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第5話
卯月さんが昔と変わっていなくて助かった。
今も寝起きが悪いようで、目が覚めても脳が起きていないような、要するに寝惚けいてる状態からなかなか抜け出せなくて、服を着た方がいいんじゃないですか、なんて声も耳に入らなかったようだ。
まあ、お陰で作業が手早く済んだ。
少し前に引っ越したばかりの納戸はまだ空っぽ。窓のない四畳半は最初から物置として作られたせいで、電気のスイッチは廊下側にあった。
どうせ真っ暗なんだから、何もいらないだろうとコンビニで買った下着や洗面道具は手元に残し、卯月さんだけを部屋に入れた。
そして、カギをかけた。
監禁かなあ、これ。
そんな事ないよな、ここに住むって言ったんだし。
夜通し遊んでいた卯月さんはこの10年で当然だけれど体力も落ちたようで、事を始めてから時間にして2時間も経過する頃には、すっかり疲れ果てて、眠ってしまった。
よくもまあ無防備に寝られたもんだ。
行きずりの相手でもこうなんだろうな。危機感がまるでない。だから指をなくしたりするんじゃないのかな。痛いのが好きって言ったって、自分の体を欠いてまでってのは行き過ぎてると思うんだけど。
それに比べたら、俺の家なんて安全も安全だろう。
「卯月さん、俺出掛けてくるんで、大人しく待ってて下さいね」
「んー……? うんー……」
扉越し、聞こえる返事は頼りない。まだ夢現ってところか。
それなら結構。あとで騒がれても面倒だし。
そうして家を出たのが午前10時。
現在の時刻が、午後10時。
あちこち寄り道したせいで遅くなったけど仕方ないよな。帰宅時間なんて聞かれなかったし。尤も、知ったところで時計もなければ、そもそも何も見えないだろうけど。
真っ暗な室内に、玄関と廊下の電気をつける。
途端、どたばたと、何やら物音がした。
……へえ。逃げなかったんだ。
手探りでドアの位置くらいは分かるだろうし、カギをかけたと言っても普通の住宅の普通の室内扉だ。死ぬ気で頑張ればぶち破れない事はなかった筈だ。
だけど卯月さんのあの貧相な体付きじゃ無理かな。久々にまともなもの食べたみたいだし、それなのにセックスなんかに体力使っちゃうから。
買ってきたものをその場に置いて、まずは物置部屋に向かう。なるべく足音を立てないで近付いたにも拘らず、隙間から漏れる光の加減で察したのか、扉の前に立ったタイミングでドアを叩く音が響いた。
掠れた啜り泣きと一緒に。
「ぁっ……和成くん、あ、開けてよ」
情けない声。
たった半日でこれ?
「ね、ねえ、そこにいるんでしょ? 開けてよ、ねえ」
みっともないな。そんなに狼狽える事?
あんな生活を送って来たんだ。今までだって怖い目には1度や2度遭ってる筈だろ?
じゃあ今彼の身に起きている事なんて、そう怯える事じゃないと思うんだけどな。
指が短くなったり、乳首がなくなったりする事に比べれば、素っ裸で真っ暗な中に放置されるくらい、どうって事ないだろ?
