18 / 36
第18話 虚ろな思い出
フットスツールに足を伸ばした和真が何かをめくっていた。濡れた服はすでに着替えていて、カジュアルなスラックスに合わせて身につけた薄手のニットの襟口からは、首の筋と鎖骨がチラリと覗いている。
「それ……」
和真がめくっていた物をハッキリと認識した亜樹が、小さく息を飲んだ。固い表紙のそれは、一晩中、亜樹が手にしていた物だった。
見開いた目の片隅に、見慣れたリュックが映る。その中身はもう空っぽなんだろう。クシャッと力なく潰れた状態で、床に転がっていた。
(……なんで)
気持ちが焦り、喉がひどく渇いていた。
間違いだと良いと思いながら、和真の方へ一歩一歩近づいていく。
「和真……それ……」
「そこの鞄に入っていた物だ」
「お願い、返して……」
「返して?」
亜樹を見つめ返す和真の顔が冷たく歪んだ。
「これはお前の物じゃないだろ」
その冷たさは、今まで見た切り捨てるようなものとは違っていた。初めて見る嘲るような笑みは、和真を知らない誰かのように錯覚させて、思わず身体がすくんでしまう。
確かにそのスケッチブックも鉛筆も買い与えてくれたのは和真だった。
「お金、払うから……」
そういう事ではなかったのか。直後にあからさまな溜息が聞こえてきて、亜樹はその先を続けきれずに言葉を飲み込んだ。
「金なんかどうでもいい。これの中身だ」
「えっ───」
「プライベートで恋人に向けた顔を、ペットのお前が持ち出すな」
その言葉はちゃんと聞こえているはずなのに、水の中でこもったように亜樹には聞こえてくる。
すぐには理解できなかったその言葉を、亜樹が1つずつ拾い上げた。
輪郭がぼやけたようにハッキリとしない音で聞こえてきたのは、真っ直ぐに受け止めるには辛すぎる内容だからかもしれない。
(これまでの表情は、俺に向けてくれたものじゃなかったんだ)
言葉の意味が染み込んでくるのと同時に、体から力が抜けていった。ドサッと言う音と近づいたフローリングまでの距離。ぼうぜんとしたまま、見開いた目にフローリングの木目が映り込む。
「それに、持ち出せなくても構わないだろ」
かすかに布が擦れるような音が聞こえて、視線の先に和真の足先が映り込んだ。
目の前にしゃがみ込んだ和真に顔を引き上げられる。その動きに初めて床へ座り込んだ自分に気がついた。周りの状況も自分の感覚も、和真の声さえ膜が張ったように、全てがぼんやりしているようだった。
浴室の時のように強引に合わされた視線。
その冷たい視線の中には明らかに怒りが含まれているのに、昨日見た表情とはまた違っている。
(また、何かを間違えたんだ…)
もうどうしたら良いのか分からない。一生懸命考えて、和真にとって良いと思う方法を選んできたつもりだった。それなのに何一つうまくいかない。
傷付きすぎた心はもう疲れ果てていて、考えることも選ぶことも、もう投げ出してしまいたかった。
「俺はペットを捨てる気はない」
こんなに近くにいるのに、和真の声がひどく遠かった。それでも触れている体温だけはハッキリと感じられて、その感触に縋るように目を閉じた。
「お前がペットだと言うならば、ペットとしてずっと側にいればいい」
顔を捉えていた手が輪郭をなぞって、唇へと指先が這わされる。その触れてくる指にわずかに下唇を引かれれば、素直に結んでいた唇を解いていく。
和真がそう言うのなら、それで良いのかもしれない。亜樹は受け入れるようにその指へ舌を絡めた。
ともだちにシェアしよう!