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第三章・欲望と理性の狭間で。(9)

『アマデウスは辛いもん背負ってるんや』 『そうでなかったら自分のリスクにもなる場所に来る必要がどこにあるねん!』  シンクレアの言葉が脳内に響く。  彼女の推測はあながち間違いではないかもしれない。  ライオネルが息を潜め、思考している間にも彼の唇は弱々しい声で兄への謝罪を繰り返す。  その声はあまりにも弱々しく、あまりにも悲しみを帯びている。  果たして目の前ですすり泣いている彼は本当にライオネルを殺そうとした淫魔と同一人物だろうか。  目尻から流れる新たな涙は頬を伝い、濡らしていく――。  淫魔は今にも消えてしまいそうな程(もろ)く感じた。  その姿はライオネルの心を動かすのに十分だった。 「し~っ、良い子だ」  惑的する香りは今にもライオネルの視床下部を刺激し、欲望を暴走させようとしているのにもかかわらず、ライオネルは何故か冷静だった。  ライオネルは、淫魔がまるで妹のコルベルのようだと思った。  父親が裏切り、ライオネルが化け物に変化したことを知った時もコルベルは自分のことのようにこうやってすすり泣いていたのを思い出す。 「アマデウス、もう大丈夫だ」  ライオネルはすすり泣くアマデウスの背をそっと撫で、宥める。彼をあやすその声は実の妹にかける言葉よりもずっと優しく、そしてあたたかなものだった。

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