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第27話
「君がレンの伴侶かい!?」
痺れをきらしたヴェルナーがいい加減うるさいからと、アリシアに呼ばれて晴人と共に応接間に下りてきたレンは、部屋に入るなり晴人に抱きついてきた父親の姿に、身内ながら思わず唖然とした。
さすがの晴人も初めて会うヴェルナーに、部屋に入るまでは少し緊張した面持ちだったのだが、まさかいきなりハグで出迎えられるとは思っていなかったのだろう。「は!?」と驚いた声を発して、晴人は中途半端な姿勢のまま固まってしまっている。
レンはヴェルナーのスキンシップ好きには慣れているので、自分がされる分にはもう何とも思わないのだが、初対面の晴人に、挨拶もなくハグから入るとは……。おまけに『伴侶』とはどういうことなのだろう。
「父さん……取り敢えず落ち着いて」
「ちょっと、晴人が困ってるじゃないの」
息子と弟の二人から呆れた声を寄越されて、ヴェルナーが「ごめんごめん」と言いながらも、まだどこか名残惜しそうに晴人を解放する。
「いやあ、ずっと誰とも関わろうとしなかったレンが、初めて自分から会いたがった相手は一体どんな子なんだろうと思っていたから、漸く会えたのが嬉しくてね。────初めまして、レンの父のヴェルナーだよ。レンがいつも『色々と』お世話になっているみたいで、ありがとう」
色々と、というところだけを不自然に強調しつつ、ヴェルナーがいつもの人当たりの良い笑顔で、晴人に向かって片手を差し出す。
「……初めまして。黒執のクラスメイトの、高坂晴人です」
晴人はまだ動揺の残るぎこちなさで取り敢えず握手に応じていたが、ヴェルナーをよく知るレンは、何気にその笑顔が怖いと思ってしまうのだった。
「礼儀正しくて良い子じゃないか。……それからレン。日本までのフライト、辛かっただろう? よく耐えたね」
随分顔色が良くなった、とヴェルナーがそっとレンの頬を撫でる。ヴェルナーからすればレンはまだまだ心配の絶えない子供なのだろうが、晴人の前でこうして子供扱いされるのは少し気恥ずかしい。
「アランから大体の話は聞いているけど、レンは君の血なら飲めるんだって?」
問い掛けられた晴人が、「そうみたいです」と躊躇いがちに頷く。
「どうして黒執が俺の血だけは飲めるのか、俺には全くわからないですけど……」
「でも日本 に戻ってくる前、レンの体調が酷く悪そうだったから心配していたんだけど、今これだけレンの顔色が良くなってるということは、君の血を貰ったんだろう?」
「それは、まあ……」
正直、吸血行為だけでもなかっただけに、晴人とレンは思わず互いに顔を見合わせて口ごもる。そんな二人の様子を微笑ましそうに眺めて、「別に深く詮索するつもりはないよ」とヴェルナーは笑った。その笑顔に、やはりこの父には隠し事は出来ないと、レンは益々居たたまれない気持ちで、紅くなった顔を伏せた。
レンの初々しい反応さえも愉しむように笑みを浮かべたまま、ヴェルナーは続ける。
「レンはこれまでどんな人間の血も受け付けなかったから、実のところ親としても心配していたんだ。サプリや野菜なんかでどうにか凌いでいたようだけど、きっといつかはそれだけじゃ持ち堪えられなくなる。単なる偏食なら無理にでも血を流し込めばいいけれど、レンの場合は身体が拒絶してしまうから、どうしたものかと悩んでいてね。だから、アランから『レンが唯一血を受け入れられる人間が居た』って言われたときは、思わず日本に飛んで来ようかと思ったくらい嬉しかったよ」
「……もし、この先仮に俺以外にも黒執が飲める血の持ち主が現れたとして、それでも俺が自分の血以外、黒執に飲ませたくないって言っても、『嬉しい』と思ってくれますか」
ふとヴェルナーに向き直って真顔でそう問いかけた晴人に、ヴェルナーが驚いたように目を瞬かせる。レンも、傍で聞いていたアリシアも、同時に目を見開いた。
「晴人……?」
それは一体どういう意味なんだろう。少し前までは、レンの為には晴人以外の血も飲めた方がいいんじゃないか、なんてことを言っていたはずなのに。
