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第26話

「……クリス様は、彼の洗脳を解いたのか?」  当然のようにレンを抱きかかえて屋敷内へと消えていった晴人の背中を、ジェドは信じ難い思いで見送りながら、ポツリと呟いた。  ジェドの願いも虚しく、掟を破ってまで晴人を傷つけたクリスが、わざわざ晴人の記憶を戻してやったのだろうか。だとしたら少し離れていた間に、クリスにどんな心境の変化があったのだろう。  どこか唖然とした様子で立ち尽くすジェドの隣で、アリシアが「そうじゃないわよ」と小さく笑った。 「晴人は、ちゃんと自分で思い出したの」 「思い出した……? まさか、人間が自ら吸血鬼による洗脳を解いたというのですか」  あり得ない、とジェドは残された片目で訴えたが、アリシアは「それがあるのよねぇ」と肩を竦めてあっさり否定する。  過剰に思考や記憶を弄りすぎて人間を錯乱状態にさせてしまう吸血鬼は稀に居るが、それでも人間が吸血鬼による洗脳を解いたという話は、少なくともジェドは生まれてこれまで、聞いたことがない。ましてや、当主の血を引くクリスの洗脳を解いてしまうなど────。 「あの高坂晴人という人間は、一体何者ですか」 「ワタシだって聞きたいわよ。だけど、晴人は前に私の洗脳も解いてるし、いつも彼がレンを助けてくれているのも事実よ。運命の巡り合わせなんてものがあるのかどうか、ワタシにはよくわからない。だけど晴人が何者であっても、少なくともレンにとって、なくてはならない存在であることは確かなんじゃないかしら」  開きっぱなしだった車の後部座席のドアを静かに閉めて、アリシアが鈍色の空を見上げる。ジェドも無意識にその視線を追うと、雲の隙間から薄らと太陽の光が差していた。 (……なくてはならない存在、か……)  灰色の雲が、陽光を受けて銀色にも見える。長年見てきた、主とその息子たちの髪色を思わせる色に、ジェドはふと隣のアリシアへ視線を戻した。 「ところで、クリス様の怪我の具合はどうですか」  最初に報告を受けて以来、ずっと気掛かりだったことを問い掛けると、アリシアがどこか呆れたように苦笑した。 「アナタも、会いに行けばいいじゃないの」  会いたいんでしょ?、と問い返され、ジェドは黙り込むことしか出来なかった。躊躇いなくジェドを押し退けてレンを抱き上げた晴人の強さが、羨ましく思える。  そうだ、とも、違う、とも言えないジェドの内心を察したのか、アリシアは視線で屋敷の玄関を示した。 「クリスなら、一階の客間に居るわ。一応絶対安静だって言われてるから、くれぐれも暴れさせないでね」  アリシアの声には茶目っ気が滲んでいたが、「絶対安静」という言葉にジェドの眉間の皺が深くなる。 「……それほど酷い怪我を?」 「安心して、アナタの車から脱走したときの怪我じゃないから。どうもその後ひと悶着あったみたいで、背骨をやっちゃったみたいなの。強情だから、何処で何があったのか、詳しくは話そうとしないけど」 「背骨を……!?」  アリシアの口振りからすると、そう大事には至っていないのだろうとは思ったが、それでも背骨など、下手をすればこの先一生後遺症が残ってもおかしくない場所だ。  ジェドの元を離れた後、それほど大事な箇所を痛めるような、どんな『ひと悶着』があったというのだろうか。おまけにクリスの性格を考えると、幾ら「絶対安静」と言われていても、そう素直に大人しくしているとは思えない。  無意識に舌打ちを零したジェドは、気が付くと屋敷の玄関へと駆け出していた。  その背中を眺めながら、アリシアが腕を組んで苦笑交じりの息を吐く。 「……ほんっと、どっちも強情なんだから」 「…───ッ」  ベッドからそろりと抜け出し、部屋の隅のソファ目掛けて足を踏み出したクリスだったが、たった三歩進んだところでビリッ、と痺れるような痛みが背筋を駆け抜けて、堪らず傍らの壁に寄り掛かった。  痛みに顔を顰め、冷や汗の浮いた額を壁に押し付ける。  