それから３日ほど、扉は開けなかった。声もかけなかった。 　役立たずな視界に代わって聴覚は敏感なようで、時々廊下を通るとどたばたと這う音や、泣き声や、空腹や排泄を訴える声が聞こえた。 　全部無視した。 　喋れるなら無事って事だし。 　でもさすがに死なせるわけにはいかないからさ。 　４日目の朝、閉じ込めてからだと５日目になって、漸く扉を開ける頃には、もう声を出す気力もないみたいで、仰向けに寝転んだまま虚ろな目で俺を見上げる卯月さんがいた。 　闇雲に体力を削るほど愚かじゃなくて良かったよ。何度か狂ったようにドアを叩いていたみたいだけど、仕事部屋に篭もってしまえばやり過ごすのは容易かったし。 　それにしても臭いが酷い。 　窓もなければ換気口もない物置の空気は最悪だ。 　そんな中で垂れ流さなきゃならない気分は、どんなだろう。 　部屋の隅を見るとすっかり変色したシャツが見えた。そこをトイレにしたらしい。３日も閉じ込められてりゃ小便だけで済む筈もないだろう。っていうか床、大丈夫かな。 　ひとまず卯月さんの生存も確認したところで俺はビニール袋を手に、シャツと、そこに染み付いたものを纏めて包んだ。やはり少し、床の色が変わってしまっている。築浅でもないし、確かペット可な物件だったから、まあなんとかなるだろう。 　……ああ、一応、訊いておこうか。 「卯月さん、このシャツ、いります？」 　卯月さんは力なく、微かに首を横に振った。 　これで心置きなく処分出来る。元は卯月さんの私物だし、念の為許可は貰っておかないとな。 　それにしても酷い臭いだ。あとでもう１度雑巾がけしないとダメだな。 　袋の口を硬く縛って、今度は濡れ雑巾を手に戻った。出来れば本人にやらせたいところだけれど、仰向けに寝転んだまま微動だにしない状況じゃいつになるか分かったものじゃない。今回は俺がやってやる。 　汚れた床を力任せに拭いて、それも袋に入れて、とりあえずの対処が済んでも、卯月さんに動きはなかった。 　そこで俺はやっと、卯月さんの爪が何枚か剥がれている事に気が付いた。 　出入り口を振り返る。確かにドアの縁に、血痕らしきものが付着していた。落ちている筈の爪は……見当たらない。空腹に耐えかねて食べたのかな。 　それよりも、そこも拭かなきゃいけないのか。あーあ、面倒臭い。 　つーか、馬鹿だな。 「抉じ開けようとしたんですか」 　覇気のない目が俺に向く。睨んでるのかどうかは、もう分からない。 「無事な指も腐って落ちたらどうするんです？　こんな不衛生な状態で。ああ、もしかして小指と薬指は、それでなくしたとか？」 　有り得ない話じゃないよなあ。 　卯月さんの反応は薄く、否定も肯定も読み取れなかった。それだけの体力も判断力も、既にないのだろう。 　そうそう、そのくらいの目に遭わなきゃ、覚えられないんだから、この人は。 　さすがにこれだけ痛めつけたら、少しは堪えただろう。 　死なせるつもりも廃人にするつもりも俺にはないから、この辺で助けを出してやる事にした。 「何か必要なものはありますか、卯月さん」 　喋れるかなあ、分かんないけど。 　餓死も衰弱死も嫌なら、喋ってくれなきゃ。 「…………みず……」 「水ですね、すぐ持って来ます」 　辛うじて聞き取れた単語に応えるべく、常温で置いておいたペットボトルを用意した。 　サービスでキャップは外してやった。上半身を起こすのも一苦労の人間には開けられないだろうからな。 　這うようにのろのろと、卯月さんは背中を壁に預ける。ボトルを手渡してやると、僅か500グラムのものを持ち上げるだけとは思えない手付きで口元へ運び、一口、また一口と飲み込んでいった。 　それをただ見ているだけでは暇なので、俺は一方的に話しかける事にした。 「どうですか、少しは懲りましたか。言っておきますけど、これでも大分気は遣ってるんですからね？　在宅だから頻繁に様子も確認出来るし、手足を拘束してるわけでもないし、部屋だって寝て過ごすだけなら充分な広さでしょ？　