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第4話
遺言に従って葬式はなかった。旧王城の火災はひた隠しにされた。訃報を告げに来た使用人に内密にするようにと念を押された。世間は勇者様御一行を褒めそやす。関係のないことだ。世間のことなど。地下牢に向かう途中でエントランスにリズンテールとその恋人を除く御一行が来ていた。カッと燃え上がる。突沸した怒りに4、5人の中に割って入る。何をしに来たのか。リズンテールへの惜別の挨拶だろう。仲間だった。ならば彼の本心を知っているのか。立場的に隠すだろう。薄ら寒くなる。あの男の為とはまた違う、そうなのだと言い聞かせた憤怒に殴りかかった。顔も背格好も男から女かもまるで頭に入らず、手当たり次第に暴れた。女もいた気がする。叫んで喚いて怒鳴り散らした。秘さねばならない故人の本音だけは飲み込んで。この連中は手前が作ったつもりの泰平の中でのうのうと生きていくつもりだ。チェントを切り捨て、リズンテールの本音も聞けなかったまま。猛獣と化して荒れ狂う。涙、鼻水、唾を撒き散らし、頭部の傷が開いて血が滴る。慟哭。殴り倒され立ち上がる。投げられ、エントランスの大理石に叩き付けられる。勇者様御一行を急襲した気の違った人間と思われたところで痛くも痒くもない。世界の皆々が肯定し賛同して受け入れても、へリッシュは嫌だった。
「ぁあぁあぁっ!ぁぐぐ、…っ!」
天井画に描かれたものの意味を知って、へリッシュは叫ぶ。立たねばならない。だが立てなかった。立たねばならない。転がって、起き上がる。目に付く輩にまた飛び掛かる。拳の感触から女だと思った。屈強な男にまた投げられる。脇腹に衝撃が走る。背後から刺さっている。瞳が開く。無意識に天井画を見上げた。ガーネットが嵌め込まれた瞳。脚が濡れていく。終わる。終われない。生きねばならない。背に手を回し、刺さっている物を引き抜いた。浮遊感と熱。大理石を転がる金属。生きねばならない。恐ろしくなった。熱と冷えが共存した身体で逃げる。追ってくる様子はなかった。鼓動が速まる。長い廊下を傾いた身体で駆けた。螺旋階段を転落するようにくだる。視界が揺らぐ。脇腹が疼く。牢に急いで、ぐったりしているチェントの傍に寄る。気が抜けて石壁に背を預けて、ずるずると腰を下ろした。
「『ヘリー…?…怪我しテ、…ルのカ…?』」
赤く光る瞳と暗い空色。鼻がひくひくと動いた。チェントのひとみはへリッシュを捉えているというのに。まさか。
「チェント…っ、お前…」
リズンテールはもういない。自分がいなくなったら、チェントはどうなる。ただでさえ危うい状態だ。その中でさらに視力まで失っているのか。
「…して、ない。チェント、ほら、腹減ってるだろ…?」
唇が震える。寒い。チェントの無い体温が温かい。抱き締めて、口元に首筋を当てさせる。
「『ヘリー、も…大丈…夫ダ…つラい、だ、ロ…?』」
「つらくない!頼む、飲んでくれ、頼む…」
視界がぼやけ、滲む。寒い。だが腹は熱い。足音が近付く。リズンテール。違う。彼は死んだ。ひとつ、ふたつ、みっつ。いくつだ。とにかく沢山。化物に操られて。平民が暴れている。憑き物か。やはり早めに。リズンテール様はもういらっしゃらない。鼓動が速くなる。やめてくれ。
「チェント、オレのことはさ、」
「『ヘリー、…?やハりどコか怪我しテ…』」
「出来たら…たまに、思い出して」
