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第3話
ただならない様子のリズンテールにまだ何か言い足らない口を閉ざす。
「同じ姿で違うこと言うのは、耐えられない」
妖しく笑う。昏い顔をしているくせぎらぎらとアイスグレーの目が光った。壊れ物を扱うが如く慎重に腕を取られる。冷たい手。薄い手袋の柔らかさの奥の固さ。この中身を知っている。樹皮と見紛う腕だった。手を裏返され、包帯がきつく巻かれている手首に唇を落とす。胸がざわついた。
「や、め…」
手を引いた。だが丁寧に触れたリズンテールの力は強い。
「離せ…よ…」
「離せばまた、自分を壊すだろう」
視線を捉えられるとどうしていいか分からなくなった。何を求められている?安静にしていることか。
「…帰る。また来るからな」
「送ろう」
「必要ない…!」
「今の君を1人には、」
「何のつもりだ?勇者様御一行はまだ完全に魔王を倒せていませんでしたって吹聴しねぇか心配なのか?」
振り払っても振り払ってもリズンテールの華奢だがおそらく武具でできた胼胝だらけの固い手は離れない。
「…しないだろう、君は」
リズンテールの声が低くなった。纏う空気が変わる。緊張感を伴って、地雷を踏んだのだと気付いた。
「チェントはオレを捨てたけど、オレはまだ…諦めきれない。危なくなるようなこと言うかよ………チェントのことは、頼む」
へリッシュの目が泳ぐ。都合が良すぎる。チェントという人質がいるのだ。リズンテールやその仲間らにとっては秘匿しておくことで、ただリズンテールの性分で生かされているのかも知れない。仲間だから?まさか。消えた線だ。仲間と認識しているのならあのような目に遭わせるはずがないのだから。へリッシュはリズンテールの顔を見ることなく帰路につこうとして、足元が覚束ず、意図しない方へ傾いていく。背後から抱き竦められて、支えられた。
「ここにいてくれ、頼む。心配なんだ」
「やめ、ろ!」
そこまで親しかっただろうか。親しくはない。親しくなろうとしなかった。今思えば、彼等に触れることで怒りや憎悪を掘り起こしたくなかったからだったのだろう。
「放っておいてくれ!」
リズンテールを突き飛ばす。複雑な事情を目の当たりにしていたにせよ、苦手意識があったにせよ、敬意はあった。リズンテールに限らず、勇者様御一行に。帰り際にチェントに会いにいく。ふらふらだった。螺旋階段を時間をかけて降りる。どうせ明日からの仕事に行くつもりはない。世を捨てても構わない。勇者様御一行を崇める世間に耐えていけそうにない。
「チェント…チェント…」
辿り着く前から何度も呼んだ。もう呼ぶことはないと思っていた。チェントはぐったりとしていた。へリッシュも牢に入って腰を下ろす。暫く眺めてからチェントの脇で横になった。村でも日向ぼっこをしながら2人寄り添って眠った。夕日の赤さと家々から漂ういい匂いに目が覚めて隣で眠っていた好きな人の姿が消えていて、焦って、家で夕食を作って、食べさせてくれた思い出。あれが幸せでないなら何が幸せなのか。地域格差の貧しさはあったり、食生活も偏りはあった。それでも楽しかった。今思えば。故郷が無くなった今、思えば。
「『ヘリー?』」
牢に小さく響く二重の声。
「チェント」
以前のように横になったまま見つめ合う。照明を持ってくればよかった。チェントの空色の瞳を見ながら眠るのが好きだったり。チェントもガーネットみたいだと言って笑った。
「昔チェントが言ってたさ、オレの目みたいって言ってた宝石のこと、なんていうだっけ」
