5 / 6

第5話

 どちらが先に寝落ちてしまうかの競争になって一度寝たふりをする。 「…っ」  背後で忙しない音がする。詰めた息が先程の行為の続きのようで、そういえばヴェスティーンは前の腫れから白濁した粘液を出さないまま終わったことを思い出した。指を噛んで小刻みに震えながら喘いだ姿が終わりを告げているのだと思っていた。 「ヴェスタ」  ヴェスティーンは肩を跳ねさせた。 「ごめん、気付かなかった」  寝たふりでも既に眠る態勢に入っているため少し頭はぽやりぽやり浮ついている。 「ノール様、」  ヴェスティーンの前に座り、股座で首をもたげる茎を握る。 「白いの出さなきゃダメなんだよな」  固く芯を持った雄を扱く。 「…ぅっ、ぁ…、」  波打つ身体をじっと見てから段々と上へ辿っていく。困惑しながらどこか遠く一点を見つめている翡翠を横から眺める。 「ノー、ルさま…おは……なし…く、だ……」  きゅっと双珠が脈動した。もっと聞きたい。もっと見たい。もっと触りたい。両手に緩く押さえられるがそれでも放さなかった。 「…ぁ、ッく…、」  掌に生温く当たる。止まるまで待つ。粘性のある白濁を観察していると赤らんだ顔で、おやめくださいと小さな声で言われる。ティッシュは先程の行為で切らした。掌を上に向けたまま、眠気と手を洗わなければと考えが鬩ぎ、舐め取るという選択が浮かぶ。ヴェスティーンのなら構わないかと。だが浮かんだのはノールの身体だった。シャルグがアウステラにやっていたのと同様、膝裏に腕を差し込まれている。 「ヴェスタ?」 「手を洗い場へお連れします」 「重くない?」 「はい」  廊下の照明に燦然とした深い瞳をただ見つめていた。 ◇  アウステラに指定された白薔薇の咲き乱れた庭園へ踏み入った。鳥籠を模したガゼボの下にアウステラはいた。白いワンピースドレスは今日は手首まで袖があり、フリルによって大きく開いている。暇そうに近くを飛び回るアゲハチョウを眺めていた。2人に気付くと痩せた顔を向ける。長たらしい挨拶の口上を述べるノールを制してからその隣へ視線を移し、緑の双眸に映したか否かというところで瞬時にノールへ戻ってくる。 「随分と豪勢な庭だな」  白の薔薇を指で突つく。ヴェスティーンより淡い銀色の髪は艶をなくしている。体調は快方に向かっていないようだ。 「ああ、そうだ。この前の礼を言わねばならないな。ありがとう。美味かった」  アウステラは窶れた顔に気風をのせる。 「……ティーフェ出身の者に訊き、作らせました」 「そうだな、存じている。そういう味付けだった」  隈を浮かべた小顔が照れ臭そうな笑む。 「義弟よ、お前にもあるのか。そういうものが」 「……チーズを溶かしたマッシュポテトです」 「そうか。なかなか庶民的で安心した」  小麦色の肌が透けそうだった。だが身体の不調に気付かないのかそれとも我慢しているのか、アウステラは険しさと陽気さを兼ねている。 「初心の物でも容易に作れるものだろうな」 「…はい、おそらく」  紋黄蝶がアウステラの細く長く尖った爪に止まる。白く塗られ金色の装飾をされていた。 「食というものは凄い。腹を満たせれば良いという考えしかなかった、今までは。豊かな地ではなかったからな。まず城か兵か軍に行ったものだ」  紋黄蝶はまた飛び立つ。アウステラはその羽を追う。青空と白い雲。湿気も多くはなく天気が良い。 「ここは豊かか?わたしが優遇されているのか。不要なことだ。舌が肥えるのは恐ろしいことよ」  空を見上げている。後ろに転倒しそうでノールは伏せた顔でわずかにアウステラを見る。 「…豊かかと」 「父上兄上の善政の賜物か」 「…地理的な条件もありましょう」  アウステラは謙遜するなと言ったが謙遜したつもりはなかった。 「まぁそれはそれとして…何か用があったのだろう?急に呼び出してどうした」  ノールはアウステラを見上げる。 