飯抜きくらい、悪い事をした子供への定番の仕置きじゃないですか。まあ卯月さんは立派な大人ですからね、１食抜いたくらいじゃ堪えないだろうから、もう少し抜かせて貰いましたけど。でも自力で水飲めるくらいの元気があるうちに、ちゃんと助けてあげたじゃないですか。それにここはずっと安全ですよ？　指先と乳首だけで済まない日が来ないとも限りませんよ、卯月さんみたいな生活送ってたら、いつ変なヤツに……何するんですか」 　俺だってこの人に言いたい事くらいあるんだ。俺だって数日間、我慢してたんだ。それでつい、饒舌になっていたら、いつの間にか空になったらしいペットボトルが、投げ付けられた。 　軽い音をたて脚にぶつかり、ころころと転がった。 　……何、その目。 　さっきまで虫の息だったくせに。散々泣き喚いて屈辱受けて、さっきだって死にそうな声で水を要求したくせに、叶ったらこれ？ 　あーやだやだ、年取ると頑固になるって、本当なんだな。 「卯月さん。人にものを貰ったら、ありがとうって、習いませんでした？　ものを投げ付けろって、教わりました？」 　卯月さんは無言で俺を睨む。今度は睨んでいると分かる目つきで、睨む。 　声を発するのはまだ辛いのか、ただ喋りたくないだけなのかは定かではないが、そういう態度を取るなら、俺も相応の態度で返させて貰う。 「水、欲しかったんじゃないですか？　いらなかったですか？　聞き間違えでした？」 　数日放っておかれてべたべたの髪を掴んで、引き摺って、押し倒して、再び仰向けの体勢を強いる。 　抵抗はない。したくても出来ないだろうけれど。 「はあ、そりゃあすみませんでした。じゃあ、返してくれません？」 　言うなり、鳩尾を踏み付けた。 　途端に、卯月さんは面白いように水を吐いた。息苦しさに慌てて身を捩るも、俺の足が妨げになって顔を横向けにするのが精一杯らしい。 　繰り返し、体重をかける。その度に、殆ど透明な液体が口から溢れていた。 「あ゛ぁっ……も、やめっ……っがはっ！　げほっ……っ、ぅぐ、」 　絶食状態だったところへいきなりあれだけの水をがぶがぶ飲めば、少しの刺激ですぐに吐いてしまう。 　吐いている間は当然呼吸が出来ないわけで、涙と鼻水を垂らしながら懇願が聞こえるまではすぐだった。唯一の取り柄だった顔も、これじゃ台無しだ。 「やめませんよ？　だって俺が間違ったんでしょ？　なら、返して貰わないと」 「ちが……っ！　ちがっ……から、も……やめ……っ！」 「そうですか？　じゃあ間違えたのは、卯月さんの態度だったんですね。ごめんなさいは？」 「ご、ごめん、な、さ」 　あらまあがちがち震えちゃって。 　謝るだけなのに、大袈裟な。 　それとも寒いのかな。確かにこの時期、朝晩はちょっと冷えるかもしれないなあ。じゃあ次は。 「卯月さん、風呂入ります？　温まるといいですよ、ちょっと臭うし」 　別に虐待するつもりもないので足を退けて、提案してみた。折角買った洗面道具も、まだ何も使ってないし。 「……入る」 　卯月さんは素直だった。 「その間に飯の準備しようと思うんですけど、食べます？」 「……食べる」 「分かりました。指の手当てもしましょうね、また指が減ったら嫌でしょう？」 「………………やだ」 　あれ、なんか最後の質問だけ、間があった気がするけど。まあいいか。 　卯月さんでも大人しくなるんだな。それに、セックスの話以外も出来るんじゃない。 　これって少しは、俺が夢見た恋人像に近付いたのかな。 　寒くなってきたから風呂を沸かしてやろうとか、腹が減ったから飯の準備しておこうとか、怪我したから手当てしてやろうとか、あんな下半身三昧なやり取りに比べたらずっと健全だと思うんだよな。卯月さんはもっとこういう会話や体験をすべきだ。 　そうすればちゃんと、分かって貰えるんじゃないかな。 「それじゃ、風呂の用意してきますね」 　普通の会話が出来る卯月さんを前に俺の苛立ちは鳴りを潜め、ほんのりと、喜びってやつを感じていた。