「『…がーネッと、カ?』」
「じゃなくて、ガーネットの石のやつ」
「『カーバ、んくル?』」
「それだ」
石畳は冷たく固い。何故ここに押し込められねばならない。何か話したかった。チェントの声を聞いていたい。帰る気などそもそもなかった気さえする。
「『そんナ…話モシタっけカ…ヨく覚えテイた、な…』」
「難しい言葉は忘れっけど、覚えてる。チェントがしてくれた話だもんな」
大きな布が捲れ、長い爪に気を付けた様子で硬い掌がへリッシュの腕に乗る。
「どうした?」
「『許しテくレトは言わ…なイ。…でモ、すマナかった、…』」
「…っ、なんの話だよ」
腕に乗った手に触れた。鱗になった皮膚を撫でる。少しくすぐると手を引っ込めようとする。かわいさにまた意地悪してしまう。
「『リズんてールを、責メないデく…レ』」
胸が痛い。チェントの口からあの男の名前が出るのが苦しい。嫉妬深いつもりはなかった。だがあの男を追って出て行ったとしたなら。
「…聞きたくねぇよ」
長い爪ごとチェントの手を胸に抱く。心臓に当たる想い人の掌にわずかな安堵が生まれる。
「『聞い…テ、クれ…。リずンテーるは、』」
唇を噛むと、チェントは言葉を止めてへリッシュに近寄った。暗い中でも赤い瞳は光っている。チェントはへリッシュの瞳をガーネットと言ったが、今のチェントの片目はレッドスピネルのようだった。額に額が触れた。
「…チェント…?」
「『りずンテーるの恋人、あノ時ニ…死んジャった、ンだ…』」
髪と変貌の境界の額が離れそうになってへリッシュから額を当て直す。2人で愛し合った後はよくこうした。落ち着くのだ。
「『君に、ヨく似てル。髪も、目モ…声モ…』」
空色の瞳に捉えられて、へリッシュは胸が痛んだ。悲しげだった。リズンテールの眼差しに合点がいき、ばつが悪くなる。何故憤らない。その程度の恋人なのか。利用して切り捨てられる程度なのか。
「『君の死ヲ…見た気ガして、怖くなッタ…とてモ、』」
胸に抱いた硬化した手を強く握ることしか出来ずに、愛しい人をただ凝視する。旧ツェントルム神国が崩壊した後、テルア王国は共和国になった。チェントの家系は旧ツェントルム神国の者。元は倒すつもりではなく、誓約を交わすつもりで神託の村の出だからと同行を願われた。だが上手くいかなかった。依代になるにはちょうどよかったと辿々しく説明された。
「なんでそんな危ねぇこと、すんだよ…!神託の村なんて、ただの…」
伝承ではないか。何故チェントを巻き込んだ。
「『散々に頼み込まレテ、…君ヲ見てイる気ニナったラ、逆らエナい』」
大した話ではないのだとばかりに微笑む。村でよく見た姿と変わらなかった。姿ばかり変わって、小さな事は変わらない。だがその小さな不変こそがチェントをチェントにする。
「『旧神国ト、旧王国の者ガ、…一緒ニなるノが気に入ラないソうだ…』」
関係ない。何がその二者を別ける。へリッシュは歯を軋ませた。震える。
「なんだよ、…それ…!」
「『生マれは選べなイ…でモ生き方ハ選べル…俺は、生まレに感謝…しテイるシ、お前ト歩ム生き方モ選べタ。あリガとう』」
何故離別するようなことを言うのか。たとえ一度は離れてもまたこうして寄り添っている。言葉を交わしている。体温など失っているくせ、温もりを感じている。
「ありがとうはどっちだよ、バカ」
「『君が…俺ノコと、とてモ好キなの、分かッテタ。でモ…ドウしてモ、君ヲ傷付ケても、…平和ニ、過ごシてホシかっタ、』」
「オレはチェントが思ってるような綺麗な人間じゃない…!オレは、…チェントのいない平和な日々なら!オレはチェントと…」
