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第8話

 昨日の記憶があやふやになるほど飲み、酔いつぶれて目を覚ますといつも中原が隣で寝ていた。俺にだけ布団を用意し、家主である中原は自分の腕を枕にして静かに寝ている。  面倒見がいい中原の隣は居心地がよくて、ついつい甘えてしまった。酔いつぶれても布団を用意してくれるからじゃなく、何をしても味方でいてくれるような、不思議な安心感があった。  自宅のリビング。ひとりで目を覚まし、辺りを見ると酒の空き缶が目の高さと同じところにいくつも転がっていた。  固いところで寝たせいか体が痛い。  帰ってきてから落としてそのままにしていたスマホまで這う。時間を確認するとまだ午後十時。着信を知らせる光が点滅していた。休日にかかってくるのは、未咲か迷惑電話くらいだった。未咲なわけがないから、後者だろう。無視して伸びをする。  三時頃、中原のマンションから戻って部屋中のアルコールを飲み尽くした。そのまま寝ていたらしい。  どうしてそんなことをしたのかわからない。考えたくない。ぼんやりした頭で昔の優しかった中原を思い出す。手をズボンの中に入れた。寝起きだからか、それとも最近まともに機能していないからか、硬くなった性器を下着の上から握った。 「は……ぁ……」  すぐに下着が湿ってくる。  ズボンと一緒に脱ぎ、直接触る。  中原の指より細い自分の手。いくら擦っても緩い快感しか来ない。排泄がまだだから、後ろは触れない。触りたい。ただ、自分でしても満足できないことはわかっている。そう理解している頭が働いていないせいで、余計にもどかしくなる。 「っ……い、イきたい……」  倫理観も何もかもかなぐり捨てて淫らな妄想に助けを求める。 「中、原……っ。イ、きたい……ぁ、あっ、お願っ……中原ぁ……」  頭の中の優しい中原はすぐに手を差し伸べてくれるのに。ここには俺しかいない。どんなに頼み込んでも中原が触ってくれることはない。 ――何度もキスをした。  あの声を思い出す。 ――特別だから。 「あぁっ……」  ぞくりと背筋が震えた。足がピンと伸びる。  快感で目の前に火花が飛ぶ。始めて自慰をした中学生のように、俺は快楽と妄想の余韻に酔いしれる。ただ、今まで現実の中で行われてきた行為を思えば、到底、淫らとは思えない妄想だ。――隣で寝ていた中原が目を覚まし、俺にキスをする。射精の引き金はそんな妄想だった。  服まで飛んだ濃い精液を見て虚しくなる。虚しくて、寂しい。思えば、こういう慰めの相手に未咲を選んだことはなかった。  未咲だけじゃない。今までつき合ってきた人を自慰の対象にしたことがない。何となくもやもやした時に家のトイレで抜くというのが通例だった。  中原は俺を特別だと言った。キスをしたとも。  そんなこと知らなかった。嫌っていないといつか中原は言ったが、信じられなかった。普通、貞操帯なんかで友人を縛りつけたりしない。だから、やっぱり嫌われていたんだと思っていた。  好かれていたなんて、これっぽちも考えなかった。  体を起こすと気怠い。汚れたシャツを替えなければ、空き缶も捨てなくては……。そう思って手に取った缶にはまだ半分くらいビールが入っていた。  常温で気の抜けたビールをあおる。  明日は会社が休みだ。二日酔いでも関係ない。  中原はやっぱり俺を嫌っているんじゃないだろうか。未咲との平穏を守るためにあれだけ体を張ったというのに、中原は俺の痴態を見てもピクリとも反応しなかった。  さほど触られなくても俺はあっという間に反応するのに。中原に散々教え込まれたことだが、俺は被虐的な興奮に弱かった。自分でも知らなかったが、間違いない。  普通、友人を貞操帯で縛ったりしないが、同時に、普通は友人に乳首が腫れるほどつねられて快感を覚えたりもしない。  キスをしたなんて話きっと嘘だ。動揺した俺を馬鹿にして笑っているに違いない。  中原が何か大事なことを言っていた気がするが、思い出したくない。キスをした、特別だなんて話は嘘だ。  これは全部、未咲を横取りされた腹いせだ。……そうだとしても、こんな仕打ちが必要あっただろうか。中原に未咲が好きだ、別れてくれと頼まれたら、俺は大人しく引き下がった。俺にとって中原は、それくらい大切な友だちだった。  