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第2話

 それは三月(みつき)ほど前のことだった。  借金の形にと売り飛ばされてきた一人の青年、偶然に店で彼を見掛けた瞬間に心臓を射貫かれるような衝撃に襲われた。これまでの人生で、こんなことは初めてだった。  いわゆる一目惚れというやつである。  今まで数々の女性たちから引き手数多だった遼二であるが、誰に対しても左程興味を引かれることなく過ごしてきた。無論、遊びや欲求処理と称して、それなりに女性経験はあったものの、一夜限りのことも多く、寝た相手の顔も覚えていないという始末であった。そんな遼二が本気で心を揺さぶられたのが、こともあろうに同じ男性だというのも何とも皮肉な話だが、とにかく遼二は一目でこの男に惹かれてしまったのだった。  男の名は紫月(しづき)といい、今までは何処ぞの組の下っ端として、主に炊事やら掃除やらといった雑用係として働きながら生計を立てていたらしい。彼に親兄弟は無く、天涯孤独の身であるとのことだった。  紫月は、出生からして不義の子として生まれ、周囲からは疎まれて育った挙げ句、物心もつかぬ内に施設へと預けられたようだ。修業を機に独り立ちし、繁華街の飲食店で働き始めたそうだが、そこへ通ってきていた地元のヤクザに気に入られて、以来、組の下働きとして雇われたのだそうだ。  ところが、その組が傾き掛けて、多大な借金を背負うことになってしまった。その形にと、遼二ら一家が経営する”遊郭”へと連れてこられたというわけだ。  後から聞いた話だが、元々そのヤクザが紫月を雇った理由というのが、いざという時の為に高く売れそうな容姿を勿体なく思ったからだという。万が一、金の工面で困るような事態に陥ることがあったならば、彼を売り飛ばせばいい――と、そんな用途で目を付けたのだという。  全くもって胸糞の悪い話だと、今思い返しても腹立たしいことこの上ない。だが、遼二にとってはそうした縁でこの紫月と巡り会えたわけだから、そこのところは運が良かったのだと思うことにしていた。  とにかく、紫月というこの男を店子にすると思うと、何故だか無性に心が掻き乱されて堪らなくなった。気が気でない思いを断ち切るように、遼二はその場で相応の金を積むと、即刻彼を買い取ってしまったのだ。昔風に言うなれば『身請け』である。  店主が個人的に店子を買い取るなどと前代未聞のような話だが、周囲にどう思われようが遼二は構わなかった。とにかくこの男を手放したくはない、脳裏にあるのはそれ一点のみだった。  そうして紫月を手中にした遼二は、彼を自身の邸に住まわせ、寝食を共にすることになったというわけだった。  そんなふうにして紫月と暮らし始めてから三ヶ月が経とうとしている。  惚れて手元に置いたわけだし、紫月にしてみても店子として身体を売ることに比べたら、天と地ほどの差である。遼二に対しては並々ならぬ恩を感じているだろうし、当然夜伽の相手をする覚悟もできていたというところではあった。  だが、遼二は未だにこの紫月に対して手を出してはいなかった。ただただ傍に置き、仕事をさせるでもなく、共に住んでいるといった現状である。そんな境遇を紫月が不可思議に思っていたのは言うまでもなかっただろうか――。 ◇    ◇    ◇  スーツの上着を脱げば、すぐに紫月がそれを受け取り、広大なこのリビングの隅に設えられているスタンド式のアンティークな木製ハンガーに仮掛けする。 「何か飲む? 酒飲んで来たんだろ? だったら……水がいい?」  当たり前のようにそう訊いて、同じく部屋に設置されたバーカウンターに飲み物を用意しに行った。これではまるで妻のようであるが、紫月は男だ。そんな様を目で追いながら、遼二はふぅと軽い溜め息を漏らした。部屋の中をウロウロと手持ち無沙汰に動き回る彼の行動を制するように、「とにかくここへ来て座れ」そう言って自身の元へと呼び寄せる。 「先に休んでいれば良かったものを――」  紫月が持ってきたミネラルウォーターのグラスに口を付けながら、隣に座らせた彼の肩を抱き寄せる。すると、紫月は少し困ったように笑ってみせた。 「んだってさ、俺は特にやることもねえし……。アンタの帰りを待ってることくらいしかできねえじゃん?」  部屋の掃除でもしようと思えど、この邸には幾人ものハウスキーパーが雇われている。食事も、朝は遼二と共にできるが、昼間は一人だ。それでも専用のシェフが作った豪華なランチが見事な程の銀食器と共に運ばれてくる。夕飯も――遼二の仕事は夜遅くなることの方が多いので――一人でシェフの料理を堪能するか、週に幾度かは遼二に呼ばれて外食を共にするといったふうだ。残りの時間は好きなことをして過ごせと、観きれない程の数の映画やドラマのディスクに書斎、パソコン、中庭にはゴルフやスカッシュなどもできる施設が備えられている。まさに何不自由のない夢のような生活である。だが、紫月にはそれが有り難い反面、申し訳ないと思う気持ちも強かったようである。

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