殴られても怒られても嫌われてもいい。自身の存在を蔑ろにして話を進めることを肯定できない。
「『そウダ、な』」
同意されると戸惑った。言ったことに嘘偽りはない。だが後悔を見出してしまうと、チェント自身の決断だというのに叫び散らしたくなるほどの衝動に駆られる。
「『こんナ、満たサレた日々ハ、…お前なシでは、訪れなイ…』」
「…チェント、それでもオレは…」
「『姉さント、義兄サんハ、元気…カ…?村のミんなは…』」
身を斬り裂かれたと思った。チェントは慈しみを込めた優しい声で問う。知らないのか。嘘だろ。一瞬で頭の中が疑念でひしめく。何者かへ現実へ向けた疑念で。息が出来なくなりそうだ。はひっ、はひっ、と呼吸が乱れた。
「『ヘリー…?』」
「ごめっ…引っ越しちまったか、ら…村…恋しくなっち…まってさ…ッ」
上手く言えているのか。呼吸が乱れる。息が抜けていく。痛みもなく肺に穴が空いてしまったような。
「『…そうカ…、ごメン、な…』」
言えるはずがない。目にした惨状を。口にすれば楽だろうか。同じ故郷で、家族を失った。共有することも出来なかった悪夢で済めばまだ生易しい現実。過去のことだ。すでに。
「チェント…」
去ろうとする腕に縋る。ここにいたい。隔絶されたこの場所に。固い鱗に頬を擦り寄せた。村のことは秘する。チェントが事実を知るよりずっと背負うのは容易い。
「『じいサんにナッた時、少シ思い出シ…テクれる存在デヨ、…かっタのニ、…も…離せなクても、イい…?』」
「当たり前のこと、訊くな」
口付ける。何度も触れるだけの口付けを繰り返し、首筋を晒す。噛まれながら村の記憶の中に浸り、意識の境を往復する。現実に置いていけない安らぎがある。血の味がする口付けをまた何度も繰り返し、チェントの胸の中に収まって、鼓動の穏やかさにつられて眠る。
足音が響いて目が覚めた。明かりが近付いて、柵の奥で止まった。迎えに来た。共に行こう。寝呆けた頭がチェントの腕を探す。眠っている。起こしたくない。段々と頭が冴えはじめる。柵の奥にいる人陰に落胆する。2人でこの世を捨てられるものだと思っていた。
「なんだよ」
リズンテールが据わった目を向ける。漂う酒臭さに眉を顰めた。
「来なさい」
「嫌だ」
明かりがアイスグレーの瞳の中で揺れながら、へリッシュの奥を見てまたへリッシュへ戻ってくる。言葉はないが、脅迫に思えた。リズンテールが脅迫する?何故。何故チェントを人質のようにするのか。
「来なさい」
声がわずかに張り、大声を出されるのを厭い、チェントを振り返ってから牢から出る。今は眠らせたい。真っ直ぐ歩けず、冷たく湿っぽい石壁を伝いながら歩く。リズンテールに手を差し出しされ、払う。掴まれ、振り解く。
「酒臭ぇんだよ…!」
リズンテールは黙ったまま螺旋階段を上がり、先を歩いては立ち止まりへリッシュを待つ。その間、リズンテールはへリッシュを眺めるだけ眺めて一言も発しない。酒臭さに向かって螺旋を上る。窓から入る地上の明るさに網膜が焼かれるようだった。複数人の使用人に出迎えられたかと思えば、床に張り倒され、のしかかられる。
「な、にすんだ!」
大声を出すと視界が点滅する。血が足らない。リズンテールは一瞥するだけだった。両腕を後ろ手に縛られる。立ち上がらされ、邸内の奥へと連れて行かれる。タイル張りの部屋に放られ、受け止めるようにリズンテールに抱き締められた。酒の匂いが鼻腔を刺し、咳き込んだ。浮遊感に力が抜ける。リズンテールの肩を噛む。だが抱擁は強まった。後頭部を柔らかく撫でられる。背に回った固い掌。酒臭さに鼻がむず痒い。