ベッドからは、まだ一メートルも離れていない。  本家のクリスの私室に比べれば、半分にも満たない広さの部屋だというのに、壁際のソファが果てしなく遠くに感じた。  ……たったこれだけの距離すら、一人で歩けもしない。  ついさっき、レンが屋敷に戻ってきたのか、慌ただしく二階へ上がっていく足音が聞こえた。  恐らく晴人が出迎えて、今頃二人は漸く再会出来た喜びを分かち合っているのだろう。  レンが本家に戻っている間、晴人と何度か話していて、何の迷いもなく真っ直ぐにレンを想う晴人の強さを知り、クリスは素直に羨ましいと思った。堂々とレンへの想いを口にする晴人のことも、その想いを向けて貰えるレンのことも。  そして、ただ受け身でいるだけだと思っていたレンが、自分の意思で日本へ戻ってくるとアリシアから聞かされたとき、生まれて初めて、クリスはレンに「負けた」と思った。引きこもってばかりだった弟は、いつの間にか、自分の大事な相手の為に行動する強さを持っていたのだ。  ……それに比べて自分はどうだ。  自棄になってジェドの元を逃げ出し、何処の誰ともわからない酔っ払いの怒りを買って怪我を負い、未だに一人では満足に動けない。これまでのクリスの行いへ下された罰だとしても、余りの不甲斐なさに悔しさばかりが込み上げてくる。  こんな自分でも、謝罪して許しを請えば、晴人が言ったように、また一からやり直すことは出来るのだろうか。  そういえば、レンは早々に晴人と自室へ向かってしまったようなので、まだ謝罪も出来ていない。晴人とレンが下りてくるのを、取り敢えず今は大人しくベッドで待つことにしようと、ソファへ向かうのは諦めて、壁に寄り掛かったままどうにか身体を反転させたとき。  コンコン、と少し慌ただしく扉をノックする音がした。  てっきりアリシアが、レンの帰宅を知らせに来たのだろう。ついでにベッドまで手を借りようと口を開きかけたのだが────クリスの返事を待たず、焦れた様子でガチャリと扉を押し開けて部屋に飛び込んできた、見慣れた大柄な男の姿に、クリスは思わず目を瞠った。 「……ジェド……」  苦い表情で入ってきたジェドに、クリスは呆然とその名を呟く。一方、壁に寄り掛かるクリスの姿を見たジェドは、一層表情を険しくすると、その巨躯からは想像出来ない素早さでクリスの元へ駆け寄ってきた。 「クリス様……! 一体何をなさっているのですか」  窘める声とは裏腹に、逞しい腕がクリスの身体を支えるように回される。随分と久しいその感触に、クリスは思わず微かに息を詰めた。  こうしてジェドに支えられるのは、何時ぶりだろう。  ジェドが護ってくれていたお陰で、以前のクリスはこんな怪我とは一切無縁だったし、もう何年も前に、風邪をこじらせて高熱を出したときが最後だったように思う。  ジェドの腕に支えられているだけで、不思議と痛みまで和らいでいくような気がした。 「何処かへ行くおつもりだったのですか?」  まるで毎日クリスを介助しているかのように、慣れた様子でクリスの身を支えてベッドへ促しながら、ジェドが問い掛けてくる。 「……ちょっと、歩いてみようと思っただけだ」 「アラン様からは、『絶対安静』だと伺っていますが」 「これくらいなら、別に問題ない」  ジェドに支えられたままゆっくりとベッドに腰を下ろした瞬間、一瞬だけ痛みに顔を歪めたのを見逃さなかったのか、ジェドが「本当に、強情な方だ」と溜息を零した。そのまま、室内には気まずい沈黙が流れる。 (……お前だって、強情だろう)  片目を失っても尚、ジェドはクリスのように苦痛に顔を歪めることすらしなかった。  ジェドは出会ったときからクリスよりもずっと大人で、そして強い。独りになった途端、何も出来なくなってしまうクリスとは違う。  一瞬、ジェドが部屋に飛び込んできたのを見たとき、クリスの胸が確かに大きく鳴ったのだが、考えてみればジェドが此処に居るのは、恐らくレンを送り届けにきたからだ。それに気づくと、速まっていた鼓動は徐々に鎮まり、代わりに脈打つ度に、胸の奥がじくじくと痛んだ。  