「…義姉上からのお呼び出しに応じたのですが」  アウステラは首を傾げて紙切れを摘まんだ。 「…ではこちらは」  二つ折りにした上質な紙をアウステラへ差し出す。粗末な紙切れと交換する。戦勝記念にシャルグを饗応するための助言を求めて呼び出す文面。筆跡を真似られている。後ろで物音がした。ヴェスティーンか。ノールを力強く突き飛ばし、アウステラへ跳びかかる。破裂するような大きな音に時間が止まった気がした。耳が壊れたかと思うほどの静寂。一瞬の出来事をただ目が捉えただけで、頭の整理は追いつかなかった。火薬の匂い鼻を抜けていく。 「貴様何者だ!」  アウステラの怒声で思考が一旦停止した。ノールの方へやってくる。ノールはアウステラを見上げた。張り上げた声と溢れた怒気にノールは怯む。だが。 「ヴェスタ!」  アウステラのいた場所に倒れ込むヴェスティーンにノールは走り寄った。 「貴様!何をしたのか分かっているのか!」  ガゼボから去ろうとする黒い影を捕らえる真っ白なドレス。ヴェスティーンとアウステラの間で忙しなく頭を振る。膝に乗せた頭から血が流れ出る。口を動かしている。だが声が伴わない。本当に耳が爆音で壊れたか。耳を傾ける。姫様を頼む。血が滴る頭を押さえる。ヴェスティーンを置いていけない。アウステラは見知らぬ人物と睨み合っていた。震えた手でノールは掴まれる。見捨てろ。義姉を頼む。ゆくゆくの姫。死んだ婚約者も確か姫だった。 「ごめん」  押し負けたアウステラへと向かう。細い首に回る皮の手袋。体当たりして共々芝生の絨毯へ崩れ落ちる。隙を突いてアウステラによって不審者は捕らえられた。武闘派な女性を良く思わない老臣たちがそういえばいたと思った。  爆音を聞き付けた庭師によって不審者は連行された。庭園の主であるため呼ばれたシャルグにより一度却下されたヴェスティーンの搬送はアウステラによって簡単に通る。助からない、無駄だと告げられてから頭は真っ白だった。ガゼボに取り残されたまま。庭師が閉めると言いに来た夜までずっとそこにいた。部屋まで帰れない。庭園の前で蹲る。夜風が寒いということしか考えられなかった。冷えてしまえばいい。凍えてしまえばいい。何も考えさせるな。ただでさえ何も考えられないのに何を考えるのか。翠の眸が見たい。もう一度見たい。ヴェスティーンの声が聞きたい。優先してしまった。義姉を。ヴェスティーンを見捨てたのは誰だ。立ち上がって城内へと向かう。 ◇ 「余計なことにかまけず学に励め」  シャルグは勝手に扉を開け、黒のグラデーションがかかったウサギを部屋に置いていった。 「はい、兄上」  ウサギは部屋を跳ねるように歩いた。シャルグはそれだけ行って出て行った。ノールは窓の桟に置いた本を閉じる。ペンを置く。ウサギはきょろきょろと周りを見ていた。鈴が揺れる赤の首輪が付いている。ブラックとダークグレーの毛並みによく映えたがノールは首輪を外した。縛り付けられて。可哀想に。鼻を小さく動かしてウサギはノールの元から去っていく。ベッドの下に入り込んで暫くじっとしていた。区切りがついたら飼育用品を買いに行かなければならない。見慣れた外の風景とブルーのレンガ、対面の尖塔が違って見えてそのまままた馴染むことがない。違和感を抱きながらこれからも生きるのか。否、いつか慣れる。部屋も表情を変えた。部屋の主であるノールに知らん顔をする。  本にペンで印を付けて閉じた。すでに固められた冷酷な教えを身に沁み込ませ、それが正当に行使され尚且つ正当に継承されるのか疑問だ。だが怠惰の限りを貪らねば星の寿命より長そうな老衰までの時間を蝕ませねばならないのだ。息をしながら楽になる教えを説いてくれと隔絶された小さな部屋から、人々の営みを見下ろし求めるのだ。  窓に面して置いた椅子から立つとウサギがベッドの下から出てきた。 「名前を決めないとだ」  抱き上げる。鼻がぴくぴく動いてどこかを見ているブラウンの目。生きていけるな、と思った。