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第24話
「あ~……コレは、背骨にヒビが入ってるねぇ。ホラ、この五番目の骨のところ」
眼鏡を掛け、寝癖なのか癖っ毛なのかよくわからないボサボサの髪型をした白衣姿の医者が、先ほど撮影したばかりのクリスのレントゲン写真を指差しながら、のんびりとした口調で説明を始める。
ここは、病院としての看板は一切掲げられていない、吸血鬼による吸血鬼の為の病院────浅羽 医院だ。
アリシアが兄に相談し、アヤが結婚前に日本で世話になっていたという医者を紹介して貰って訪れたのだが、「院長の浅羽だよ~」と欠伸混じりに名乗った医者は、余りにも緊張感のない男だった。歳もアリシアと同じくらいに見えるのでまだまだ若そうだし、本当に大丈夫なんだろうか。
アヤの掛かりつけだったということは腕はそこそこ確かなのだろうが、説明を受けるアリシアも、その傍らの診察台に横になっているクリスも、ついつい顔に不安の色が滲んでしまっていた。
そんな二人の空気を察したのだろうか。浅羽は、クリスの傍に立つとその身体を容易く横向きに転がし、「ちなみにヒビが入ってるのはココ」とクリスの背中をピンポイントで指差した。その指先はほんの少し触れただけだったが、クリスが痛みに小さく息を詰める。
その正確さに、アリシアとクリスの心から、目の前の医者への不信感は一瞬で消し飛んだのだった。
満足げに口許を緩めた浅羽が、「痛い思いさせてごめんねぇ」とクリスに声を掛け、椅子に腰を下ろすと再びレントゲン写真に目を向ける。
「幸いポッキリいってはいないから大事には至ってないけど、背骨って身体にとっては重要な場所だからね。暫くは絶対安静だよ。……というかそれ、相当痛いでしょ~」
よく我慢してたねぇ、と感心する浅羽に、アリシアは「そうだったの?」と視線でクリスに問い掛ける。クリスは罰が悪そうな顔で黙り込んだので、どうやら図星のようだ。
「取り敢えず、固定用のコルセット用意するから、当分はそれ装着して、基本はベッドから出ないこと」
「それって、どのくらいの期間ですか?」
アリシアの問いに、浅羽は早速コルセットの準備に取り掛かりながら「最低でも一ヶ月かな~」と答える。それを聞いたクリスが、「一ヶ月!?」と診察台から起き上がりそうになったのを、アリシアは慌てて制した。
クリスの気持ちはわからないでもない。彼はこの診察を受けたら、自ら帰国する決意をしていたのだから。それがまさか、最低一ヶ月間の絶対安静を言いつけられるとは……。
「あの……念の為の確認なんですけど、安静の間は飛行機なんかは────」
「この先歩けなくなるかも知れない覚悟があるなら止めないけど、医者としてお勧めはしないねぇ、断じて」
アリシアの問い掛けを、悠長な口調ながらもピシャリと遮って、浅羽は遠慮なくクリスのシャツを脱がせると、コルセットの調整を始めた。その手に身を委ねながら悔しそうに唇を噛み締めるクリスを、アリシアは困惑げに見詰めることしか出来なかった。
どうしてこうも、物事はすんなり進んではくれないのだろう。
これまで自身の振る舞いを顧みようとさえしなかったクリスが、漸く初心に立ち返ってやり直す決心をしたというのに。
確かにクリスは数々の過ちを犯してはきたけれど、晴人が言ったように、それに気づけたのなら、許されるまで謝って、正しい道を選び直せばいいのだ。
それなのに、まだあと一ヶ月以上も帰国出来ないなんて……とアリシアが溜息を吐いたとき。アリシアのバッグの中で、携帯の震える音がした。
「ちょっと失礼するわ」
コルセットの調整に暫く時間がかかりそうだった為、アリシアはそう断って携帯を片手に一旦外へ出た。着信は兄からだ。
「もしもし、兄さん?」
丁度良いのでクリスのことも報告しようかとアリシアが口を開くより先に、ヴェルナーから衝撃の報告があった。
『おはよう、アラン。実はついさっき、レンがジェドを連れて夜逃げしてしまってね』
