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第25話
「あっちぃな……」
抜糸の為、病院に寄ってから登校した晴人は、額に滲む汗を手の甲で拭って教室の入り口を潜った。
今は丁度昼休みで、食堂に昼食を食べに出ている生徒も居る為、教室内の人影はまばらだった。そんな中、窓際の席から「晴人!」と呼ぶ聞き慣れた声が響く。
今週になって行われた席替えで、晴人は窓際の真ん中の席になったのだが、どういう因果か、またしても大和は晴人の真後ろの席で、相変わらず賑やかな日々が続いていた。
「やっと松葉杖卒業か。良かったじゃん」
普通にカバンを提げてやってきた晴人を見て、大和が声を掛けてくれたが、正直やっと松葉杖の扱いに慣れてきたところだったので、今は寧ろ普通に歩く方が違和感を感じる。
一先ず荷物を下ろして席に腰掛け、机に入れっぱなしの下敷きで汗ばむ顔を扇いだ。生温い僅かな風でも、外を歩いてきた今の晴人には充分心地良い。
今日は幸い一日曇りの予報で、今も雨は降ってはいないが、空はどんよりと鈍い色の雲で覆われていて湿気が酷い。
同じように下敷きやら、持参したうちわで扇ぐ生徒がチラホラと見受けられる教室内を、何とはなしに見渡す。
担任の谷川からレンの休学宣言がされた後、復帰も未定ということもあって、レンの机は教室内から撤去されてしまった。お陰で、レンがこのクラスの一員だったことも、実は夢だったのではないかと思えるほど、クラスの人間は誰もレンのことを気に掛けなくなっていた。
これまではポツンと教室の隅にあった空席を見る度にレンのことを思い出せていたのに、その存在が消されてしまったようで、晴人の胸は今の空と同じようにどんよりと重かった。
「晴人、昼飯は?」
メロンパンを齧る大和に問われて、晴人は「まだ」と首を振る。何かを食べたい気分ではなかったが、取り敢えず学食にでも行こうかと、何気なく窓の外へ視線を向けたとき。グラウンドの奥に見える正門の前に、見慣れた黒い高級車が停車するのが見えて、晴人はガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
「晴人……?」
「……悪い、大和。俺ちょっと早退する」
「早退って、今来たばっか……って、おい晴人!?」
大和が唖然とするのも構わず、晴人は置いたばかりのカバンを再び引っ掴んで、教室を飛び出した。
……間違いない。アレはアリシアの車だ。
レンが登校していない今、アリシアがこの学校に用があるとしたら、晴人しかあり得ない。おまけにまだ昼休みだというのにやって来たということは、余程の急用があるに違いないと悟って、晴人は足早に階段を駆け下りる。
走ると抜糸したばかりの傷が引き攣るように痛んだが、今はそんなことはどうでも良かった。
幸い教師に出くわさずに校舎を出ることに成功した晴人は、そのまま中庭を突っ切り、丁度早足で正門を潜ってきたアリシアと鉢合わせた。
「晴人……!」
駆け寄って来る晴人に気付いて、アリシアがどこかホッとしたような声を上げる。
「良かった。こんな時間だから、どうやってアナタを呼び出そうか考えてたの」
「丁度教室からアリシアの車が見えたから」
「ありがとう晴人、愛してるわ……!」
今にも泣き出しそうな声でそう言って、アリシアが晴人の手首を掴む。
「とにかく車に乗って。時間がないの」
言いながら晴人を引っ張って車に引き返すアリシアに、もしかして……と晴人は息を呑む。それに応えるように、後部座席のドアを開けてくれたアリシアが、緊張した面持ちで小さく一つ頷いた。
「────レンが、帰って来るわ」
どうにか日本に辿り着いたとき。既にレンの意識は朦朧としていて、気付いたときにはジェドの運転する車の後部座席に横になっていた。
もう指一本動かすことすら怠くて、車が何処を走っているのかもわからない。
「レン様、気が付かれましたか?」
