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第二章・蝿の王。(6)

 男の声を聞いた瞬間、アマデウスは自分の耳を疑った。  冷ややかな静寂が会堂を包み込む。まるで足の爪先から頭のてっぺんに向かって冷気が通り抜けていくような感覚だ。 「――――」  シンクレアからは抵抗する鳴き声ひとつすら聞こえない。男に痛めつけられて気絶でもしたのだろうか。――いや、違う。彼女は襲い来る恐怖で声は愚か反抗さえもできないのだ。  長身の男は一見すると立ち振る舞いに品があり、とても落ち着いているように見えるが、けれども声には怒りの感情が含まれている。シンクレアが臆するのはもっともだ。だって彼はアマデウスがよく知っている人物で、紛れもない上級悪魔なのだから。  現に男から怒気を含んだ感情から魔力が僅かに漏れている。 (彼は――) 「待て!」  アマデウスが男の正体に気付いたその瞬間、椅子の陰で潜めていた身体を起こした。 「おや、アマデウスじゃないか」  相手もまた、アマデウスをよく知っている。皮膚を包むように覆っていたすべてを凍らせるような怒気があっという間に消える。アマデウスの存在に気が付いた彼は、にっこりと笑みを浮かべた。  長身の男がフードを下ろす。オリーブ色の肌に、高い鼻梁に薄い大きな唇。アーモンドの色をした切れ長な目。均衡がとれた彫りの深い顔立ち。眼鏡をかけているその姿はいかにも知的に見える。スマートな体型と長い足。襟足までの短い金髪は艶やかで、一見すると天界人のようだ。しかし実の所は違う。  やはり自分が知っている人物だ。アマデウスはそう確信した。

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