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第23話

    ◆◆◆◆◆ 「……もう、何日目だ……」  貧血で怠い身体をベッドの上に投げ出して、レンは白い指を順に折りながら、帰国して経過した日数を数えていく。  折り曲げた指は、丁度片手分。レンが帰国してから、もう五日が過ぎていた。  これまではレンが怠さを感じる前に晴人の方から吸血を促してくれていたので、晴人の血を飲むようになってから、レンは飢え知らずだった。だからこそ余計に、久々に味わうこの空腹感と貧血の怠さは酷く堪えた。  本家では毎日血は用意して貰えるのだが、やはりどの血もレンの身体は受け付けなかった。  ベッドサイドに置いてある鉄分サプリを、容器からザラザラと直接口に流し込み、バリバリと噛み砕いて強引に摂取する。こんな物では気休め程度にしかならないとわかっていても、今のレンにはこれくらいしか腹を満たす術がない。  少し身を起こしたついでに、窓の外に広がる小さな裏庭へと目を向ける。  まだ日本に行く前。どうしても血が飲めないレンは、私室から直接出ることが出来るこの小さな裏庭に畑を作り、そこで野菜を栽培していた。周囲には「観賞用」と誤魔化して、その野菜でどうにか飢えを凌いでいたのだ。  けれどレンが日本へ行っている間に、手入れをする者を失った畑はすっかり枯れ果ててしまっていた。雑草に埋もれるように、萎れてしまった野菜たちの姿は、何だか今の自分みたいだ。  もっとも、晴人の血の味を知ってしまった今、例え野菜があったところで、恐らくレンの身体は飢えを満たすことも出来ないのだろうけれど。  晴人の血の味を思い出すだけで、喉が鳴って鼓動が速くなる。もうこの先一生晴人から憎まれたままかも知れないのに、それでも浅ましく晴人の血を欲してしまう自分が嫌になる。  一体いつまで、本家に居なければならないのだろう。アリシアはクリスを無事に保護したとは言っていたが、そのクリスが本家に戻って来る気配は今のところない。  ヴェルナーは相変わらず何も言わないが、このままでは本当に死んでしまう気がする。  ……とうとう両親からも、見放されてしまったんだろうか。  絶望感から両腕で目元を覆ったとき。コンコン、と扉をノックする音に続いて「レン様」とジェドの声がした。 「……なに」  まさかまた新たな血を持ってこられたんだろうかと、げんなりしながらレンは気怠い声を返す。ところが、「失礼致します」と室内に入ってきたジェドは、両手に分厚い本の山を抱えていた。  それらを落とさないよう器用に扉を開閉し、ベッドに歩み寄ってきたジェドは、相変わらずの無表情でドサドサッとサイドテーブルの上に本の山を積み上げた。  思わず眉を顰めて、レンはベッドに横になったままジェドの顔を見上げる。  「……何だよ、コレ?」 「レン様に学んで頂きたい事柄が書かれた本です。────次期当主候補に必要な知識、と申し上げた方がよろしいでしょうか」 「当主候補!? どういうことだよ!?」  ガバッ、と咄嗟に身を起こしたレンは、その瞬間感じた眩暈に短く呻いて額を押さえる。まだフラフラと頭が揺れるような気持ち悪さに耐えながら、レンは本の山と涼しい顔のジェドを交互に睨み付けた。   まさか本当に、ヴェルナーはレンを次期当主にしようと考えているのだろうか。人前に出ることが大嫌いなレンが、当主になんて向いているわけがないのに。 「明日には教育係がつきますので、不明な点があればその者にお尋ね下さい」 「……嫌だ。教育係なんか必要ないし、こんな物も読まない」  再びベッドに横になり、背を向けるように寝返りを打ってレンはジェドの言葉を撥ねつける。  元々この私室にあったレンのPCは全て日本に持って行ってしまったので、ゲームで時間を潰すことも出来ず、畑も枯れてしまっている。その上日々酷くなる飢えと貧血で苛々が募っていたところへ、ジェドからのこの仕打ちだ。  一応、毎日両親の前には顔を出すようにはしていたが、二人とも、クリスのことや、次期当主をどうするかなんてことは、一切口にはしていなかった。だからてっきりレンはその内、日本にまた戻れるのかと思っていたのに────。  レンの態度に、ジェドが呆れたような溜息を吐く。 「レン様。クリス様が犯した過ちは、貴方が一番ご存知のはず」 「だったらそれこそ、兄さんが責任持ってちゃんと当主候補としてやり直すべきだろ。ジェドだって、俺が当主になんかなれると思ってないクセに」 「そんなことはありません」 「嘘吐けよ! 俺でさえ、自分が当主になんか向いてないってわかってるのに、ずっと兄さんの傍に居たお前が俺を次期当主に、なんて思ってるワケない!」  本来この館でジェドを従えているのはレンじゃない。クリスでないと駄目なのだ。レンが、晴人を必要としているみたいに。なのに何で……。 (父さんも、ジェドも、何も言わないんだよ……!)  腹立ち紛れに、レンは寝転がったまま、本の山が載ったサイトテーブルを思い切り蹴り飛ばした。