「あんたの好い人に、そんな似てんのかよ」
態度が一変して、へリッシュは離される。仄暗い顔をしていた。リズンテールはへリッシュから目を逸らし、衣類を脱ぎはじめた。露わになる。手袋の下の肌は知っていたが、右肩から変質していた。外樹皮に覆われ筋を作っている。上半身だけ裸になり、放られた扉とは違う引き戸へへリッシュを引っ張り込んだ。湯気に包まれる。広い湯殿とタイルの床。
「なん、だよ!」
乱雑に衣類を脱がされ、脱ぎ切れない状態で湯をかけられる。抵抗を忘れる。へリッシュの肌蹴た胸へ顔を埋めた。衣類が肌に貼り付き、髪からは水滴が落ちる。酒臭さにまた顔を顰めた。恋人を失った話を聞かされた。どうすればいいのか。どうしろというのか。肌を辿る唇が怖かった。
「痕、つけ…るな…」
チェントに渡した身体なのだ。見られたら困る。捨てられても捨てない。もう離さないのだ。声が震えた。リズンテールは顔を上げた。驚嘆に瞠目し、ひび割れた唇をはくはくと震わせる。柔らかい掌がへリッシュの頬を摩る。リズンテールのことはやはり気に入らなかった。チェントを巻き込んで守ってくれなかったことも、村を滅ぼす要因であることも。優しい手付きが恐ろしかった。チェントは惹かれていった、もう1人のへリッシュの影に。ならば恋人が惹かれた男を。
「1度だけ、許してやる…!1度だけだ…!オレに似た恋人さんを弔ってやる…」
瞼を啄まれ、唇を塞がれる。機嫌を窺うようなキスは段々と濃密になっていった。穏やかだが激しい希求に酔ってしまう。
「…ぅ、ん…っ」
「ぁ…ッ、ふ…」
離れた口唇から唾液が溢れて、だがまるで頓着せずアイスグレーの双眸に切なく覗き込まれた。左手がへリッシュの肌を辿り、下腹部へ向かう。タイルについた樹の皮と化した左手が、長い爪に気を遣うへリッシュの恋い焦がれる者と重なった。
「外せ。舐めてやる」
リズンテールはあどけなさを見せる。
「これ外すか、立て」
後ろ手に縛られていては出来ない。互いに触れ合い、撫で撫でられ、気持ちを伝え合うセックスしかしたことがない。スキンシップや奉仕でさえ拘束などしたことがない。他の恋人たちの営みには興味はあれど、比較するでもなく2人のペースで歩んでいった。アイスグレーの瞳と視線がぶつかったまま。幼い顔が我に返って、抱き込まれながら枷を外される。当たった右肩の固い感触と皮膚の狭間を舐めた。拘束を解かれる。リズンテールは無言だった。顔を伏せたまま。逃げていい。無言がそう告げている。濡れてまとわりつく髪を掻き上げてからリズンテールの両肩を掴んで舐めやすい体勢へ変えさせる。
「、へリッシュ…」
「あんたのためじゃない。オレの面影のためだ。勘違いするなよ」
憎い。その男でなければ、離せない人を放さなくて済んだはずだ。どうだろうか。くだらない仮定。だが傍にいたかった人が自分と重ねてしまったから。
リズンテールの燻りを焦らすようにいじって芯をさらに持たせてから口腔に迎える。引けた腰を支えた。根元から舐め上げて、吸い付く。唇で歯を覆い、根元を扱く。冷ややかながら可憐な顔立ちからは想像していたものよりは質量がある。際限なく求めてしまう人以外のものは嫌だったが、形が綺麗なのもあり大した拒否感はない。とはいえ多少の罪悪感はある。先端部をよく濡らしてから喉の奥まで咥えた。ぐぷぷ、と音が漏れる。唇を窄めて根元からスライドさせる。
「…ッあ、…ぁ、」