こんな形で、ジェドに支えられる安心感を知りたくなかった。  ジェドの存在の大きさを、知りたくなかった──── 『大体アンタ、ジェドって奴に、ホントは会いたいんじゃないのか』 『君はちゃんと人を頼るようにね』  これまで誰にも言われたことがなく、クリスの胸にチクリと刺さった言葉が蘇る。  自分からジェドの元を逃げ出した以上、プライドが邪魔をして素直に口に出来ずに居たけれど、自分にはジェドの存在がどうしても必要なのだということくらい、もうとっくにわかっている。  ジェドがクリスを庇って片目を失ったように、もしもこの先歩くことが出来なくなったとしても、ジェドさえ傍に居てくれれば、前に進めるような気がした。 「…………ジェド」  重い沈黙を破って、クリスは意を決したように口を開いた。 「……その……勝手に車を降りたこともそうだが……色々と、迷惑をかけて……すまなかった」 「クリス様……」  滅多に表情を変えないジェドが、心底驚いた顔をする。  それはそうだ。  記憶にある限り、クリスがジェドに謝罪の言葉を零したことなど一度もない。ジェドが片目を失ったときも、クリスは心配こそしたが、ただ泣き喚くことしか出来ない子供だった。  今更、こんな謝罪の言葉でクリスの行いの全てが許されることはないだろうし、そもそも自らジェドの元を逃げ出したクリスがこんなことを言うこと自体、おこがましいという自覚もある。ただ、それでも…──── 「……頼むから、お前だけは、俺の傍に居てくれ……」 「………」  いつの間にか祈るように自身の手を握り、縋るように視線を上げた先で、ジェドはこれまで見せたことがない、何かを堪えるような表情を浮かべていた。その口が一瞬何かを紡ごうと開きかけ、すぐにグッと引き結ばれる。クリスには何となく、ジェドが今まで決して零したことがない本音を、必死に呑み込んだように見えた。  いつもの冷静さを取り戻すように、一度深い呼吸をしたジェドが、クリスの前に跪く。 「───申し訳ありませんが、この度私は、当主様よりクリス様の護衛を解任されました」  聞き慣れた、淡々とした口調で告げられた言葉が、クリスの胸を容赦なく射抜く。  ……わかっていた。  掟を破った自分に、父から何らかの処罰はあるだろうということも、これまでは父の命でクリスの傍に居たジェドが、今回の件でクリスを見放してしまうかも知れないことも。  独りになって、自身の傲慢さや無力さを思い知って……だからこそ、この結果も何となく予想は出来ていた。 「……それは、今後レンの護衛に就くからか?」  震えてしまいそうな声を、どうにか腹に力を入れて誤魔化す。 「いいえ。今回の帰国で、レン様には当主になるお気持ちがないことはご本人の口からお聞きしましたし、何より、レン様は高坂晴人の傍でないと生きられないことがわかりましたので」  レンの護衛につくわけでもないのなら、それはつまり……。 「……ならお前は、もう館からも、居なくなるのか……?」  ジェドに、というよりも、自分自身に問い掛けるように呟いたクリスの頬に、生温い液体が伝い落ちて来る。頬を伝って口元に流れ落ちてきたそれは舐めるとしょっぱくて、そこで初めてそれが涙なのだと気が付いた。 「クリス様……!」  冷静だったはずのジェドが、珍しく動揺した様子でクリスの肩を掴む。その手を振り払って、クリスは涙を見せまいと両手で顔を覆った。 「…………一人にしてくれ」 「ですが────」 「いいから一人にしてくれ……っ!」  くぐもった声で叫ぶクリスの前で、ジェドが立ち去るべきか躊躇う気配がする。  仮に父に謝罪して、今回の過ちを償わせて貰えたとしても、ジェドの居ない日々の中で、自分はまた当主候補として、やっていけるのだろうか。  ジェドの居ない日々なんて想像しただけで耐えられそうになかったが、やはりジェドにとっては、クリスの存在など所詮は当主の息子────その程度のものだったのだ。  