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第17話 幸せの残骸

 浴室の中は変わらず、暖かな湯気が満ちていた。お湯も温かいままなのに、身体が芯から冷えていく気がして亜樹は身体を小さく震わせた。  お湯から覗く膝頭をうつろに見つめる。昨日の夜もこうやって膝を抱えて待っていた。和真に最期のお別れをして、その後は遠く離れた場所で一人静かに和真を想っているはずだった。 (あのまま出て行けば、よかったってことかな……)  何も言わずに出て行けば、きっと和真の負担にはならなかっただろう。  勝手に出ていった亜樹に対して、捨てたといった責任を感じることもなければ、行方の知れないペットが遠くで何をして何を思っていようと、和真が気にするところじゃなかったはずだ。  そうすれば、自分の中だけでひっそりと抱えるはずだった想いさえ、否定をされて傷つくような事もなかったはずなのに。  うつむいた亜樹が掌で掬ったお湯で顔を流せば、頬を伝った滴が顎先からポタリと落ちた。水面を叩くそれが、泣けない涙の代わりのような気がしてくる。亜樹はその行為を何度も繰り返しながら揺れる水面を目で追った。  全部、最後に別れを言いたいなんて、願ってしまった自分のせいだ。分かっている。 (あんなに迷惑そうなのに……)  和真の願いなら、叶えたいと思う。それでも、負担にしかならない想いを捨てられそうにもなかった。 (もう一度伝えたら、好きでいる事ぐらいは認めてくれるかな……)  ちゃんと伝えて、もう二度と会うこともないと分かれば。  そうなれば、捨てたはずの相手からの想いだとしても、邪魔にならないからと諦めてくれるかもしれない。 (でも、それでも嫌悪されてしまったら……どうやったら、忘れられる……?)  記憶を抑え込めばいいのか。  出来るだけ、思い出さないように。  思い出を仕舞い込んだスケッチブックを、そのままどこかへ仕舞い込んで。そうやって過ごしていけば想いは薄れてくれるんだろうか。でも。 「……そんなの、ムリだ」  全てを手放して、想いも記憶も全てを捨てて。  その後に残るのは。  きっと空っぽになった(身体)だけしか残っていない。  入れる物がない器に価値があるのか、亜樹には正直分からない。そんな中でどうやってこれからを過ごしていくのだろうか。  亜樹が吐いた溜息が浴室の中に大きく響いた。  ずっとこうしていても仕方がない。ノロノロと浴槽から立ち上がり、浴室の扉を開く。和真が置いてくれたのか、タオルと愛用していた部屋着が置かれていた。  柔軟剤で柔らかく仕立てられたタオルに顔を埋める。鼻孔をくすぐるのはアクア系の香り。それはこの香りを気に入った亜樹の為に、いつの間にか和真が切り替えてくれていた柔軟剤の香りだった。  タオルに埋めた亜樹の顔がクシャッと歪む。  小さい事から大きな事まで、さんざん甘やかされていたと思う。見渡せば、浴室ひとつだけでも、部屋の色々な所に、幸せな日々の残骸が転がっている。  手を伸ばせば届くはずの距離にあるそれが、今はひどく遠かった。

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