裏から舌先で舐め上げるとリズンテールは腰を揺らした。右手がへリッシュの肌を撫でようとしてから思い留まった。硬くざらざらとした手を取り顔に当てさせる。枯れた木に顔を沿わせているような感触だった。舌を這わせていた茎が膨らむ。ふらふらとする頭を揺すった。喉奥が擦れる。
「あ…っ、ぅ…」
頭上から聞こえる吐息と快感に耽る声と、唾液が絡む音。血が足らないが、されるよりはまだ意識を保てる。
「…っは、ッぅ、」
知った味が滲む。そろそろか。裏筋を舐め上げ、窪みに舌先を挿し入れる。先端部の刺激に集中し、幹を扱く。
「っぁ、ぁ…口、放…し、」
何度も身体を重ねた人も、口内で果てることを嫌がった。飲むと照れて目を見てくれなくなる。
へリッシュは口を放さなかった。追いうちをかけ、頭を抱かれた。喉奥に入り込む。爆ぜて纏わりつく。絡みながら飲み下す。1度だけだ。何度か嚥下する。きちんと飲めた気がせず眉間に皺を寄せているとまた抱き締められる。絞め殺す気なのかと思うほど力強い。仇みたいな男だ。情は傾かない。何よりあの人ではない。
「もうどこにも、行かないで…」
「あんたが自己犠牲的な献身を良しとしても、オレはそうは思わない…死んだやつの意思、なんでもかんでも肯定しておきゃ楽なら好きにしろよオレは、…楽じゃないきっと」
歯軋りが聞こえた。
「死んでほしくなかったさ…平和なんて嘘っぱちだ…!幻想だ、偽りだ、血と涙の上にしか成り立たないじゃないか…!」
リズンテールの手が震える。そうだよ、そうだったんだよ、早く気付けよ。へリッシュは項垂れる。
「何が勇者様だ、大事なものひとつ守れないで…何が救世主だ…何が…」
リズンテールの爪が刺さる。何も痛くはない。人の爪だ。
「目の前の小さな命に構うなと。その先にある大きな犠牲を見据えよ…と、」
ラ・デクス・テ王の記した典籍にあったことはへリッシュも知っている。博識な少年から聞いた。今では掛け替えのない存在から。
「焚書しろ。そんなくだらないもの…!禁書だ、古い人間の教えに毒されやがって…!」
くだらない悪書に振り回されている。滅んだ国の死んだ王の馬鹿な一言で。何故今在る国の生きた人間が苦しまねばならない。何故歴史に殺されるのか。罪だ。形のない殺戮だ。
「君の怒りだけに…救われる。僕は…君の怒りだけに…」
金剛石に似た瞳が光った。首都から離れた漁村の生まれでは本物を見たことはない。だがそう思った。唇が唇に触れて、呆気なく離れる。
「手前の怒りくらい手前で怒れよ…!」
「怒りという感情は……疲れる」
「さすが聖人君子。ご立派なことだな」
「…そうは、いられなかった」
リズンテールは濡れたまま去っていく。
身を清め、あれこれと身の回りの世話をされ一室与えられ、食事も用意された。リズンテールは姿を見せない。ばつが悪くなったのだと思った。チェントの元にいる以外ここに意味はない。また長い螺旋階段を下っていく。チェントは眠っていた。やはり弱っているように思う。長い布の下から伸びる翼の先を見つめる。羽根が地下に落ちている。柵の前に座り込む。目が覚めても、血を分けることしか出来ない。血でなくていい。肉をくれてしまってもいい。チェントがいなければこの身に向かう場所などない。
「『ヘリー、い、ルのカ…?』」
衣擦れの音がして、陰が動く。
「悪い。起こしたか?」
「『いヤ…、傍に来てクレ…』」
牢に入り、チェントの脇に座る。
「寒いか?」
「『…ヘリー……』」
肩に頭を預けられる。体温のない身体を支えた。柔らかな翼が当たる。
「外に出ないか、いつか」
「『い、イノか…?俺ハ、こんナ…化物デ…』」
「チェントはたまにバカだから困るな」