運転席から聞こえるジェドの声もぐわんぐわんと反響して聞こえる。「もうすぐ着きますので」と言われた気がしたが、何処に?、と聞き返すことも出来なかった。
全身の怠さと気持ち悪さに耐えながら、車は一体どれくらい走ったのだろう。
静かに車を停車させたジェドが先に運転席から降り、後部座席のドアを開けてくれる。そのままレンの身体を運び出そうとジェドが身を屈めたとき。
「退け!!」
ジェドの向こうから聞こえた怒鳴り声に、レンは反射的に目を見開いた。
(今の声……)
身動き一つ出来なかった身体を、気力を振り絞るようにして僅かに起こす。たった一瞬しか聞こえなかったが、レンの身体が咄嗟に反応した。
「黒執に触るな。そいつは俺が運ぶ」
力強い声でそう言ってジェドを押し退け、代わりに身を屈める晴人の姿が目の前にあった。
「……はる、と……?」
もしかして、自分はまだ夢でも見ているんだろうかと、信じられない思いでその名を呼ぶレンに、晴人が「掴まれ」と両手を差し出してくる。よく日に焼けたその腕からは確かに太陽の────晴人の匂いがして、これが夢ではないのだと教えてくれる。
怠くて気分が悪くて、少し動くだけでも辛いのに、レンは促されるまま、縋りつくように晴人の腕に手を伸ばした。その手を晴人がしっかり掴んで引き寄せ、軽々と抱き上げてくれる。
車から出るとすぐ傍にはアリシアの姿もあって、漸く此処が屋敷の前なのだとわかった。
「そのまま掴まってろよ」
レンの耳元で言った晴人が、そのまま足早に門を潜って玄関へと進んで行く。背後でジェドが何か言いかけたのを、アリシアが「二人にしてあげて」と制する声が聞こえた。
難なくレンを抱えたまま、晴人は屋敷に入るとそのまま二階へ続く階段を上がっていく。
「……晴人……記憶は……?」
恐る恐る、震える声で尋ねたレンに、晴人がフッと微かに笑った。
「わかるだろ。ちゃんと戻ってる」
レンを抱える腕に、安心しろ、とばかりに力が込められて、それだけで泣きそうになったレンは、晴人の肩口に顔を埋めた。
……晴人だ。
ずっと会いたくて会いたくて堪らなかった晴人が、確かに今、目の前に居る。
どうして晴人は、いつも必ずレンの記憶を取り戻して、駆けつけてくれるのだろう。
どうしていつも、辛いときに必ず助けに来てくれるのだろう。
こんな相手は、晴人以外には居ない────
晴人の存在を確かめるようにしがみつくレンを抱いたまま、晴人はもどかしそうにレンの私室の扉を蹴り開けると、ベッドの上にレンの身体をそっと横たえた。そこへ、ギシ…とベッドを軋ませて晴人が静かに覆い被さってくる。
そう言えば、晴人は容易くレンを此処まで運んでくれたが、脚はもう良いのだろうか。
「脚の怪我、もう大丈夫なのか……?」
「今日、丁度抜糸が済んだとこだ。お前を抱えられるくらいには、順調に回復してる」
晴人の返答に、心の底から安堵の息が漏れる。
クリスの洗脳が解けたことと、晴人の怪我が順調に回復していること。それらを晴人の口から聞けただけでも、レンにはもう充分すぎるくらいだった。きっと今、このまま死んでしまっても後悔しない。そう思いながら、力の入らない腕を懸命に伸ばして、そっと晴人の頬に触れた。
「良かった……。じゃあもう、このままサッカーだって────」
「黒執」
弱々しいレンの声を、不意に晴人が遮る。その直後、唇が何かに塞がれて、それが晴人の唇だということに、レンは暫くの間気付けなかった。
強引に言葉を奪われて、呆然と晴人を見上げるレンの唇を漸く解放した晴人が、「もういい」と少し切なそうに目を細めて、レンの長い前髪を払った。
「記憶を弄られてた間、俺がお前に何て言ったか、ハッキリ覚えてる」
そう言って顔を歪めた晴人の腕がレンの背中に回されて、そのまま強く抱き締められる。晴人の匂いに全身が包まれて、込み上げてくる感情が溢れそうになるのを必死に堪えていたレンだったが、