「夜逃げ!?」
告げられた内容に反して、相変わらず兄の声音はマイペースだった。
『恐らく、近い内に日本へ戻るはずなんだ』
「ちょ、ちょっと待って……近い内って、いつこっちに着くかはわからないの?」
『まだ館を出てからそう時間も経っていないし、下手すると二日後くらいかな。こっちは真夜中だし、日本への便があるかどうか……。何はともあれ、僕たちには黙って出て行ったものだから、正確にはわからないんだ』
「そっちはそっちでどうなってるのよ、全く……」
次から次へと降りかかって来る問題の数々に、アリシアは自慢の黒髪を掻き上げて深い溜息を零した。どうして自分の甥っ子たちは、こうも手が掛かるのだろう。
けれど、これまでずっと内にこもることしかなかったレンが、自ら館を抜け出すほどの行動力を見せたことに、アリシアはとても驚いていた。日本へ来る前……いや、晴人に出会う前のレンからはとても想像出来ない。レンは漸く、自ら「会いたい」と思える存在を見つけられたということだ。
「……取り敢えず、ジェドの携帯には、こっちに着く日時がわかったら連絡するようにメールしておくわ」
『色々と面倒をかけてすまないね、アラン』
「ちっともそんなこと思ってないでしょ。声が笑ってるわよ」
『酷いなあ。アランが日本 に居てくれて、凄く感謝しているのに』
「……まあ、ワタシも兄さんのお陰で自由にさせて貰えてるワケだから、そこは感謝してるけど」
ヴェルナーがアヤの家に婿養子になった為、弟であるアリシアが家を継がねばならないかも知れなかったのだが、アリシアはヴェルナーが結婚する前から今のように自由奔放だった為、両親や親族からも眉を顰められていた。そんなアリシアの味方は、いつだって長男のヴェルナーと、その下の兄だけだった。
ヴェルナーがアヤと結婚する際、反対する親族たちをなるべく穏便に鎮める為、もう一人の兄に当主になって欲しいと頭を下げてくれたのもヴェルナーだったし、結婚後、敢えて日本ではなく親族たちの家に近い西欧の郊外に館を構えると決めたのもヴェルナーだ。
それは親族たちに何かあったとき、すぐに火消しに走れるようにというヴェルナーの計らいからだった。
いつもニコニコと笑っていて何を考えているのかわからないヴェルナーだが、その笑顔の裏では常に周囲のことに気を配っている。レンを日本へ移住させると決めたとき、アリシアに付き添うように言ってきたのも、恐らく日本の方が、アリシアも親族の目を気にせず気楽に過ごせるのではというヴェルナーの配慮だろう。それがわかっているから、アリシアも彼からの頼みは例え頭を抱えたくなる案件であっても、協力しようと思ってしまうのだ。
『ところで、クリスの具合はどう? もう病院には行ったのかい?』
「今丁度その病院に来てて、連絡しようと思ってたところよ。……クリスの方は、暫くそっちに帰国出来そうにないわ」
アリシアの言葉を受けて、スピーカー越しにも、ヴェルナーの空気が少し変わったのが伝わってくる。
『……そんなに酷い怪我だったのか?』
「あの子、妙なところで意地っ張りだから随分我慢してたみたいだけど、背骨をやられてるみたい。少なくとも一ヶ月は安静にって言われたわ。……折角、自分から『帰国する』って言ってたんだけど……」
思わずポツリと漏らしたアリシアの呟きに、ヴェルナーは暫く考え込むような沈黙を挟んだ後、『よし、わかった』と声を上げた。その声は、いつもの穏やかなトーンに戻っていた。
『クリスが動けないなら、僕がそっちへ行こう』
「兄さんがこっちに…────って、ええ!? な、何言ってるの!?」
バカなの!?、まで言いそうになって、さすがにそこはどうにか思い留まった。それにしても、本当にこの兄は一体何を言い出すのだろう。
「当主が館を空けて来るなんて、そんな軽々しく言うことじゃないでしょ!?」
『当主と言っても、僕の場合はそうそう忙しい身でもないよ』
「義姉さんはどうするのよ!?」