胸が抉られるように痛んで、この痛みに比べたら、嗚咽の度に背中に走る痛みなんて、気にもならないくらいだった。  これ以上惨めな姿を晒す前に、頼むから立ち去って欲しいと、もう一度ジェドに声を掛けようとしたとき。 「ちょっと! 取り込み中かも知れないから待ってってば!」  廊下から、バタバタと騒々しい足音と共に、何やら必死に誰かを止めようとしているアリシアの声が聞こえてきた。 「『大丈夫』じゃなくて、お願いだから話を聞いて! 兄さん────!」  アリシアが叫んだのと、バタン!と遠慮なく客間の扉が開け放たれたのとは、ほぼ同時だった。 (……『兄さん』……?)  まさか……、と泣いているのも忘れて咄嗟に顔を上げたのと、ジェドが扉の方へ顔を向けたのも、また同時だった。 「やあ、クリス! 久しぶり……って、あれ? もしかして、本当に取り込み中だったかな?」  スーツケースを片手にサングラスを掛けたヴェルナーが、悠長な声で片手を上げるも、クリスの涙に気付いて苦笑を漏らした。その背後で、「だから言ったじゃない」とアリシアが額を押さえて深い溜息を落とす。 「と、父さん……!?」 「当主様……!?」  完全に観光旅行スタイルで登場した父の姿に、クリスとジェドは、揃って驚きの声を上げる。クリスは慌てて、シャツの袖で目元の涙を乱雑に拭った。 「もう、相変わらずマイペースなんだから! ちゃんと義姉さんや館の皆には日本(こっち)に来ること、伝えてあるんでしょうね?」 「当然だよ。僕の留守中に何かあると大変だからね。ぬかりはないよ」 「じゃあどうしてこんなに早いの!? レンだって、ついさっき着いたばっかりよ?」 「そりゃあ……僕はプライベートジェットだから」  掛けていたサングラスをシャツの襟首に引っ掛けて、ヴェルナーがニッコリと微笑む。  その様子をポカンと見守るクリスとジェドの前で、アリシアのこめかみにみるみる青筋が浮かぶのがわかった。 「あのねぇ……。だったらどうして、レンをそこに乗せてきてあげなかったのよ!? あの子、死にそうになりながら帰ってきたのよ!?」 「わかってないなぁ、アラン。僕が送り届けたんじゃ何も意味がない。レンが自分から行動することに、意味があるんだよ。レンなら、どうにか日本まで持ち堪えてくれるだろうと思ったしね。親の勘っていうのもあるけど、うちの息子たちは芯の強い子だから」  そう言って笑うヴェルナーに、アリシアは呆れた顔でガクッと肩を落とす。  そんな二人のやり取りを呆然と眺めていたクリスは、そもそもヴェルナーが何故此処に居るのかもわからず、すっかり涙も引っ込んでしまっていた。 「ど……どうして父さんが……?」  漸く口を挟むことが出来たクリスの問いに、ヴェルナーが「驚いたかい?」とまるで悪戯っ子のような、緊張感など全くない笑顔を向けてくる。  確かに驚きはしたが、まさか単にクリスたちを驚かせる為だけに、ヴェルナーがわざわざ日本までやってくるとは思えない。結局何と答えて良いのかわからず、クリスは曖昧に苦笑するだけに留めたが、気にした風もなくヴェルナーはスーツケースを客間の扉脇に置くと、クリスの座るベッドまでやってきて、隣にストンと腰を下ろした。  もう全てヴェルナーにクリスの悪事の数々は知られているとはわかっていても、反射的にビクリと肩が竦む。  そんなクリスの緊張を和らげるように、ヴェルナーは穏やかな顔のまま、軽くクリスの肩を抱いて涙の跡が残る頬に挨拶のキスをした。 「クリスが暫く動けないって聞いたからね。怪我の具合はどうだい?」 「怪我なら、もう何とも……」  気丈に答えたものの、ヴェルナーがやってきたときから殆ど体勢を変えていないクリスを見て状態を察したのか、父は「芯が強すぎるのも困りものかな」と眉尻を下げた。  さっきまですっかり自信を失くしていたクリスは、居心地の悪さに思わず視線を落とす。  そんなクリスの頭頂部に、ポン、とヴェルナーの掌が載せられた。 「大丈夫だよ。