「……辛かったよな。────ごめん」
絞り出すような晴人の謝罪に、レンの眦から、堪えていた想いが一気に溢れ出した。一旦溢れ出した涙はもうレンの意思では止まってはくれず、レンの頬と一緒に晴人のシャツも濡らしていく。ほんの少し身体をずらして誤魔化そうと試みたが、しっかりとレンを抱き締めたままの晴人の腕がそれを許してはくれなかった。
「どうしても黒執に会って、直接ちゃんと謝りたかった。遅くなってごめんな」
「………っ」
晴人が何度も優しくレンの背を撫でてくれるので、次から次へと溢れてくる涙も嗚咽も抑えることなんて出来なかった。
晴人はいつだって、レンが欲しい言葉をくれる。素直じゃないレンの代わりに、いつも先に言ってくれる。
……だけど、そこに甘えているだけじゃ駄目なんだ。
レンはおずおずと晴人の背に腕を回すと、躊躇いがちに晴人の制服のシャツを握り込んだ。
「……俺も……ずっと、会いたかった……っ」
嗚咽交じりのレンの告白を受けて、満足そうに晴人が笑う。レンがずっと見たかった顔だ。
……やっと、言えた……。
ずっとレンの胸に痞えていたものが、涙と一緒に流れ出て、心がスッと軽くなっていく。素直になるのはレンにはまだまだ勇気が要るけれど、本音を言えたら、心はこんなにも軽くなるのか。
そんなレンに、ご褒美とばかり、晴人が自ら軽く喉を反らす。そうしてレンの髪を撫でながらそっと後頭部を抱き寄せると、レンの口を喉元へと促した。そうされると、レンはもう本能に抗えない。
「……悪い、もう我慢できない。────欲しい。飲んでいい……?」
涙の滲んだ目で訴えたレンに、晴人が一瞬面喰ったような顔をした後、困ったように苦笑する。
「お前、いつの間にそんな可愛い強請り方覚えたんだよ。……いいよ、飲んでも」
誘うように晴人の指に項を撫でられて、レンは求めてやまなかった晴人の首筋へ歯を突き立てた。途端に甘い味が口内に広がって、あれだけ酷かった身体の怠さがみるみる薄れていく。
このまま吸っていたら、また次第に理性が利かなくなってしまうかも知れないと思ったが、この日は何かが違っていた。
今まで、晴人の血を吸っていると徐々にその血を吸うこと以外何も考えられなくなっていたのだが、今日は不思議な心地良さがレンの全身を包んでいた。このまま思考が蕩けてしまいそうな気持ち良さ……。
一体どうして、と思ってふと視線を下ろしたところで、晴人の片手がいつの間にかレンのシャツの下に入り込んでいることに気が付いた。その大きな掌が、レンの裸の背を優しく撫でていたかと思えば、腰から鳩尾を伝って、胸元へと滑ってくる。
「は……晴人……?」
思わず晴人の喉から口を離したレンに、晴人はレンの素肌を辿る手を止めずに「どうした?」と問い返してくる。
「な、何してるんだ……?」
「前にも言っただろ。お前に血吸われてると、何か甘い匂いするって。飢えてたのは、お前だけじゃないってことだ」
意地悪く笑った晴人が、抗う間もなく再びレンに口づけて、「血の味」と口角を上げる。
「かなり腹減ってるだろ。もっと吸っていいぞ」
そう言って晴人は再びレンの前に首筋を晒してくれたが、触れてくる晴人の手が気持ちよくて、気付けばレンは晴人の首に縋りついていた。
前に触れられたときは擽ったいだけだったのに、今日はどうしてこんなに気持ちがいいのだろう。
「……触られるの、嫌か?」
初めての感覚に戸惑うレンの顔を、晴人が覗き込んでくる。思えばキスをしたのも初めてだったし、それを意識した途端、レンは益々恥ずかしさで紅くなって縮こまった。
「…………嫌じゃないから、困ってる……」
消え入りそうな声で言ったレンを、「あんまり煽るな、馬鹿」と晴人が何かを堪えるように抱き締めてきて、それから二人は暫く、離れていた時間の分だけ、初々しいキスを贈りあった。
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