恋愛経験なんて皆無なレンには、晴人のその発言が強い独占欲からくるものだとは全くわからず、ただポカンと晴人の横顔を見上げることしか出来なかったのだが、そんなレンを置き去りに、ヴェルナーとアリシアは揃って笑い声を上げた。
「だから晴人は只者じゃないって言ったでしょ、兄さん」
「そうみたいだね。これだけ頼もしい子が傍に居てくれるなら安心だ。何なら、早速うちに婿入りするかい? 我が家はいつでも大歓迎だよ。あ、レンを婿に貰ってくれるなら勿論それでも構わないしね」
「ち、ちょっ……父さん! 晴人も…さっきから一体何の話してるんだよ」
「何って、レンと晴人君の話に決まってるだろう。何と言っても、レンはもう君無しじゃ生きていけない身体になってしまったみたいだからねぇ」
ヴェルナーがほんの少し目を眇め、晴人に向かって意味ありげに微笑む。その言い方には、さすがに晴人も気まずそうに視線を泳がせていた。
確かにレンは、恐らくもう晴人の傍でなければ生きていけないだろうが、いきなり婿入りだ何だと言われてもピンと来ない。突然やって来た初対面のヴェルナーからそんな話を振られた晴人は、もっと困惑しているに違いない。
「……お前の親父さん、見た目はともかく、お前ら兄弟と随分性格違うんだな」
晴人が、ヴェルナーに聞こえないよう、レンの耳元に顔を寄せてボソリと零す。
「……よく言われる」
顔を寄せ合ってヒソヒソと話す晴人とレンの様子を、不意にカメラに収めたヴェルナーが、撮った写真を確認して満足げに頷いた。
「よし、良い画が撮れた。婿入りの話はまた追々じっくり考えて貰うとして、こんなに男前な良い子なら、早くアヤに会わせてあげたいよ」
「アヤ……?」
「母さんの名前」
隣で首を傾げる晴人に、レンが補足する。それを聞いて、晴人は思い出したように「ああ」と小さく頷いた。
「そういえばお前、母親は日本人なんだったな。具合悪くて、お前も帰国してたんだろ? もう大丈夫なのか?」
「ああ……うん。俺が戻ったときには、もう大分具合も良さそうだった」
「そうか。なら良かった」
レンの返事を聞いて、晴人がまるで自分の事のようにホッとした笑顔になった。その笑顔に、胸が甘く締め付けられる。
晴人はヴェルナーのようにいつでもニコニコしているわけでもないし、決して饒舌な方でもないけれど、大事な想いはちゃんとこうして表情や言葉で伝えてくれる。
無意識にシャツの胸元を握り込むレンの後ろで、アリシアが「若いっていいわねぇ」と揶揄う声を零していたけれど、聞こえないフリをした。
「取り敢えず立ち話もなんだから、皆座ったらどうだい?」
ヴェルナーが、応接間の入り口で立ったままの晴人たち三人をまたしてもちゃっかり撮影した後、傍らのソファへ促す。けれど、そこで壁の時計へ目を遣った晴人は、申し訳なさそうに緩く首を振った。
「すいません。折角ですけど、俺はそろそろ帰る時間なんで……」
晴人の言葉に窓の外へ目を向けると、窓の向こうはいつの間にか日が落ちて真っ暗だった。
レンが屋敷に帰り着いた時はまだ夕方にもなっていなかった気がするのだが、一体どれくらい晴人と部屋にこもっていたのだろう。時間を忘れるほど、誰かと共に過ごしたことなんてこれまでなかった。
日本にも帰ってきたし、晴人の記憶も無事戻ったのだから、これからはまたいつでも晴人に会えるというのに、それでも別れを名残惜しく思う。そんな自分が居ることも、レンは初めて知った。
「そうか、それは残念だ。日本の学校は、もうすぐ夏季休暇だろう? もし良ければ、今度はレンと二人でうちにも遊びにおいで。アヤもきっと喜ぶだろうし、その時はちゃんとプライベートジェットで送迎してあげるよ」
「そういえば、一応声は掛けたけど、クリスたちは来なかったわね」
アリシアが、廊下へ顔を出して肩を竦める。
「まあ、クリスは一応怪我人だし、今頃ジェドからみっちり絞られているだろうからね。本当は、クリスにも晴人君に謝罪させたかったんだけど……改めて、うちの息子が迷惑をかけたね。申し訳ない」
ヴェルナーから深々と頭を下げられて、晴人が少し慌てた様子で首を振る。