『レンがこっちに居る間、毎日話し相手になってくれていたお陰で、アヤも今ではすっかり元気になってね。さすがに日本への長旅には連れていけないけれど、主治医も今は館に常駐してくれているし、数日間留守にするくらいなら大丈夫だ』
……出た。兄お得意の、根拠のない「大丈夫」が。
携帯を耳に宛がったまま、アリシアはお手上げ状態で天を仰ぐ。ヴェルナーがこれを言い出すと、周りはもう静観するしかないということをアリシアは嫌と言うほど知っている。
『僕がそっちに行くなら、ジェドにも僕の方から連絡を入れておくよ。丁度伝えておきたいこともあるしね。────あ、それから、僕が行くことは息子たちには黙っててくれ。どうせなら二人の驚いた顔が見たいからね』
まるで子供に内緒でバースデーパーティーの企画でもしているかのような口調で、ヴェルナーが呑気に捲し立てる。
「……お願いだから、これ以上事態をややこしくしないでね」
切実な祈りと共に通話を終えて、アリシアが心なしかげっそりしながらクリスの元へ戻ろうとしたとき。丁度院内から、浅羽に支えられたクリスがゆっくりと歩いて出てきた。
「アラ、もう処置は終わったの? ごめんなさい、お任せしてしまって」
アリシアは浅羽に向けて頭を下げると、浅羽の反対側に立ってクリスの介助を引き受ける。
「痛くても『痛い』って素直に言ってくれないから困ったよ。彼にはまず、素直になる治療が必要だねぇ」
「私からも、その治療を是非お願いしたいわ」
「……余計なお世話だ」
顔を背けたまま、クリスが一人でさっさと歩こうとするので、アリシアは慌ててその身体を支え直す。
「安静の間、トイレとかどうしても移動が必要な場合、そうやってなるべく誰かが介助してあげるようにしてくれる? コルセットの装着に関しては一応説明したけど、彼、放っとくと結構無茶しそうだから」
そう言って浅羽が悪戯にクリスの背中へまた触れようとする。それを察知したクリスが咄嗟にガシッとアリシアの腕を掴むのを見て、浅羽はボサボサ頭を掻きながら、
「そうそう。そうやって君はちゃんと人を頼るようにね」
と、満足げにニヤリと笑って見せた。
「先生、ありがとうございました。あの、お代は……」
クリスには金銭は持たせていなかったので、まだ会計は済んでいないはずだ。アリシアがバッグから財布を取りだそうとするのを見て、浅羽は「要らないよ」と首を振る。
「え?」
「黒執家の当主様から頂くって話になってるから。もし痛みが酷くなったり、何か問題があったらいつでもどうぞ~」
それじゃあ、と軽く片手を上げた浅羽は、またもフワ…、と欠伸を漏らしながらあっさりと院内へ引き返していった。
(ホント、どこまでも抜かりないんだから……)
今頃ちょっとした旅行気分で荷造りをしているであろうヴェルナーの姿を思い浮かべて苦笑すると、アリシアはクリスの背を支えたまま、隣の駐車場に停めてある自身の車へと歩き出した。
「レン様、一先ずそこのベンチへ」
隣で苦しげな呼吸を繰り返すレンを、ジェドは最早殆ど抱きかかえるようにして支えながら、目の前にあるベンチへ座らせた。
館を出たときからレンは貧血で酷く体調が悪そうだったが、トランジットで経由地の空港に降り立つ頃には、最早自分の足で歩くことすら困難な状態になっていた。
ベンチに下ろされたレンは、そのまま倒れ込むように横になった。その顔色が余りにも青白いので、キャビンアテンダントや空港スタッフにも散々心配されたが、さすがにこの状態では無理もない。
腕の時計を確認して、ジェドは眉を顰める。この空港での待機時間も含めると、日本まではまだ半日以上かかってしまう。これ以上のフライトに、レンの身体は耐えられるのだろうか。
さすがのジェドでも、4~5日血を飲まなければさすがに動けなくなる。いくら幼い頃から貧血に慣れているとはいえ、レンに至ってはもう約1週間、血を飲んでいないのだ。普通の吸血鬼であれば、とっくに餓死していてもおかしくない。
「レン様、日本に着くまで、まだ相当時間がかかります。今のレン様の体調ではさすがに厳しいかと思いますし、やはり本家に戻られた方が────」
