2 / 11

第2話

 アルコールくさい息。一日遊んで脂っぽくなった髪。うっすら生える無精髭。サークルで黄色い歓声を浴びるモデル顔負けの面立ちが、俺の前でだけだらしなく緩む。  俺を友だちとして信頼しているからこその緩み。やや赤らんだ頬と耳がかわいい。  少し触るとむず痒そうに手で顔を撫でる。  何度か続けて触ると、酔っ払った目を開けて俺を見つめた。 「中原……水……」 「はいはい」  松葉の頭を軽く叩いて立ち上がる。  酒に弱い癖によく飲むから、サークルの飲み会ではよく潰されて寝ている。そこを女たちにいたずらされているが、本人は気づいていない。気づいていても、酔った時の記憶は曖昧になるらしく、翌朝には健忘症を患っているかのようにけろっとしていた。  水を持って来てやると喉を鳴らしてうまそうに飲む。 「ん、んん」  飲み終わると、今度は堂々とリビングに横になった。自分の腕枕で眠りにつこうとする。 「おい、帰れよ」  帰ってほしくないが、明日も朝から大学がある。自分の部屋に戻って寝た方がいいに決まっているから、そう言って揺すり起こすと、嫌そうに寝返りを打った。 「松葉」 「ここで寝るからいい」 「体痛くなるぞ」 「いいってば」  寝転がったまま、長い脚で俺を蹴ろうとする。酔っ払って動きが覚束ない。 「蹴れてねえし。ってか、よくないだろ、松葉。松葉?」  くぅくぅと寝息を立て始めた松葉に負けて、空き缶を片づけ、布団を敷いてやることにした。  あの頃、こんな日はいつか終わると覚悟しながら、ずっと続けばいいと思っていた。 + 「具合悪いのか?」  バインダーで肩を叩かれた。  振り向くと、企画部から戻ってきたところの佐伯さんがいた。もう三十も後半だというのに童顔からか学生に見える。背も俺より少し低い。 「え、いえ。具合は別に……」  昨夜のことを思い出さないようにしていたが、顔を見るとそうもいかない。  つい彼のデスクを見てしまう。仕事中ということもあり、今はパソコンやファイルが出したままになっていた。  昨日、俺はあそこに……。  何度も拭いたがやはり不安で、佐伯さんの顔を見ることができなかった。それが不自然に見えたらしい。 「本当に大丈夫か?」  体調を心配されると、恩師のデスクに暴力的な快楽に負けて射精した失態で逃げ出したいようないたたまれない気持ちになる。何もなかったかのように、器用に繕えたら苦労しない。 「えーと、なんだ。飯でも行くか? もう昼だし」 「……ごちそうさまです」  愛嬌を総動員させてそう言うと、佐伯さんの顔が少し明るくなる。 「ちゃっかりしてるな」  友だちと言えるような友だちは少ない。顔がいいというのは、自負している。口下手でそれを使ってどうこうできるほどのコミュニケーション力はなく、友だちが出来にくかった。異性は当然のことながら恋人を気取り、同性ともなると、口下手が災いし女を取っ替え引っ替えしていると僻まれたり、恋人を盗んだと騒がれたりした。 ――馬鹿、こいつがそんなことするかよ。  責められる俺を庇ってくれたのは、中原だけだった。 ――むしろ、童貞に女の恐ろしさを教えてくれるんだ。感謝して受講しろよ。  口は悪いが、根はいいやつだと思った。  そんな中原がそばにいてくれたから、俺にも友人らしい友人ができるようになった。  それがどうして……。 ――ちゃんと片づけておけよ。  あまりの変容に同一人物だとは思えなかった。  就職先が同じだとわかって嬉しかったのは俺だけだったのだろうか。本当はあいつも、他の奴らと同じように俺を疎ましく思っていたのだろうか……。  未咲へ送る婚約指輪を選ぶ時、俺は相談相手に中原を選んだ。中原は俺のプロポーズを知って嬉しそうにしていたが、あれが間違いだったのだろうか。  小町未咲は最初、中原と同じ企画部にいた。二人は仲がよかったらしく、俺が営業部に来た未咲と関わるようになったきっかけは、間違いなく中原だった。  俺は知らない間に、中原の思い人を横から掠め取ってしまったのかもしれない……。  そう考えてぞっとした。  もしそうなら、中原は今まで庇ってきた奴に裏切られたことになる。 「古町とうまく行ってないのか?」  そばを食べながら佐伯さんが問いかけてきた。 「え、どうしてそんなこと」 「元気ないだろ。古町と婚約してからこっち」 「あ……ああ。いえ、彼女とは別に」  未咲は本当に少女のような女性だった。結婚もままごとの延長線上にあるかのように、現実味がない。