クリスもレンも強い子だから、大丈夫だ」  くしゃりと少しだけ髪を乱すように撫でられて、折角引っ込んでいたというのにまたジワリと目頭が熱くなって、クリスは膝の上で爪が食い込むほど強く拳を握り締めた。  きっと、ヴェルナーには何もかもお見通しなのだ。 「父さん…────いえ、当主様」  クリスはそこで初めて、ヴェルナーに向き合うように少し身体を捻った。  たったそれだけの動きでも背中が痛んだが、構わずそのまま、ヴェルナーに向かって深く頭を下げる。 「……この度は本当に、申し訳ありませんでした」  クリスの謝罪に、アリシアやジェドが驚いたように息を呑む気配がする。  ただ、目の前のヴェルナーだけは、静かにクリスの謝罪に耳を傾けた後、満足そうに小さく頷いた。 「顔を上げなさい、クリス」  優しい声と共に、ヴェルナーの腕がそっとクリスの身体を楽な姿勢に戻してくれる。 「まだ安静にしてないと駄目なんだろう? 無理な姿勢は負担になる。それから今回の件だけど、大事なのは自分の過ちを認めることだ。今回の一件で、クリスも学んだことが沢山あったんじゃないかな?」  俯きがちなクリスの顔を隣から覗き込むようにして、ヴェルナーが問い掛けてくる。クリスは膝の上の自身の拳を見詰めたまま、小さく、けれどしっかりと頷き返した。 「だったら、後はもう大丈夫だよ。ともかく今は、怪我を治すのが最優先だ。────ただ、さすがに今回の件は一族の掟にも触れることだったから、僕も立場上、何の処罰もなく見過ごすことは出来ない。……だから、ジェドをクリスの護衛から解任することにした」  ついさっき、ジェドの口から直接聞かされた言葉が、ヴェルナーの口からも告げられて、クリスは俯いたまま黙って唇を噛み締めた。 「ちょっと、幾らなんでもそれは────」  アリシアが居ても立ってもいられず、といった様子で口を挟む。  ひたすら下を向いていたクリスは、その時ヴェルナーがアリシアに素早く片目を閉じて合図を送ったことに気付かなかった。クリスを見詰めるヴェルナーが、柔らかな笑みを浮かべていたことにも────。  改めて当主である父親の口から告げられると、さすがにショックも大きかった。  ジェドがクリスの護衛を外れることが、掟を破ったクリスへの罰だというのなら、それは黙って受け入れなければならない。  今後、どんな人物がジェドの代わりにクリスの護衛につこうとも、その相手と良い関係を築くことが、今のクリスに出来る精一杯の償いだ。  噛み締めすぎた唇が切れて、口内にじわりと血の味が広がる。そんなクリスの隣で、「それで、これからのことだけど」とヴェルナーがのんびりとした口調で続ける。 「今後、クリスには護衛兼、とっても厳しい目付け役として、ジェドについてもらうことにしたよ」 (そうか……今後はジェドという相手が…────って、え……?) 「……ジェド……?」  ヴェルナーの言葉が咄嗟に理解出来ず、思わず顔を上げた先で、アリシアはホッと安堵の息を零しており、ジェドは居心地が悪そうに視線を泳がせている。そして傍らのヴェルナーは、悪戯が成功した子供のように、満面の笑みを浮かべていた。 「え……だって、ジェドは解任だと……」 「そう、『護衛』としては一度解任になるね。今後は『護衛兼目付け役』というより厳しい立場で、クリスの傍についてもらうから。……ジェドを完全に解任した方が良かったかい?」  ヴェルナーの笑みが、少し意地の悪いものに変わる。 「そんなことは────!」  慌てて身を乗り出しそうになり、アリシアとジェドの視線に気づいて、クリスは気恥ずかしさから再び顔を伏せた。  ……まずい。  こんなにも嬉しくて幸せで堪らない気分になったのは、初めてかも知れない。  ドクドクと悦びに脈打つ鼓動を感じながら、ふと、同じように嬉しい出来事が、過去に一度だけあったのを思い出した。  ────弟のレンが、産まれたときだ。  あの時も、こんな風に胸がドキドキして熱くなって、小さな手でクリスの指を握ってくれるレンが、可愛くて堪らなかったのに。なのに何故、その感情を忘れてしまっていたのだろう。  