に留まるということなのだろうか。  一瞬困った顔でクリスと晴人の顔を交互に見遣ったアリシアが、ベッドの縁に静かに腰掛けて肩を竦めた。 「……兄さんの考えをちゃんと聞いたワケじゃないから晴人には話してなかったけど、このままだと、クリスの代わりにレンが当主候補になるかも知れないのよ」 「黒執が当主って……アイツはそんなモンになりたくないって、アリシアだって言ってただろ!?」 「でも、本来の当主候補だったクリスは、一族の掟を破ってしまった。この通り、今はすっかり反省して萎れてるけど、その事実は簡単に消せるものじゃないの」 「だからって、望んでもない黒執を無理矢理次の当主にするのか!?」  名家だの当主だの、晴人にはわからないことばかりでさっぱり理解出来ないが、それでもこんなのは間違ってるということくらいはわかる。  レンはあくまでも母親を見舞う為に帰国したのであって、いずれ当主になる為に帰国したわけじゃないだろう。  クリスだってそうだ。口では本家に居場所がないなんて言ってはいるが、子供の頃からずっと当主になるための教育を受けてきたのに、そう簡単に放り出せるものだろうか。 「……誰だって、決まりを破ることくらいあるだろ。だったら、許して貰えるまで謝ればいい話じゃないのか」  晴人だって子供の頃、門限を破ったり、イタズラをしたりする度に、母親に家から閉め出されたことが何度もある。中でもサッカーボールで近所の家の鉢植えを割ってしまって、そのまま逃げ帰ってきたときは、真冬だったにもかかわらず上着もないまま放り出されて、大泣きした記憶がある。寒いし、外はもう真っ暗だしで、このまま一生家に入れて貰えないんじゃないかと思ったからだ。  鍵のかかった扉を叩いてとにかくひたすら「ごめんなさい」と叫び続ける晴人に、やっと扉を開けてくれた母は「言う相手が違うでしょう」と上着を差し出して、近所の家に一緒に謝りに行ってくれた。その時母が渡してくれた上着や、繋いでくれた母の手の温かさは、今でもよく覚えている。  きっと今のクリスは、あの日家から閉め出されてわけもわからず泣いていた晴人と同じだ。 「アンタら吸血鬼の名家ってのは、『帰ってこい』って言われなきゃ、帰っちゃいけないのか? 『帰ってくるな』って言われたならともかく、自分の生まれ育った家なら、帰りたきゃ帰ればいいだろ。……大体アンタ、ジェドって奴に、ホントは会いたいんじゃないのか」 「………」  最後はすっかり覇気を失くしたクリスの様子と、アリシアに聞いた話から感じた晴人の勘だったのだが、それが図星だったのか、クリスはベッドの上で唇を引き結んで押し黙った。それを見たアリシアが、少しの間を置いて笑い声を上げる。 「だから言ったでしょう、クリス。晴人はワタシ以上に鋭いし怖いから、侮れないのよ。いっそ、レンの代わりにアンタも学校からやり直してみる? ……って言いたいところだけど、あの子、制服も向こうに持って行っちゃったのよね」 「制服も持って行った……? それって、黒執ももうこっちに戻る気はないってことなのか?」  思わずソファから身を乗り出した晴人に、アリシアは「どうかしら」と苦笑する。 「戻りたいからこそ、持って行ったんじゃない? あの子は、どうでもいい物には執着したりしないもの」  あれだけ渋々登校していた学校の制服を、レンはどういう思いで本家に持ち帰ったのだろう。それを考えるだけで、益々レンの存在が恋しくなる。 「……俺は、行こうと思えばいつでも黒執の元に行けるアンタらの方が、よっぽど羨ましい」  壁に立て掛けた松葉杖を見詰めてポツリと呟いた晴人に、クリスが一つ息を吐いてから「アラン」と声を上げた。 「なるべく早く診て貰える医師を探してくれ。────診察を受けたら、俺も帰国する」  ベッドの上で肘をつき、少しだけ上体を起こして告げたクリスの声には、確かに少し、力強さが戻っていた。

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