「そんな大したことじゃないし、ちゃんと本人から謝罪もして貰ったんで、気にしないでください。……あと、『晴人君』って呼ばれ慣れてなくてむず痒いんで、出来れば呼び捨てでお願いします」
「……ありがとう、晴人。少し遠いけど、本当にいつでも、うちに遊びにおいで。是非妻にも君を紹介したい」
「ありがとうございます。……まず、パスポート作るとこからになりますけど」
冗談めかして答えた晴人と笑い合ったヴェルナーに、「見送っておいで」と促されて、レンは晴人を門まで見送りに出ることになった。
思えば、これまで何度も晴人はレンの屋敷にやって来ているけれど、帰りに見送ったことなんて一度もない。そしてそれは晴人も感じていたのか、並んで廊下を歩きながら、隣で微かに笑う気配がした。
「……何だよ?」
「いや、お前にこんな風に見送って貰うのなんか、初めてだと思って。いつも『勝手に帰れ』って感じでゲームしてるだろ」
「べ、別にそこまで失礼なこと思ってない。お前が『帰る』って言ったら、ちゃんと『じゃあな』って返してただろ」
「でも俺の方見向きもしてなかったぞ、いつも」
「………っ」
晴人の言葉が矢のようにグサグサとレンの胸に突き刺さって、思わず言葉に詰まる。
改めて言われると、仮にも良家の育ちでありながら、酷い無礼さと愛想の無さだ。それでもそんなレンの元に、晴人はいつも足を運んでくれていたから、レンはいつの間にか、すっかりそこに甘えていたのだ。晴人が居ないと、レンは生きていけないのに────
こんなとき、気の利いた言葉もレンには思い浮かばない。だからせめて、そっぽを向いたまま晴人の制服の裾を、そっと控えめに摘んだ。それが、今のレンに出来る精一杯のスキンシップだったのだが、気づいた晴人が「子供か」と噴き出し、レンの手を強引に引き剥がすと、しっかり指を絡めて握ってくれた。
たったそれだけのことで、レンの心臓は隣の晴人にも聞こえてしまうのではと思うほど、ドクドクと騒ぐ。
これが恋だと言うのなら、自分の心臓はこの先果たしてもつのだろうか。
結局何の会話も出来ないまま、ただ無言で手を繋いで、レンと晴人は門の前までやって来た。
どちらからともなく足を止め、歩みが止まる。まだ繋がったままの手が解ける前に、レンはどうにか乾いた喉から声を絞り出した。
「あのさ……。今日はその……父さんが、いきなり色々言って、ごめん」
「別に。お前ら兄弟とあまりにも性格違いすぎて最初は戸惑ったけど、いい親父さんだな。お前らのこと大事にしてるの、よく伝わってきたから、もうくだらない仲違いするなよ」
繋いでいた手を解いた晴人が、その手をレンの頭に載せて、くしゃりと髪を掻き混ぜた。
「……お前まで父さんみたいなことするなよ」
繋いでいた手が解けた名残惜しさを、憎まれ口で誤魔化す。そんな捻くれたレンの感情表現でさえ、晴人は不思議と見抜いてしまったのか、目を細めて笑った。
「そういえば、お前ちゃんと制服持って帰ってきたか?」
「制服?」
「帰国するとき、持ってったんだろ?」
「何で知って…────さては、アランが喋ったな」
言葉の途中で、悪戯に片目を閉じるアリシアの姿が脳裏に浮かんで、レンは軽く唇を尖らせる。
あの時は、もう晴人と共に学校生活を送れる日は来ないかも知れないと思っていたので、こうしてまた晴人と話せるようになったことは嬉しいし、ちゃんと制服だって持って帰ってきた。
けれど散々引きこもり生活を続けて、学校だってあれだけ渋々通っていたのに、いざもう二度と通えないかも知れないと思った途端、寂しくなったと悟られるのも何となく照れ臭い。
「……一応、持って帰ってきた」
結局捻くれた言葉しか出てこない、どうしようもないレンの唇を、身を屈めた晴人の唇が素早く掠めた。
「ッ────!」
まさか屋外で口づけられるとは思わず、唖然として口を開閉させることしか出来ないレンに、
「それじゃ、また明日学校でな」
と晴人はヒラリと手を振って、門を出て行った。
「また明日」────こんな何てことない言葉が、幸せだと思える日が来るなんて思ってもみなかった。