ヴェルナーの言う通り、今回の一件で、クリスは本当に多くのことを学んだ。今まで散々、様々な知識を叩き込んできたつもりだったが、内面は弟のレンよりずっと未熟で、大切なことは何一つ学べていなかったことを思い知らされた。  その反省を胸に、もう一度ジェドとやり直せるのだということが、何よりも嬉しい。 「……ありがとう、ございます……っ」  喉の奥から声を絞り出したクリスの目尻から、堪えきれなくなった涙がポタポタと滴って、握り締めた拳を静かに濡らしていく。そんなクリスの髪をもう一度だけ優しく撫でて、ヴェルナーがベッドから腰を上げた。 「そういえば、レンの姿が見えないね。どうせならレンも驚かせたいんだけどな」 「だから、レンたちも今は取り込み中なの! お願いだから皆が落ち着くまで、兄さんは応接間で大人しく待っててちょうだい!」  ええー、と子供のように不満げな声を上げるヴェルナーを、アリシアがスーツケースごと、強引に客間から引きずり出す。  そうして、客間は再びクリスとジェドの二人きりになった。  罰が悪そうに、ヴェルナーが出て行った扉を見詰める横顔に向かって、クリスは「ジェド」と静かに呼び掛けた。 「……お前、もしかして全て知ってたのか?」  クリスの問いに、観念したように眉を寄せたジェドが、再びクリスの目の前に跪く。 「……申し訳ありません。当主様自らが此処へ来られるとは思いもしませんでしたが、今後の件に関しては、当主様から『僕が話すまでは絶対にクリスには話さないように』と強く言われておりまして……」  いつもニコニコ笑っているが、あの父親は絶対にサディストだ、とクリスは確信する。さすが、アリシアの兄だけのことはある。 「ジェド……もしも今回、本当に父さんが俺の護衛を解くとだけ言っていたら、お前はどうしていた? 今回の『護衛兼目付け役』というのも、単に父さんから命じられて引き受けただけだと言うなら────」 「クリス様」  クリスの言葉を遮って、ジェドが不意に、クリスの拳を両手で包み込んだ。そのジェドの手の甲に、新たな雫がポタリと落ちる。  父の采配はとても嬉しかったが、肝心のジェドの本心を聞くのが怖かった。クリスだけが嬉しくても、ジェドがクリスの傍に居ることを望んでいないのならば、ただの独り善がりだ。それでは以前と、何も変わらない。  涙なんて見せたくはないのに、言葉を続けることが出来ないクリスの頬に、ジェドの片手がそっと触れた。 「……貴方の泣き顔を見たのは、私がこの左目を失ったとき以来ですね。先ほど、貴方の涙を見たときの私の気持ちがわかりますか?」  長い親指に優しく涙を拭われて、クリスは小さく首を横に振る。 「もしもあの時、当主様が部屋に入って来られなければ、例えその命を破ってでも、私の口から話してしまうところでした。今回、レン様の帰国に付き添ったこともそうです。レン様は当主様に黙って館を出てこられましたが、本来私はそのような行動に付き合うべきではなかった。ですが、自ら突き放しておきながら、私はクリス様が負傷されたと聞いてから、貴方のことが気掛かりで仕方なかったのです」 「……お前の話は、堅苦しくてわかり辛い。もっと簡潔に言ってくれ」  ズ…、とみっともなく鼻を啜って、涙声で訴えるクリスに、ジェドが困ったように苦笑する。  静かに立ち上がったジェドは、クリスの背をしっかり支えると、そこに負担がかからないよう、器用にクリスの身体をベッドに押し倒した。誘うのはいつもクリスからだったが、ジェドに覆い被さられた経験はもう何度もあるのに、何故だかこの日は異様に心臓の音が煩く響いた。 「もう二度と、このような怪我をされないよう、私の傍に居てください」 「……それじゃ足りない」  もっともっと、ジェドの奥底にある本音が聞きたくて、クリスはジェドのネクタイを緩く引っ張った。クリスの意図に気付いたジェドが、自ら顔を寄せてくれる。  鼻先が触れ合う距離で、クリスはジェドの隻眼を覗き込む。 「俺がまた間違ったら、そのときは正してくれるか?」 