それでも俺は彼女を選んだ。周りの女性社員からは「足りない」と言われる未咲だが、賢しい異性には辟易していた。  確かにおっとりし過ぎたところはあるものの、裏表のない素直なところが俺はどうしょうもなく好きだった。 「他に悩みがあるのか?」 「……いえ……」  あんなことを相談できるはずもない。  今、貞操帯はつけていないが、つけろと言われたらすぐにつけるしかない。中原は写真を持っている。逆らえば、あれをネットにばら撒くと言っていた。  そんなことをされたら生きていけない。それに、そんな俺と婚約した未咲はどうなる? 自分一人じゃとても世間とは戦えそうもない子だ。彼女を傷つけたくない。  ……中原は違うのだろうか。  好きだった女性が傷ついても構わないと本気で思っているのだろうか。 「……悩みならいつでも聞くから、遠慮するなよ」  そっと肩を撫でられて、目の奥が熱を持った。  何も相談はできないがこうして気遣ってくれる人がいるだけで気持ちは全然違う。  昼食を終えて会社に戻ろうとした時、スマホに電話がかかってきた。  先に佐伯さんには戻ってもらい、俺は電話に出た。 『よお、人の金で食う飯は美味かったか?』  中原の声で、胃の中のものを吐き出したくなった。 「なか……」 『あれつけて戻ってこい』 「いつまでこんなこと続けるつもりだ」 『下半身に首輪がないと威勢がいいな。あの写真、ばら撒かれてもいいのか?』 「っお前だって、未咲が好きだったんじゃないのか? そんなことすれば、一番傷つくのは彼女だ」  中原が黙った。 「なあ、中原。話し合おう。頼むから」  親友を失いたくない。その思いで声をかけたが、聞こえてきたのは馬鹿にしたような笑い声だった。 『今更、そんなこと気にするわけないだろ。馬鹿だな、お前。あの女が婚約者の痴態見て、傷ついたからって首を吊ろうが飛び降りようが、俺には関係ねえよ』 「何言って……」 『口答えした罰、覚悟しろよ』  一方的に通話が切られた。  何を考えているのか、今はもう想像すらできない。中原が全くわからなくなっていた。それとも、元々、俺は中原を勘違いしていたのだろうか……。  だが、何を考えているとしても、あんなふうに未咲を軽んじたことは許せない。 「その目、笑える。怒ってるのか?」 「は、ぁ……はっ、んぅ、はぁ……っ」  あの後、会社に戻るとトイレで貞操帯をチェックされ、いつもの下剤を手渡された。  会社出る時に飲めよ、という注文つきで。  言われた通り、仕事終わりに飲んだ。この流れだと中原のマンションに連れて行かれるのだろうと思ったが、甘かった。  助手席のシートでグルグルと暴れ出した腹を抱え深く響くような腹痛にたえる。  俺を車に乗せた後、中原は帰路につくことなく意味もなくあちこち寄り道を始めた。早く降ろせと言っても中原は全く聞こえていないかのように車を走らせ続けている。 「ん、は……ぅ、く……」  車は高速に乗り、止まる様子がなかった。その頃にはどこへ行くのか気にする余裕も消え失せ、ただ排泄をこらえて汗でシャツを濡らすことしかできなくなっていた。 「何、そんな本気になって我慢してるんだよ。出していいって言っただろ?」  中原がダッシュボードを指した。  その中には簡易トイレが入っている。さっき確認してわかっているが、使うということは、こいつに排便を見せるということだ。 「栓してやろうかとも考えたけどさ、ちゃんと貞操帯はつけて来たし、これで許してやるって言ってるのに自分で自分の首絞めて馬鹿だな」  我慢が限界に近いのか吐き気までこみ上げる。 「く、ぁ……っ」  中原は俺の体調など気にかけることもせず、いたずらに腹を触る。  大きな手にぐにぐにと腹を触られるとそのまま押されて漏らしてしまいそうになる。 「だっ、ぁ、やめ……っ中原ぁ……」 「すげ。動いてるのわかるわ。量はねえだろうけどさ」 「うぁっ、は……ぁ」  限界だ。  本気で漏らしてしまう。  震える手をダッシュボードに伸ばした。  服に出すよりこっちの方がまだましだ。  一回分を取り出し、ベルトを外す。  横目で中原が見ているのがわかる。  下着と一緒にスラックスを下ろす。カチャと貞操帯が僅かに鳴った。銀色の枠に納まった性器が情けない。その上、これから排便まで見られるのだ。  悔しくて、腹が立って、どうしても悲しかった。  俺はいよいよ強くなった腹痛に負けて、軽く腰を上げると簡易トイレを股に挟んだ。

ともだちにシェアしよう!