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第15話 優しさの痛み
突然感じた浮遊感に亜樹が目を大きく見開いた。
「とりあえず、風呂だ」
どうしてこんな事になっているのか。
抱え上げられ、靴下ごと靴を脱がされる。止まることのない和真の動きに合わせて、肩越しに見える扉がどんどんと遠ざかっていた。
「だめ、俺、行かないと」
扉までの距離の分だけ、心がもう一度この部屋に囚われていくようで、必死に扉へと手を伸ばす。状況についていけない亜樹の心は、揺れ動く感情に限界が近かった。
なにも言わない和真が、なにを考えているのか全く分からない。言葉がないまま進む和真の姿に一昨日の姿が重なっていく。
(俺、また何か、間違えた?)
一歩ずつ進む和真に合わせて、増えていったあの日の焦りが、今では絶望感に変わっていた。
(イヤだ、行きたくない)
汚い物のように浴室へ放り込まれたあの時に、きっと和真の中で自分は要らない存在になったのだろう。
今までの幸せが終わってしまった場所へ連行されていくような状態は、辛いのか、苦しいのか、怖いのか。分からない。不明な感情がただただ積もっていく。それから逃れるように亜樹は大きく身じろいだ。
「おろ、して、和真」
「大人しくしてろ」
元々ある体格差に加えて、鍛えられた身体には、もがく程度では大した抵抗にもなっていないのだろう。ほとんど気にしていない様子で抱え直され、ようやく降ろされたのは、浴室の広い脱衣所だった。
「そろそろ顔ぐらいあげろ」
強く目をつぶった亜樹が、何度も首を横へ振る。
諦めきれない自分の弱さだと分かっているから、優しい表情や冷たい顔に、傷付く心の見苦しさがイヤだった。
帰ってきてから一度も合わせてない和真の視線が、頭上から注がれている気がして、亜樹はますます身体を硬くしてうつむいた。そんな亜樹の態度に面倒くさいとでも思ったのか、溜息が聞こえてくる。
「とりあえず風呂に入れ」
「なんで…俺、もう出て、行くのに」
「いいから入れ、話しはその後だ」
「でも、おれ───」
「亜樹」
諭すような、命じるような声音だった。
(なんで……)
いまさらその音で名前を呼ぶのか。分からなかった。理由も何も浮かばずに、亜樹がうつむいたまま目を見開いた。
「服を脱いで、風呂に入れ」
混乱していた。それでもその声にはイヤだと言えなかった。
ノロノロとシャツに手をかけ上着を脱ぐ。そのまま震える指をズボンのボタンにひっかける。向けられた視線は感じるのに、和真はそれ以上何も言ってこなかった。
指が震えて、いつもやっている日常的な動きさえ上手くいかない。何も着ていない上半身をなぞる空気が冷たくて、亜樹の体がぶるっと震えた。
「手をどけろ」
言葉は相変わらず固く冷たい音だった。それなのにボタンから指先を外させる手は包み込むように優しくて、心の柔いところがズキズキと痛みを訴える。
「ここに座れ」
手早く温度調整をしたシャワーで温めたタイルに和真が亜樹を座らせた。同時に背後のバスタブへお湯を張りながら、和真が引き寄せた亜樹の身体へお湯をかけていく。
「和真、洋服が」
シャワーの水が和真の上質の服を濡らしていた。
「別にいい。それより目をつむれ」
どうでも良さそうな返事だった。亜樹の身体を温めるように、うなじに当てられていたシャワーが向きを変えてくる。
掌にシャンプーを取った和真が、水を含んだ髪を揉み込む様にしながら泡立てていく。
「流すぞ」
触れる指先は優しくて、大切だと語ってくれているような気がするのに。勘違いをしそうになる亜樹の心を戒めるようにその声音はやっぱり冷たかった。
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