肩を抱く。硬い手触りを楽しむ。
「『ごメ、ヘリー、っ…ごめン…』」
チェントの身体が震えて、波打った声に出してぎょっとした。空色の瞳が歪んで涙が流れた。
「な、に…どこか、痛いの、か…」
どうしたらいい。慌てた。ぱさぱさとチェントの髪が揺れる。
「『俺だケ、幸せデゴ、メん……色々背負ワセ、て、スま…ナい』」
知られるのが怖い。村のことも、リズンテールとのことも、その他のこと、全て、諸々。昔の自身だけを綺麗に抱いていてほしい。淡い幻想をずっと。
「何言ってんだよ。ホントに馬鹿だな…そうだ、今度本持ってくるわ。何がいい?よく読んでたろ、草花図鑑。あれにす…」
一気に捲し立てる。隠したいことが沢山ある。愛していれば全て曝け出せると村の嫗は言った。嘘だった。でなければ愛ではないのか。喋るたびに情けなくなる。視界が歪む。歪むほど目に映るものなど、この地下牢にはない。
「何も背負ってねぇよ…お前こそ、オレに背負わせてくれ、よ…。オレの方こそ、幸せで、幸せ自慢しちまうよ、お前といれて、オレは…」
逃げ切れず、チェントの詫びに向き合うしかない。
「『お前…ト、出会わナカッたらト、タまニ思ッテ、怖ク…なル…』」
顔が真っ赤になって、へリッシュはチェントに抱き付いた。初めてひとつになった日と同じ言葉だった。出会わなければ恋い焦がれ苦しまず済んだ。捨てられずに済んだ。だが出会ってしまった。喜びを知ってしまった。失う恐れを知ってしまった。
「『でモ、…俺ガいなくナッテも、…大切ニしテクれ…俺ガ大事ニ思った自分ノこト…』」
空色の瞳が少しずつ暗くなっていく。
「『依存ハ、やめテくレ…、また別ノ、好きナ人ヲ…』」
「…分かった」
分からない。
「でも今はチェントのことしか考えられないから」
赤く光る瞳が蔑み、暗い空色の瞳に見守られキスを交わす。血が足らない。だが身体を重ねたかった。身体を撫で、感じやすかった2点の突起を失った胸を撫でる。すでにチェントを求めて熱を持つ茎と、変質しているチェントのものとを擦り合わせる。硬い。鱗状皮膚が少し痛いくらいだった。だが構わない。まるで中で繋がっているように動いてはチェントのものと扱いた。
「チェント…」
「『ぁ…ッ、や…ァ、ヘリー、あッ、』」
外観的に感度は悪そうだがそうでもないのだろうか。嬌声を上げるチェントの鱗に覆われた陰茎を扱き続ける。
「溜まってた?」
チェントは首を振る。ミルクティーのようなブラウンの髪がぱさぱさ鳴るのが好きだった。
「『っん、へリー…っに、サれたっ、らッ…っぁ、あっ、だ…メ…っぇ、』」
下腹部が軋む。息を乱すチェントを眺めて、2本を扱く。好きだ。どうしていいのか分からない。どうしたいのか分からない。2人で気持ちよくなりたかった。血が足らない。視界が点滅する。
「っ…、気持ち、い、い…っ?」
「『ぁァ…っ、すゴク、……キもちい…っあ、ぁンっ、…ひ、ぁ…』」
「ッ、…イって、いい…んだよ?」
意図せず甘ったるい声が出た。
「『ゃ…っダ…っ、一緒ガ、…っ、イぃ…っぅン』」
「すげ…ッかわいい…っ」
チェントに唇を塞がれ、くらくらと酩酊する。好きだ。肌寒い地下牢にいるというのに熱くて仕方ない。だが不快ではない。チェントの舌に思考ごと絡め取られる。何も考えたくない。今後のことなんて。老後にたまに思い出してくれる存在でいいとチェントは言った。ずっと引き摺る。きっと。老後なんてずっと先だ。きっと神様には瞬き1回分に過ぎなくても。
「『ぅん…、ふ、ゥうンっ……、』」
「…っぁ、く、…っ」