正直なところ、まだまだ外に出ることは苦手だし、人の多い騒々しい場所も好きにはなれない。けれど、晴人と同じ時間を共有できる学校は、今なら少し、好きになれる気がする。
門の格子越しに晴人の背中が見えなくなるまで見送って、レンが漸く踵を返すと、いつから其処に居たのか、玄関扉の前にクリスが立っていた。
「兄さん……!?」
もしかして、晴人とのやり取りを一部始終見られていたんだろうか。
動揺するレンを見詰めるクリスが、ほんの一瞬笑った気がして、レンは目を瞠る。
これまでの、相手を見下すような冷たい笑顔じゃない。記憶の中に微かに残る、幼いレンに笑い掛けてくれていたクリス。あの頃と同じ笑顔が、確かに見えた気がしたのだ。
そんな笑顔も幻だったんだろうかと思うほど、クリスはすぐに真顔になって、「少しいいか」と口を開いた。
「俺はいいけど……兄さん、こんなとこに居ていいの。安静にしてないと駄目なんじゃ……」
晴人から、レンが帰国している間にあったことは粗方話して貰ったが、その中でクリスが怪我をして絶対安静を言い渡されているらしいことも、レンは聞いていた。どうしてそんな怪我を負うことになったのかは、クリスが頑なに話したがらなかったらしいけれど。
「扉の向こうにジェドも控えているから問題ない。中だと父さんが飛んでくるからな」
ゆっくり話せない、とほんの少し肩を竦めるクリスに、レンも「確かに」と苦笑する。
日本に戻ってくるまで、ずっとクリスのしたことは許せないと思っていたのに、どうしてだろう……今目の前に居る兄は、随分と雰囲気が違って見える。ついさっき朧げに思い出した、幼い自分といつも遊んでくれていた頃のクリスに、少し近い気がする。
そういえば晴人もクリスから謝罪して貰ったと言っていたし、怪我を負わされた割に、クリスの事を話す晴人からも、怒りや憎しみといった感情は殆ど感じられなかった。
レンが帰国して改めて晴人の存在の大きさを思い知ったように、クリスにもまた、レンの居ない間に何か大きな変化があったのだろうか。
何かあったときにはすぐにジェドを呼べるように傍まで歩み寄ると、クリスは改めてレンに向き直った。
「レン。俺はこれまで、散々本家でお前の居場所を奪ってきた。お前に近しい者、俺にとって都合の悪い者……それらも全て排除してきた。今回の高坂晴人の件もそうだ。あの男がお前にとって必要な存在だと知って、お前たちを引き離そうとした」
「……兄さんが、俺のこと良く思ってないってことは、ずっと気付いてた。だけど、大人しく引きこもってれば問題ないって思ってたんだ。だから、兄さんがまさか日本まで来るとは思わなかったし、正直……晴人を傷つけた上に暗示をかけたことは、許せないって思った」
クリスが面と向かって自身の行いについて語るなんて、これまでなかったことだ。しかも、いつものような威圧感も今日は感じられなかったので、レンも意を決して自身の胸の内を素直に吐き出した。
クリスは、レンの言葉に黙って耳を傾けた後、再び静かに口を開いた。
「……今回俺がしたことは、一族の掟に背くことだ。だから、簡単に許されることじゃないと思っているし、許されるべきじゃないとも思っている。これまで俺がお前にしてきたことも同じだ。一言の謝罪で済むとは思っていないが……────すまなかった」
そう謝罪したクリスの声は、レンは初めて耳にする声音だった。
誰かに言われて仕方なく謝罪しているだけなら、きっとこれまでのように、クリスは不遜な物言いをしただろう。
真っ直ぐにレンを見据えるクリスの目は、血も飲めない引きこもりのレンを見下すようなものじゃない。これまでの高圧的な兄からは考えられないほど、その瞳は微かな不安を湛えて揺らいでいる。
晴人と離れている間、レンが不安で寂しくて堪らなかったように、もしかするとクリスもまた、ジェドと離れて独りで居る間、不安や寂しさを感じていたんだろうか。
ずっと背を向け合っていた兄の素顔を、今やっと見せて貰えた気がした。
「兄さん……」
「勿論、あっさり許してくれなんて言うつもりもない。俺がしてきたことは、俺自身の行いで償うべきだと思っている。……それに気付かせてくれたのは、皮肉にもあの男だったんだがな」