「その為の『目付け役』です。当主様からは『とことん厳しく』と仰せつかっていますので、覚悟なさってください」  恐ろしいことを言われているのに、不敵に笑うジェドの顔すら悦ばしくて、もしかすると、あの父親のお陰で自分は案外マゾヒストの気があるのかも知れないと、クリスは頭の隅で思う。 「……この先何があっても、お前の傍を離れてやらないから、そっちこそ覚悟しておけ」  まだ薄く涙の滲んだ瞳を細めて、不遜な物言いでそう返すと、クリスは首を伸ばして自ら目の前の男の唇を奪った。  不意を突かれたジェドが一瞬目を瞬かせたが、すぐにクリスの両腕が抑えつけられて、主導権を奪われる。噛み付くようなジェドからのキスは、まるで日頃押し殺している感情をぶつけるように激しかった。  何度も角度を変えて、散々吐息ごと貪ったジェドが、ほんの少し唇を浮かせて囁いた。 「もう二度と、貴方にはかすり傷一つ負わせはしない」 「……お前がそうやって甘やかすから、俺が駄目になる。たまにはお前の痛みも、俺に背負わせろ」  そうしてお互い笑い合った口下手な二人は、獣じみた口づけに互いの想いを乗せて、言葉の代わりに何度もぶつけ合った。 「アラン……息子たちが一向にやって来ないよ?」  応接間のソファに腰かけ、寂しげな声を漏らすヴェルナーに、アリシアはネイルを塗りながら呆れた嘆息を漏らした。 「兄さん……いい加減にしないと、馬に蹴られて死ぬわよ」 「だって! 折角プライベートジェットで張り切って飛んできたっていうのに、二人とも取り込み中ってどういうことだい!?」 「うるさいわね。二人とも年頃なんだし、父親が突然やってきて大喜びすることもないでしょうよ」  子供の巣立ちって寂しいなあ…、と独り言ちながら、ヴェルナーは持参したデジカメを弄っている。その姿は、完全に外国人観光客のそれである。 「なに、カメラなんてわざわざ持ってきたの?」 「だって、アヤは来られないだろう? 折角だから、レンの『大事な相手』を、見せてあげたいじゃないか」  顔を見せるくらいなら別に携帯でも事足りるのでは、と思ったアリシアだったが、義姉が写真を集めることが趣味だったのを思い出して口を噤んだ。  義姉の部屋には、あちこちに家族の思い出の写真が飾られている。自分で撮るのは苦手なようで、主にヴェルナーに撮って貰ったものを飾っているらしい。  過去を振り返るのがあまり好きではないアリシアは、義姉がどうしてそれほど写真を飾りたがるのか、何の気なしに聞いてみたことがあるのだが、身体が弱く、いつまでもつかもわからない自分の目に、出来るだけ思い出を焼きつけておきたいのだと言って微笑んでいた義姉の姿は、今でもハッキリ覚えている。  今は幸い体調も回復しつつあるようだが、この先もずっと、晴人の写真や、更には当主の座を引き継いだクリスの写真も、彼女の部屋に増えていけば良いと、アリシアは密かに願う。 「でもどうするの? 息子が二人も居るのに、この調子じゃ当主はクリスの代で終わっちゃいそうよ?」  塗り終えたネイルを乾かす為に広げた掌を伸ばしながら、アリシアはヴェルナーに問い掛ける。そのアリシアを悪戯に撮影してから、「そうだなあ」とヴェルナーはのんびりとした声を上げた。 「僕としては、元々アヤの代で途絶えてしまうって言われていた黒執家を守れたし、二人も息子を授かったから、もう充分だと思うけどね。きっとアヤも、同じ意見な気がするよ。子供の幸せを願わない親は居ないし、僕は、アヤと同じ墓に入れるならそれでいい」 「兄さんらしい……って言いたいとこだけど、何だかこうなることを全て見越して、黒執家の婿養子になったような気がしてくるから不思議だわ……」  ヴェルナーは「まさか」と笑っていたが、正に今、同じ屋根の下では二人の息子たちが幸せを噛み締めているのだから、本当にこの兄は侮れない、とこっそり唇を綻ばせるアリシアなのだった。

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