衝撃でテーブルが派手な音を立てて倒れ、載っていた本やサプリの数々が床に散らばる。 「クリス様! いい加減に────」  咄嗟に此処には居ない兄の名を叫んだジェドに、レンだけでなく、口にした張本人までもが一瞬愕然とした顔になり、暫しの沈黙が流れた。 「……失礼を、致しました」  誤魔化すように咳払いをして、ジェドが床に散らばった本を拾い上げる。  いつだって冷静で、滅多に顔色さえ変えないジェドが初めて見せた、信じられない失態だった。────いや、今のは失態なんだろうか。  そうじゃなくて、本当はジェドだって……。 「……此処に居るのが兄さんだったらって、ホントはジェドだって思ってるんだろ」 「いいえ、そんなことは思っておりません」 「ジェド……!」  ベッドの上を這うようにして、レンは淡々と本を拾い上げるジェドのスーツの袖を掴んだ。 「……レン様、本が拾えません」 「ジェド……俺は思ってる。此処でジェドの傍に居るのが、兄さんだったらいいのにって。兄さんが早く此処に帰ってきてくれたらいいのにって。……お前だって、そうだろ?」 「………」  本の回収を途中で諦めたジェドが、持っていた本を床に置き、観念したように深い息を吐いた。 「……本当に、貴方がたご兄弟は、揃って私を困らせる」 「…………ゴメン」  ベッド脇の惨状に小さく謝罪したレンは、怠い身体でベッドを這いだすと、倒れたサイドテーブルを起こし、散らばったままだった本やサプリの片付けを手伝った。ジェドは軽々持っていたが、重ねるとかなりの重さになる本の山をテーブルに載せようとして、グラリとレンの身体が大きく傾ぐ。  倒れる……!、と思った瞬間、その背中が力強い腕に支えられた。 「やはり、あの方の血以外では駄目だったようですね」  肩越しに振り向いたレンの顔色を窺い見るようにして、ジェドが僅かに眉を下げる。そんなジェドの言葉に、レンは目を瞬かせた。 「ジェド……俺が晴人の血しか飲めないって、知ってるのか……?」 「……申し訳ございません。クリス様の命により、お二人を暫し監視させて頂いておりました」 「監視!? ……いつ、どこで?」 「レン様のお屋敷には立ち入るなと当主様より命じられておりましたので、学校でのご様子を」  ……ということは、恐らく保健室での出来事かと思い当たって、レンは怒りよりも気恥ずかしさで耳まで真っ赤になった。  レンが晴人の血を吸っていたことはおろか、諸々のやり取りも恐らく全て見聞きされていたのだろうと思うと消えてしまいたい。けれど、そんなレンの反応が予想外だったのか、背後でジェドが微かに笑う気配がした。 「……必要以上の情報は、クリス様にはお話しておりませんのでご安心を」 「必要以上って何だよ!?」  思わず声を張った拍子に、また視界が大きく揺らぐ。咄嗟にジェドの腕を掴んで身体を支え、レンは真剣な顔でジェドに向き直った。 「それを知ってるなら気付いてるだろ。……このまま此処に居たら、俺には時間がない。父さんから外出は禁止されてないから、ジェドに付き添いを頼みたい」 「……どちらへ外出なさるおつもりですか? 街へ出て片っ端から人間の血を試そうとでも?」 「そうじゃない。────日本へ、だ」  レンの決意に、ジェドが初めて驚いた顔を見せた。  月明かりだけが辺りを照らす深夜。  裏口からコソコソと館を抜け出す、二つの人影があった。一人はスーツケースを抱えていたがその重さに耐えられなかったのかよろめき、背の高いもう一人が身体ごとスーツケースを受け止める。その後は背の高い人物がスーツケースを引き取り、そのまま足音を殺しながらゆっくりと門へと続く小道を進んでいく。  その様子を館の二階の窓から静かに眺めていたヴェルナーは、口元に浮かべた笑みを深め、殺しきれなかった笑いに肩を揺らした。隣で「もう、ヴェルナーったら」と窘めるアヤの声もまた、笑いに震えている。 「いつになったら『帰る』と言い出すのかと思えば、まさか『夜逃げ』とはね。大人しい子ほど、思いきったときは大胆になるものなんだねぇ」  まるで他人事のようにそう言ってまた笑うヴェルナーは、徐々に闇に紛れていく二つの人影を優しく見つめている。 「一体誰に似たのかしら」 「僕はあんなに無鉄砲な行動には出ないよ」 「よく言うわ。出会ったときから、貴方も充分無鉄砲だったわよ。……相当我慢していたみたいだから、レンの身体が心配だわ」  とうとう見えなくなった影を見送って、アヤが切なげに目を細める。自身が病弱な為、レンが血を受け付けないのも自分の所為なのではと昔から気にしているアヤの肩を、ヴェルナーはそっと抱き寄せた。 「ジェドがついているなら大丈夫だよ。それよりも、もう一人の無鉄砲を止めておかないと、またややこしくなりそうだ」  言いながら携帯を取り出したヴェルナーは、アヤの肩を抱いたまま、弟の携帯番号を呼び出して通話ボタンを押した。

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