擦り上げ、擦り付け、限界が近くなる。離れる唇を惜しんで下唇を吸った。だがチェントは離れていく。代わりに強く抱き締められた。身体が強張る。
「は、ぁ…っ!」
「『ぅ…ンンっぁ、』」
鱗状の皮膚へ白濁が落ちる。チェントの精液は黒く変色していた。震えながらとろとろと落ちていく。何度見てもその慎ましやかな動きが可愛らしく、先端をいじるとか細く鳴いて腰を引攣らせる。
「チェント」
「『ヘリー、……好、キ…好きダ…』」
「オレも、…好き。大好き…」
視界がやはり黒く染みを作る。血が足らない。満ち足りた幸福感と、得体の知れない悲しみに包まれる。
眠ったチェントを1人にし、螺旋階段を上っていく。外が騒がしかった。火災だろうか。鐘が煩く鳴り響く。与えられた部屋に篭る頃には音は遠ざかり、聞こえなくなった。外は騒がしいようだが邸内は不気味なほど静かだった。眠りに落ちるまでベッドの上で天井を見上げる。あと何度ここで朝を迎え、夜を迎えるのか。ばつが悪くなったのかリズンテールは様子を見に来ない。恋人に似ていようが恋人ではない男と性的に接触したのだ。結局そのままリズンテールは来なかった。来なくていい。言うことはどうせ恨み言しかない。責めて謗るだけだろう。夜が明けて、朝。扉を叩く音で目が覚める。随分と早い時間に来るものだと思った。規則正しい生活を送っているのだろうか。あくまでへリッシュの印象だ。扉を開く。銀髪とアイスグレーの双眸はそこにはなかった。眼球を濡らした使用人が真っ青な顔をして立っている。1通の手紙を渡される。封はされていない。リズンテールは死去した。告げられた内容に、へリッシュは手にした手紙を見た。封筒の口から折り畳まれた紙が見える。テルア旧王城の中にある古代図書館に火を放ち、旧王城ごと炎に撒かれていったらしい。発見された亡骸には胸を一突きした痕があるらしく、事件性はない。ならば自死ということになる。それがリズンテールの答えなのか。またひとつ、チェントに隠し事が増えていく。いつか明らかになるだろう。その日が来るときおそらく秘していたことを憤るだろう。だが同時にその日が来ることを望んでもいる。
おそらく遺書と思われる手紙をすぐに読む気にはならなかった。急を要する内容だろうか。すぐに読まれるなどと期待を抱かれていたならば見当違いだ。机に置きっ放しにして、それからベッドで横になる。視界は緑色を帯びていた。とにかく血が足りない。チェントにそのような素振りは見せられない。何度か視界から手紙を外すが、気付くと見てしまう。リズンテールは死んだのか。死んだのだ。気を回してくれていた。敬意も抱いていた。立場に翻弄されて言いたいことは結局きちんと言えなかっただろう。耳元で零された本音を聞いた。恋人が似ていた。怒りはまだある。だがそれよりも、その前のことが不思議と頭には浮かんだ。
冷静な頭が手紙を開く。内容は簡潔にまとめられていた。リズンテールらしい几帳面な達筆。よくある簡単な挨拶。へリッシュを呼ぶ覚悟がつかなかったことへの詫び。前任の者たちを投げ出したと言ったが口封じのために殺害していたこと。恋人に重ね合わせて惹かれていくことの謝罪。立場を重んじたばかりに代弁者に仕立てあげていたことの吐露。気が済むまで邸内に留まることへの口添えをしてあること。読み終わって、くだらなさに脱力する。焚書しろと言ったのは誰だったか。毒された人間ごと焼くのが答えか。同時に己が身のこれからをわずかながらに見たような気がした。
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