くれたらそれで。身体を持ち上げられるのは最後だと思った。唇に唇を押し当て、そこでやっと力尽きた。暗い空色が遠ざかる。崩れ、石畳へ落ちていく。村の夕暮れに似ている。夢想に生きられたら。村を歩く。手を引いて。村でよく穫れる果物を片手に。剥いてやるから、と奪われて。村人の歌を聴き、子供たちが夢中で見ている紙芝居を少し眺め。井戸から水を汲み、洗濯物を取り込んで、夕飯を作る後ろ姿に擦り寄って、摘み食いを許してくれる。弟に揶揄われ、祖母が本気か否かも分からない茶化しを入れる。子を成すことは出来ない。だが生殖以外に価値を置く種族だってあるはずだと説いたのも祖母だった。未来の子孫のことなど考えられない。ただ好きな人と今を生きられたらそれが持たされた生の在り方だった。悪くいと思った。
「『へリー…っ…?、ヘリーっ…、何、ダ…?ドうシ…』」
柵の外から射られた矢に貫かれていく。人の肌を残した愛しい人。たとえ人でなくとも、好いた人だと認識してしまうと厄介な慕情が諦めを赦さない。ぼやけた視界の中で寒さに震えた。硬い皮膚に包まれて、温かかった。村の者は炎に抱かれて、塩水に飲まれて死んでいったというのに。すまなさと幸福感だけがはっきりしていた。鼓動が遅くなっていく。かじかんだ手で長い爪を握る。揺れていたガーネットの指輪がへリッシュの顔に落ちた。贈った指輪。まだ持っていた。愛されている。遺してしまう。死に際、思いやれる相手のことを探すために生きていた?依存か。だが優しいからきっと彼は悲しむ。落ち込む。抱き締める腕もなく。ぼやけて顔が見えない。
「か、み…さ…憎…で、…」
指の皮膚が裂ける痛み。あまりに小さい痛みだった。切り傷で泣いた小さい頃。小さな赤い雫を舐め取られて、意識した。
「」
呼吸が止まり、心臓が機能を停止する。滑り落ちて安い金属が転がっていった。
祖母に頭を叩かれる。
「ほら、ボサっとしとらんでさっさと手伝いな!」
へリッシュはリビングで寝こけていた。弟が皿を並べている。
「そんなんじゃ先が思いやられるね」
小憎らしい。
「何かあるんだっけか?」
流行病をこじらせて亡くなった母の命日ではないはずだ。漁から帰ってこない父の日のでもない。祖母は呆れた顔をして、弟もけらけらと笑った。
「やっぱ兄ちゃんには勿体ないわ」
「いやいや、頭下げてでもバカ孫の世話をお頼み申したいよ」
キッチンには大きな魚の丸焼き、トマトと鶏肉のソテー、パンプキンパイ、ガーリックラスク、野菜とレバーのテリーヌ、海鮮と野菜のパスタが並べられている。鍋にもスープが入っているようだった。
「ほら!早く手伝って。チェント兄ちゃん来ちゃうよ!」
弟に急かされ、立ち上がる。恋人が改めて挨拶にくる日だ。昨日少し緊張していた。姉が結婚してから夕飯を作ってくれる。祖母も弟も公認で、今更何を緊張しているのだろう。あとは同棲するだけだ。その挨拶だ。思い出す。へリッシュは思い出して皿を並べ、料理を移動させるのを手伝った。
「ばあちゃん」
「お前なんてさっさと出ていき!」
「またそんなこと言って。照れてるだけだから。なんだかんだ心配してるんだよ」
祖母は鍋をかき回す。弟は苦笑している。弟も文字の読み書きを恋人から教わっていた。識字率が上がったとそういえば話していた。老人会と呼ばれて時折祖母が村の老人を家に連れてくる。会場は転々としていた。
「チェントぼうやに押し付けるんじゃ何も心配はない」
来たよ。弟が窓を見た。ヘリッシュには何も見えなかった。扉が叩かれて、迎え入れる。現れた人物は恋人ではないように思えた。深々と長い布を被っている。
「いらっしゃい!チェント兄ちゃん!」
「よく来たのぅ」