どこも痛くない。苦しくはない。つらくはない。寒くはない。飢えてはいない。 「ノスウェルト。長いかな。ノス」  ウサギは後ろ足を持ち上げてノールの手を蹴ろうとするため床に下ろす。 「ノス」  鼻を動かしてノールのいない方を向いた。丸い尾が動いている。 「餌を買ってくるよ」  柔らかな毛並みを撫でて、それから部屋を出る。廊下でアウステラと久し振りに会った。顔色は良くなっていた。毎朝微量の毒を盛られていたと聞いている。反対派が一掃されたが口では何とでも言えるのだ。むしろ反対を明言した者を採用せずとも重用するべきなのではと、書物に影響されはじめている自分に気付く。軽い挨拶を済ませて、中身のない長たらしい礼はせず通り過ぎる。 「待て」  そのことを咎めるのか。足を止めアウステラへ振り向いた。 「…ウェディングドレスを一緒に選んではくれないだろうか」  知らないのだろうか。それとも気を遣われているのか。いずれにせよ決まり事だ。 「申し訳ございません。呼ばれていない式に口を出すわけにゆきません」  アウステラはそうか、すまないを小さく言って、背を向ける。個人的には膝で開くドレスがお似合いでした。一言残し、深々と礼をして去っていく。町へ出て、野菜を見た。まだ根菜の切り方に慣れない。魚を見た。食卓で会うかもしれない。肉を見た。香草焼きが好きだ。古書店に寄って、それから飼育用品を売っている店に入る。ケージとトイレ、餌箱、給水器と餌を買って帰る。町は栄えていた。戦火にまみれたのは主にティーフェ帝国であり、犠牲者の多くは平民だ。軍人多く死に、遺された者達もそれだけ多い。城に帰って、ウサギを看る。ケージは置いたが入り口は開けっ放しだった。好きな時に入ったらいい。草を固めたらしき固形物の餌を餌箱に明ける。ウサギはすぐには食べなかった。一粒床に転がすと口先を左右に揺らして食べる。思わず頭を撫でた。ふわふわしていた。頭から耳を撫でて、掌に残った感触を惜しむ。 ◇  盛大な音楽隊の演奏を聴きながら本に目を通す。摂理や原理を説ける師を持てという外在的な要件は満たせなかった。その他外在的要件も満たせそうにない。1人なのだ。ベッドの下からノスウェルトが現れる。 「お前が人間なら幕賓だけど、お前はウサギがいいよ」  ペンを放ってノスウェルトを抱き上げる。腰を支えて胸に当て、反対側の窓を近付いた。結婚式に向け華々しくなった城の入り口をノスウェルトを持ち上げて見せる。見えるか?と柔らかな毛並みが頬に触れた。使用人たちは結婚式の準備や参加に駆り出されているため今日明日は自分で殆どのことをしなければならない。 窓の桟にウサギを乗せて暫く小さな人波を眺めていたがノスウェルトが降りたがったためにノスウェルトと共に窓から離れる。藁でできた玉を新しく買った。床で遊ばせて、また本を開く。交響楽団の演奏の練習や喧しいまでの活気に満ちた会話、拾いきれない喧騒。紙の声に没頭して外の賑やかさが遮断されていく。  ノール様!  近場の騒音に紙の世界から出てきてしまった。シャルグの使用人によって扉が乱暴に開かれ、呼ばれた雰囲気からも只事ではないらしかった。ノスウェルトと藁の玉をケージに入れる。応対すると銀の剣を差し出された。剣技の鍛錬でもなければ出されない。戦が終わって間もなく、さらに今日は第一皇子の結婚式だ。 「どういうことです」  アウステラ様には二心がございました! 「義姉上が?」  シャルグの使用人は頭を抱えて溜息を吐く。だからわたくしはアウステラ様はおやめにと申したはずなのに…とたいそう憂鬱な様子だった。 「ウサギを頼む。話をしてくる」  アウステラ様は大変武芸に秀でておいでです。 「だめだったら、だめだったで」  腰から下げた剣を鞘から抜き差しする癖がまた出そうになり、長くなった爪から伝わる感触が不快でやめた。シャルグの部屋に行けばいいのだろうか。廊下は思ったよりも閑散としている。