「嫌だ……!」
ぐったりと目を閉じていたレンが、ジェドの言葉には反射的に目を開いてきっぱりと言い張った。すぐにまた浅い息を繰り返して、苦しそうに胸を喘がせるレンの前に、ジェドは片膝をついて身を寄せる。
「では、せめて少しでも血を飲んで下さい。このままでは、レン様の身体がもちません」
ジェドが言うと、レンは薄く目を開けて、それにも首を左右に振った。
「……嫌だ。晴人の血以外、絶対に飲まない……」
「ですが、仮に日本まで辿り着けたとしても、高坂晴人は……」
クリスに記憶を書き換えられている────その言葉を、何故かジェドは口に出来なかった。今目の前で苦しんでいるレンも、そのことは充分わかっているはずだ。それでもレンは、ただ一途に晴人の存在を求め続けている。
「……晴人の洗脳が、解けてなくてもいい。憎まれてても……そのまま死んでも、俺はアイツじゃないと、嫌だ……!」
「レン様……」
辛そうな呼吸の合間、力強く訴えるレンの姿に、ジェドの車を飛び降りる直前のクリスの姿がふと重なった。その瞬間、見えない何かに胸を鷲掴まれるような感覚を覚えて、ジェドは眉間の皺を深める。
自身は当主であるヴェルナーに仕えている身なのだから、本来黙って館を抜け出すなど、あってはならないことだ。それはわかっていたのに、レンの必死な目を見たとき、何故かその頼みをジェドは断れなかった。
恐らく自分はレンの意思の強さに流されたのだと、ジェドは館を出るときから延々と自身に言い聞かせてきたが、果たしてそうだろうか。
……本当は、これほど強く晴人の存在を求めるレンに、いつまでもクリスを突き放しきれないジェド自身を、重ねていたからではないのか────
浅い眠りに就いたのか、目を伏せて動かなくなったレンにスーツの上着をそっとかけたところで、胸ポケットの携帯が鳴った。
レンを起こさないよう、ジェドはレンが視界から外れないように気を払いながら少し距離を取って、控えめな声で応答した。電話の相手は、見なくても予想は出来た。
「……申し訳ありません、当主様」
開口一番謝ったジェドに、一瞬の間を置いて、スピーカーの向こうでヴェルナーが噴き出す。
『本当に苦労性だね、ジェドは。夜逃げはどっちの案かな?』
「やはり、お気付きでしたか」
『これでも一応当主だし、何より問題児二人を抱えた父親だからね。……レンの体調はどう?』
「私が見る限りでは、かなり限界が近いかと……。日本までのフライトも厳しいかと思ったのですが、どうしても行くと譲られませんでした」
『そうか。……ジェド、すまないけれど、何とかレンを日本まで支えてやってくれ。日本への到着時間がわかり次第、アランに連絡を取って欲しい。アランならきっと、レンの「大事なもの」を連れてきてくれるだろうから』
どこまで把握しているのかはわからないが、どうやらヴェルナーは晴人の存在を認識しているらしい。だからこそ、レンが自らその晴人の為に行動することを、ヴェルナーは信じて「見守ろう」と言ったのだろう。かつて、周囲の反対を押し切って、ヴェルナーがアヤとの婚姻に漕ぎつけたように。
「……承知しました」
ヴェルナーのレンを思う親心を感じて、ジェドはベンチに横たわるレンを見詰めながら、静かに答えた。
何としても、レンを晴人の元に送り届けてやりたい。そしてそれが叶ったなら、レンの行動力を見習って、自身も一歩、踏み出すべきなのかも知れない。
もう何日も顔を見ていないクリスの姿を思い浮かべていたジェドに、『ああ、それから』とヴェルナーが思い出したように声を上げた。
『こっそり館を抜け出したジェドには、これから辞令を出させて貰うよ』
「……辞令、ですか……?」
思いがけない当主の言葉に呆然と聞き返すジェドに、顔は見えないはずのヴェルナーが、何故か満面の笑みを浮かべているような気がした。
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