弟と祖母は朗らかに案内する。だがヘリッシュには恋人には思うなかった。黒い布の下に恋人の姿があるのだろうか。そうは思えない。恋人と弟と祖母で何か企んでいるのか。祖母はスープを盛り付ける。葉物の薄切りのきのことベーコンにたまごを絡ませたスープだった。対面に恋人が座り、威圧感を与えない配置で両隣に祖母と弟が座った。だがヘリッシュの目の前に腰を下ろしているのは恋人ではない。礼儀正しい恋人ならば、入室時にローブを剥ぐはずだ。だが祖母も弟も何も言わない。料理を切り分けて、恋人に渡している。
『「其方の願い、叶えて進ぜよう』」
祖母と弟が消える。祖母は。弟は。恋人は恋人の声を重ねて喋った。ローブの下の素顔は真っ黒に塗り潰されている。
『「愚者ならば愚者の夢を叶えてみせよ、人の子よ」』
赤黒い鱗に覆われた腕が伸ばされる。長い爪に怯えた。触れた瞬間、赤黒い鱗の腕は燃えていく。灰になる。爪が開いた。もがくように開いて、焼けた灰になって砂のように落ちていく。ローブに燃え広がる。ヘリッシュは声を出せなかった。突然のことに頭がついていけずにいる。
『「貴様は、…」』
姿を失い、恋人は恋人の声を混じらせて何か言いかけて沈黙した。
石畳に落ちた指輪を拾う。矢の突き刺さった青年。下に埋もれたのは青年の恋人だろう。矢から庇ったらしい。青年の恋人の体に流れる血は、天敵に蝕まれたこの青年にとっては毒だった。助けるつもりが、追い詰めてしまった。早く気付くべきだった。だがその由はなかった。彼は気付いていたのだろうか。
『すまない』
夢で会いたかった。きめ細やかな指に歪んだ指輪を嵌め直す。指輪の穴は大き過ぎた。長い布で覆い、白い裸体を抱き上げる。何の物音もしない地下牢を出、螺旋階段を上がる。少し伸びた淡いブラウンの毛が揺れる。誰もいない静かな世界。エントランスの扉を通り抜ける前に天井を見上げた。何も言うことはない。真っ赤な空のずっと遠くに降り注ぐ炎に包まれた岩。大きさは様々だった。崩れた家々。燃え上がる都。伸ばされた手。床に流れる血。構わず歩いた。真横に燃えた岩が落下し、地面が揺れた。風圧に真っ白い羽が舞う。真っ白い青年の裸体を空が、岩が、全てを焼き尽くす炎が赤く照らし、祝福の拍手を送っている。
『帰ろう』
祖母が、弟が待っている。きっと今日の夕飯は美味しくないのだろう。義姉さんとふざけて呼んだ女性が心配する。子供が生まれても弟に甘いから。斜向かいのおじいさんが、魚を捌いてくれるから肩を揉まなければ。八百屋のおばさんに屋根の修理を頼まれていたのだった。全部済ませたら海を見に行こう。人魚はいないと言ったけれど、海は広いし、きっとどこかにいると思うんだ。流星が見たいって言ってただろう。まだ望遠鏡は贈れないな。だって夜空に夢中になってしまうだろう。分かっているよ。覚えている。真っ赤に燻り、黒く染まる世界を旅した。あまり体力がない彼を眠らせて、真っ白い翼で高く飛ぶ。信じられない、そんなはずはない。口ではそう言うけれど、きっとできる、きっとあると押してしまうと、そうかも知れないって傾くだろう。
夜も朝も分からなくなった真っ赤な世界で、夜がくる思い出の場所。
『ばあちゃん』
羽根を抜く。
『弟』
羽根を抜く。羽毛が散った。
『義姉さん…』
白い羽根が舞う。
『村長…』
名も思い出せないが、それでもこの目に映り、言葉を交わし、同じ日々の違う生活を送った者たち。
故郷に帰れ。安らかに眠れ。彼を拒絶しない世界で。誰かの儚い夢の中でも。二度と戻らず、久遠に溶けるくらいなら。
きらきらと輝く空と血に染まった地平線を眺めて見飽きると、空色を求めて抱き寄せた。
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