まだ事が明らかになっていないようだった。シャルグの自室の扉を開ける。 「義姉上?」  開いてすぐに目に入る大窓と机。白いドレスを真っ赤に染めたアウステラがそこに立っていた。ノールが似合っていると言ったマーメイドドレスだった。膝の少し上で布が回すように寄せられている。ノールを黙って一瞥し、机を前にして首筋を真っ赤に染めるシャルグへ無表情を戻す。 「兄上…」 「殺してやれ」  アウステラは手にした刃物をノールの足元へ投げる。 「なら…ぬ…。お前は…たとい…去ぬことになって…も、手を汚すことは…許さ、ぬ」  正装を真っ赤に濡らしシャルグは椅子からノールを見ていた。逆光しているがその顔は青白い。 「血に…染まった……為政、者を民は……認めぬ。貴様は……国を背負、うのだ…」 「で、すが兄う、」  シャルグは震える指でカーテンの奥を差す。アウステラが冷たい貌をしてシャルグを見てから、ノールを見た。だが何も言わずにカーテンの奥へと消えて行った。追う。だがカーテンで閉ざされてしまう前に振り向いた。 「背負、え……苦し……め…怒…れ…」  肩を震わせて笑う。期待と憎悪を半々に、しかしどちらかが勝っている。それが分からない。笑う兄を背にカーテンの奥へと進む。 「義姉上、何故…!」  銀の剣に手を掛け、だが躊躇う。 「何故…?勘違いしているな。わたしはそもそもこの国に染まったわけではない」  ベッドの前に屈んでいた。膝の上に何者かが寝ている。浅黒い手がアウステラのドレスにのっていた。 「ヴェスタ…?」  アウステラを警戒もせず近付いた。膝と腕に、見慣れた男の頭を抱いている。頭部に包帯を巻かれていた。動く気配はない。 「義姉上…、どういうことですかっ…ヴェスタが、何故……」 「……兄とは誠に勝手な生き物だな」  ノールは眉間に皺を寄せる。何故シャルグの話をする。 「頼んでもいないのに…様々なものを押し付けて、なのに…。守った気になるな……何も…守れてなどいない…」  ヴェスティーンの姿だ。さらに近付こうとして、来るなと怒鳴られる。 「お前は悪くない。お前は悪くないが、お前は…兄さんがこうならなきゃならなくなった国の次代を担うんだ」  知らない。正式な発表ではない。次代を担うのは弟のネロンテッドではないのか。 「…最期に看取ってくれるやつも、いない。姫様も王子もいない…」  睨み上げられる。 「お前への遺言を預かった。目なんて覚まさないし寝たきりだったけど、最期に言ったよ」  天井を見上げた。青空の天井画が淡く描かれている。 「末永くお傍に。意識なんてないだろうに。姫様でもわたしでも友人にでもなかった」  血飛沫に汚れたウェディンググローブが握り締められていた。カーテン越しに扉ががんがんと叩かれるのが聞こえる。シャルグの名を呼んでいる。アウステラは鋭い顔を険しくしてゆっくりとヴェスティーンを床へと寝かせた。 「安らかに。どうかアウステラを恨みになれ」  アウステラがヴェスティーンの亡骸を置き、テラスへと出て行った。ノールはヴェスティーンの傍に寄った。安らかだった。穏やかに眠っている。今でも起きそうだった。だが翳した口元から息をしていなかった。抱き上げながら銀の髪を撫でる。翠玉はもう見られない。痩せた顔に顔を寄せる。頬が触れた。色のない唇に触れる。毒物であるなら移してくれ。だが叶わなかった。背後の騒音の質が変わった。応答がないため、扉が開かれた。姫様を頼む。それが最期に聞いた声であるから。妹ではないか。何が姫様だ。アウステラを前にしたヴェスティーンの挙動やヴェスティーンに話したアウステラのことが次々と思い起こされて鼻の奥から痛みが込み上げる。 「行ってくるよ、ヴェスタ」  傍にいると言った。ベッドへ凭せかけ、ノールはアウステラが消えたテラスへ向かう。逃げ切ったか。どこかでそれを望んでもいる。テラスの先には誰もいない。逃げ切れるのか。見下ろした結婚式会場は別の騒がしさを帯びていた。 