「開けてよ、ねえ、ねえ! 開けてってば……!」
うるせえな。
耳障りなので渋々扉を開いた。
廊下を照らすライトにすら眩しそうにしている卯月さんに構わず、部屋の電気も点けた。
ああ……やっぱりそうなるよな。
「漏らしたんですか。あんた幾つでしたっけ」
「し、仕方ないだろ、ドア開かないし……!」
卯月さんは少なくとも俺と出会ってから1度もトイレには行っていない。店で会ったのは日付が変わる前だったから、丸1日近く経っている。
それで我慢なんて、まあ無理だよな。
部屋の隅に、小さな水溜りが出来ていた。
ふーん。
卯月さんでもまだ、恥ずかしいと思う事があるんだ。
「じゃあ、まあ仕方ないって事にしてあげてもいいですけど、子供じゃないんだから、自分で片付けて下さいよ」
「わ……分かってるよ。雑巾どこ?」
なに。その言い方。
まだ分かってないの? 自分の立場。
ホント、この人頭弱いな。
「……ちょっと待ってて下さい」
しかしこのまま染みになっても困る。溜息を零しつつ、俺は一旦その場を離れる。
そこで逃げ出そうとしないところだけは認めるけどな。それとも、そんな発想すら湧かないくらい恐怖していたのか、底抜けの馬鹿なのか。
いいんだけど、なんだって。
「はい、どうぞ」
手渡したのは卯月さんのシャツ。
家がないくらいじゃ着替えだって貴重だろうが、知った事じゃない。
「っこれ、」
「ちゃんと拭いて下さいね」
卯月さんも気付いたようで文句を言おうとした様子はあったものの、卯月さんの体ごと強引にドアを閉め、施錠。
がん! と一発、思い切りドアを叩いた音を最後に、静かになった。耳を欹てると微かに衣擦れの音が聞こえ、どうやら俺の言葉に従ったらしい。
ややして、また扉は叩かれる。今度は少し、遠慮がちに聞こえた。
「和成くん、ねえ、拭いたから、さ、だから、ここ開け」
「拭いたら開けるなんて、言ってないじゃないですか」
「はあっ!?」
終わったんなら灯りはもういらないな。
再び電気を消してしまうと、ガチャガチャとドアノブが揺れた。残念、その程度じゃ開かないよ。
「なんでだよ、おい、開けろ和成! ふざけんな!」
「あはは、卯月さんでもそういう乱暴な言葉使うんですね」
「お前、俺を監禁するつもりか!」
「監禁? 何を言ってるんですか、ここに住むんでしょ?」
「住むのと閉じ込められるのは違うだろうが!」
「一緒ですよ、家の中では俺がルール。そう言いましたよね?」
「何がルールだ、お前いい加減にしろよ」
笑えるわ、いい加減にしろだって。
どの口がそれを言うんだ。
「これまでいい加減な事を続けてきたのは、誰ですか?」
「……なんだよ、仕返しでもするつもり?」
「いいえ? 別に? ただ可哀相だなあって思うんですよね」
「可哀相だと思うなら、さっさとここから出せよ」
「違いますよ、可哀相なのは卯月さんの残念な生き方です。ここらでちょっと、補正してみませんか?」
「はあ? 俺の人生が可哀相かどうかなんて、お前が決め付ける事じゃないだろ!?」
「気付いてないだけですって。自分で自分を可哀相なんて言う人間は、往々にして深刻じゃないですから」
「御託はいいから、もうさっさと出せ!」
卯月さん、今どんな顔してんのかなあ。それが見えないのはちょっと惜しい。
だってこんなに声を荒らげて激昂してるところなんて拝んだ事ないし。いつだって余裕があって大人で、マイペースだったから。
それにちょっと安心もした。
怒るくらいの元気はあるんだって。
これならまだ、放っておいても大丈夫そう。
「何を言われても出しませんよ。それじゃあ俺は寝るんで、卯月さんも適当に寝て下さい。おやすみなさい」
「待っ……待てって、和成!」
「ああそうそう、俺の部屋、簡易的なものですけど、防音なんです。ほら、すぐ外が幹線道路で煩いから。だから精々、静かに寝て下さいね」
あ、静かになった。
信じるんだ? 俺の言葉。
防音なのは本当だけどさ。こんなあっさり信じるなら、結構楽かも。
でも信じちゃうんだ、こんな簡単に。
危なっかしいなあ。
その自覚を、俺が持たせてあげれば多少は変わるんじゃないかと思うんだよな。
卯月さんは、もっと怖い思いをしなきゃいけない。
暗闇で放置されて漏らしたくらいが、何?
これで懲りるような人じゃないでしょ?
まだまだ、これからだよ、卯月さん。
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