だから未だに憎みきれない。どこで間違えたのか。考えようとして止めた。つらい。つらくて、アルコールに逃げるほど物悲しい。素面だったらきっともっと落ち込む。吐くほど飲んで、忘れてしまえたら楽だ。 ――何度もキスをした。  中原の声が頭の中に響く。  あんなことを言っておきながら、未咲の部屋にいた。  未咲を好きなくせに、俺相手じゃ勃起もしないくせに、あんな言葉。見え透いた嘘だ。未咲を好きなくせに。嘘ばかり、全部嘘、何もかもが嘘だ……。  そう自分を納得させたいのに、蓋をしていたはずの考えがいつの間にか開いている。どうしてこんなに裏切られて打ちのめされているのに俺は中原にキスされる妄想なんかでイったのだろう――。  どうして、何度もキスをしたと言う中原の声に切なくなるのだろう。  中原が未咲の家にいた。それだけで立ち直れないほど傷ついている俺に、どうしてそんなことを言ったのだろう。  よろよろと冷蔵庫まで歩き、冷凍庫の奥から酒を出す。前にここで飲んだ時、中原が置いていった代物だ。また来た時に飲むからと。  高いから少しずつ飲むと言っていて、まだ半分くらい残っている。もったいぶって飲むほどのいい酒をここに置いていくなんて馬鹿だ。  どうせ二度と一緒に酒なんて飲んでくれない。  キスをしていたと中原が言った時、つい手を放した。怖かったからだ。何か大きなものに自分が飲み込まれてしまいそうで……。  中原の酒を一気に飲む。焼けるような熱と共に液体が喉を通り過ぎ、胃の中で火を吹く。  そこで一瞬、理性的な思考が戻った。  中原は高いからと言っていた。高いのは値段ではなく、アルコール度数の方ではないか。  だが、気づいた時には、もうほとんど飲み込んだ後だった。  まずいかもしれないと思いながら、度数を確認しようとしたが、細かな字を見ようとすると目の前が霞んでよく見えない。何度も目をこすっているうちに、頭がぐらぐらしてきた。  危ないとわかっているが、半分、どうでもよくなっていた。俺が死ねば中原は清々した顔で未咲と結婚するに違いない。そうだ。絶対にそうだ。  二人の結婚式のことを考えて絶望の淵に立ったような気分になる。なんで胸が痛むのかわからない。何度もキスをした、特別だから、そう嘘をついた唇を想像してしまう。  あの唇。俺に暴言を吐き命令する。肌に吸いつき、胸を嬲る。 「松葉」  そうやって俺を呼ぶ。一番親しかったはずなのにいつまでも名字で呼ばれ、俺も名字で呼ぶしかなかった。  そう言えば、別れ際名前で呼ばれた気がする。  あの時、中原はなんて言ったんだっけ……。 「松葉!」  急に声が近くから聞こえた。  ハッとしたが、体が動かない。かろうじて目を開ける。  明かりがついたキッチンに中原がいた。  夢なのか、それとも俺の淫らな妄想の一部なのかわからない。ぼうっとその顔を眺めると、何か必死に話しかけてくる。 「なに……?」  やっとのことで口を開くと顎を押さえつけられた。  夢じゃない。妄想でもない。  下向きに顔を固定され、喉の奥に指を突っ込まれてやっと気づいた。中原がいる。俺の部屋に。  喉の奥、舌の付け根を押された。何か考えるより先に水のような吐瀉物を床に撒き散らす。  一度吐くと、アルコールと胃液の異臭で内臓が波打った。こみ上げてきたものを我慢できずに吐き出した。  中原が俺の背中を撫でている。  前に無理やり排泄させられたことがある。次はこれなのだろうか。  汚れた床を見ながらぼうっとする。服にも水っぽい吐瀉物が染みている。 「なんでこんなことしたんだ」  中原の顔を見た。 「おい」  苛立った声。少し乾いた唇だけやけに鮮明に見えた。 「松葉」  そう呼ばれて、俺は返事をするように中原にキスをした。吐いたばかりで、嫌な味のぬめりがあった。  キスしてから、漠然と、突き飛ばされるだろうなという予感がした。だが、どうしてか中原はそうしなかった。それどころか、胃液っぽい唇を熱い舌でなめる。そのまま、キスが深くなった。  あべこべな夢を見ているようだった。  何でキスしてしまったのか、何で突き飛ばされないのか。何もわからない。  それでも、中原とのキスは気持ちよかった。

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