「こっちだ」  脱ぎ捨てられたヒールを見つけると同時に屋根の上からアウステラが呼ぶ。危ないが行けなくはない。何故そのまま逃げないのか。思うが追ってしまう。 「お前の勧めたドレスは歩きづらい」  レンガの上を裾を摘まみ上げ、裸足で歩く。 「義姉上…何故このような…」 「女の身の面倒なことよ。男に生まれたら戦に散れた。国と共に滅べた」 「またそのような…」  レンガの上を歩き、どこかに向かう。青空を歩いているような。 「兄さんが死を厭い、屈辱に襲われることもなかった」  アウステラはふいと違う方向を眺めた。 「だが女の身でなければ成せぬことがある。悔しいな?」  対峙し、両肩を軽く叩かれた。緑の目が眇められる。その仕草がヴェスティーンによく似ていた。レンガの上を駆けていく。追った。だがこれ以上近付くのを躊躇った。アウステラは淵で止まり振り向く。青い空と青いレンガに白いドレスが引き立った。 「兄さんを惨殺したくなかった。許せとは言わない。恨め」 「義姉上、危のうございます!」 「…お前はまたいずれ、手を汚さず人を殺める日が来るだろう。そこに安易な答えはない。常に考えろ。皇に与えられる孤独とはそういうものだ」  一度だけ俯いて下腹部を撫でた。 「兄は厳しい人だな、お前も、わたしも」  ノールは淵まで走った。彼より淡い色をした睫毛が伏せる。ノールは息を失う。目を閉じ、白いドレスが落ちていく。伸ばした手は空を掻く。ひらめくドレスが小さく抵抗して羽ばたきに見えた。 ◇  両手に分厚い木製の枷を嵌めてノールは歩く。奴隷よりも罪人の方が着る物が良い。兵に連れられ、組み立てられた木の階段を前にする。近付いてきた帽子に白髭の汚れた格好の男がノールに近付いた。四方を囲む兵に制されつつも男の方へ身体を傾けた。男は用件を伝える。周りの者たちが顔を顰める。 「…そうか」  思っていたよりもウサギは長く生きた。預けた者の世話が良かったのだろう。彼の造る庭も良いものだった。 「…感謝の述べようもない。だが、感謝する」  男は両手を組んで膝を着く。がたがたの歯を見せながらノールを見上げ、夕日に染まった瞳が大きく濡れていた。  売国奴!  非国民!  国賊!  頭で破裂する軽快な音。粘液と冷たさ。鮮やかな黄色。生卵。ノールは枷を見つめる。彼もこのような想いをしたのか。褪せてもいい日々の記憶。だが褪せない。  よせ!  叫ぶ兵を止める。 「よい。いずれのことは分からない。君は今投げた生卵1つの価値が低い日々を尊ぶといい」  腐っている様子もない。 「兄上!」  変声期を終えたネロンテッドが階段を上る直前で呼んだ。 「ネロ…」  規制の縄から前のめりになったネロンテッドを枷を回して抱き寄せる。兵が止めようとする。兄弟なのだからと警戒は薄い。肘で押さえて回す。骨が軋む音がした。ネロンテッドの身体から力が抜け、地面へと崩れ落ちていく。国賊で売国奴の非国民の弟だ。火種だ。喧騒が増す。盛り上がる。弟殺しの声が上がる。2人の息子を失い、これから最後の1人を失う白にまみれた父親の姿が目に入った。規制のため進めない。新時代には必要のない火種なのだ。消さねばならない。戦火に巻かれる地を作るわけにはいかないのだ。その為には少数の犠牲が要る。いつかは否定していたように思う。縄を越えようと暴れて押さえ付けられる。背を打って、赤みがかった青空が一面に広がる。  剣先が空で光る。風が頬を撫ぜる。 悪くないな、と思った。  ゼンタラム皇国がティーフェ帝国を滅ぼして間もなく第一王子が謎の謀反により死去。その十数年後、セントロ公国と条約を結びゼンタラム皇国を明け渡し滅亡させた第二皇子の処刑が決まるが、刑の執行直前に暴れだし実弟を殺害した。その後警備にあたっていた兵によりその場で刺殺。旧ゼンタラム皇国の皇子3兄弟の非業の死を後の人々は「ティーフェの呪い」と呼んだ。

ともだちにシェアしよう!