自嘲気味に笑うクリスに、「あの男?」とレンが首を傾げると、「お前がついさっきまで一緒に居た男だ」と揶揄うような答えが返ってきた。やっぱり見られていたんだろうかと、レンの耳がカッと熱くなる。
「……兄さん、いつから見てた?」
「制服がどうのと話していた辺りだな」
「それ、殆ど見てるだろ……! 声掛けてくれたら良かったのに!」
穴があったら入りたいと顔を覆うレンに、クリスが「そこまで無粋な真似ができるか」と呆れた声を上げる。
「……おかしな奴だな。あれだけ堂々と想われていて、何を恥じることがあるんだ? お前だって、あの男を想っているから日本に戻ってきたんだろう」
「そ、そうだけど……でもだからって、堂々とするとか無理だし!」
「引きこもりの人見知り気質は、そう簡単には変わらないということか」
純粋に可笑しそうに、クリスが笑う。
レンがもう殆ど覚えていないほど昔、クリスが毎日のように幼かった自分と遊んでくれていたことをぼんやりと覚えてはいるが、そんなクリスが徐々に疎遠になって以来、もうずっと、こんな風に話したことはなかった。クリスはレンを邪険にしていたし、それに気づいたレンも極力クリスを避けるようになっていたからだ。
けれど確かに以前よりも柔らかくなったクリスは、まるでレンが幼かった頃に戻ったようで、何だか不思議な気分だった。
「……兄さん、何か変わった……?」
「言っただろ。これからの行動で償っていくと」
強い口調でクリスがキッパリと言い切る。ああそうか、兄さんは強くなったんだ…と、レンは怪我なんて感じさせない真っ直ぐな姿勢を見ながら思った。
レンが晴人を想って踏み出せたように、クリスもきっと、大事な何かに気付けたのだろう。だからこそ、ずっとすれ違っていた自分たちは、今こうして向かい合えているのだ。
「兄さん、俺……久々に本家に帰って気づいた。あそこには、やっぱり俺の居場所はないって」
「それは俺が、お前が居辛い環境にしたからだ」
そうじゃないんだ、とレンは首を振る。
レンは望んでいないのに、身の回りの世話をしにやってくる使用人たち。押し付けられる次期当主への期待────レンにとって煩わしくて仕方なかったものを、クリスは全て背負っていたのだと、レンは改めて気付かされた。
「俺にはやっぱり、兄さんみたいに当主になる為の生活なんて出来ない。だからそれが出来る兄さんは、凄いと思った」
「……その言葉を裏切らないように、一から学び直すつもりだ。ああそれから、お前の留守中アランに言われるまま間借りしていたが、ジェドも居ることだし、さすがにこれ以上世話になるわけにもいかない。俺とジェドは、帰国出来るようになるまではホテルに移ろうと思う」
「でも、移動も負担になるんじゃ……。絶対安静なんだろ?」
「何より、お前たちの邪魔になるだろう」
当然のように問い返されて、晴人に言われた言葉を思い出す。
『もうくだらない仲違いするなよ』
……そうだ。血の繋がった兄弟なのに、邪魔だとか迷惑だとか、どうしてそんなことを考えるようになってしまったんだろう。
「兄さんたちが居たくないって言うならともかく、別に俺は迷惑なんて思ってない。……プライベートジェットで勝手に飛んできた誰かも居るし、兄さんとジェドが嫌じゃないなら、怪我が治るまで、此処で安静にしてたら? どうせ俺は学校以外、殆ど部屋から出ることもないと思うし」
「お前はもう少し外に出るべきだ」
晴人のようなことを言ったクリスに額を軽く小突かれる。こんなじゃれ合いも幼い頃以来で、思わずレンの口元から笑みが零れた。つられたように、クリスも微かに笑う。
「……なら、お前の言葉に甘えてもう暫く世話になるか」
扉越しに二人のやり取りを聞いていたジェドもまた、密かに微笑んでいたことを、クリスとレンは知らない。
まだまだ昔のような関係ではないけれど、月日が経てば、少しずつ互いのぎこちなさも薄れていくだろうか。
クリスの身体を支えて、レンはクリスと共に玄関の扉を潜る。その二人の背を、月の明かりが優しく照らしていた。
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