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第9話
救急車を呼んだのは人生で二度目だ。
一度目は、ベランダから転落した親父を助けようとしてかけた。
「……ん……」
親父は起きなかったけど、松葉は目を覚ましそうだった。
俺が置きっぱなしにしたウォッカを一気飲みして、急性アルコール中毒になりかけたらしい。医者には一緒に飲んでいたと嘘をついた。こっ酷く叱られたが、仕方がない。
だが、それはそれとして点滴をして、目を覚ませばすぐにでも帰ることができる。
昨日、小町は引っ越しの手伝いとして松葉も呼んでいたらしい。確かに彼女には俺たちが学友だと話してあり、旦那になるはずだった松葉と、その友だちである俺に引っ越しを手伝ってもらうつもりだったらしい。
それを聞いたのが午後五時頃。小町からかかってきた電話で知った。
小町は呼んだはずの松葉が来なかったことを不思議に思い、作業中、何度かメールを打ったらしい。だが、返事はなく、俺が帰った後に電話もしたがそれにも出ないと心配していた。
あの女は引越し作業の後、俺が松葉と言い争っていたとは思いもしないのだろう。心配だ心配だと言う小町が鬱陶しく、そんなに心配なら部屋に行けと言おうとした時、私の代わりに行ってきてと頼まれた。
面倒に思いながらも言い訳が立つようにわざわざ松葉の部屋に出向いて、チャイムを鳴らした。応答がなく、まだ友だちだった頃にもらった合鍵で部屋に入った。酔っ払ってぐでんぐでんになった松葉の体をまさぐり、上下の服から鍵を探し出す手間を省くための鍵だ。
酔った松葉を運ぶのは俺の特権だった。眠たいからか、甘えるようにすり寄ってくる松葉がかわいかった。
そんな思い出が霞むほど、扉を開けた瞬間にあり得ないくらいのアルコール臭が漂ってきた。こんなににおうほど松葉が飲むなんて信じられなかった。
松葉はそれほど酒に強くない。ビール一、二杯で赤くなる。
だから、冷蔵庫の前でウォッカの瓶片手にぐったりした松葉を見た時、血が凍りつくような気がした。
吐かせなかったら、どうなっていたかわからなかったと医者に言われ、ぞっとした。
キスをしたと言った時、松葉は青ざめた。俺のキスは、飲んで忘れたいほど嫌なものだったのだろうか。
俺は病院の安っぽいベッドで寝ている松葉の唇を触った。少し乾いて、皮がめくれているここは、酒と胃液の味がした。松葉からキスしてきた事実にたえきれず、舌まで絡めて味わった。
いつもそうしていたように寝ている松葉と唇を重ねる。まだ少しアルコール臭い。
あの時、朦朧としていたから古町と間違えたのだろう。そうとしか思えない。
キスの最中で松葉の唇が動く。
あっと思い、離れようとしたが、ベッドについていた手を掴まれた。
松葉の目が薄っすら開いている。力ない顔つきの割に、手には万力が宿ったように離れない。
「松葉……」
呼びかけると、いつものように睨みつけたりすることはなく、俺を見てただ口を動かした。
声はない。
酔ったように寝ぼけたようにとろりとした目で、静かに口を動かす。
もっと、と。
「っ馬鹿、誰と間違えてる」
そう声を上げると、松葉がやっと眉をひそめる。ほら、やっぱり。俺じゃない。俺をほしがるわけがない。
手を放すだろうと思った。昨日のように。それを待って、力の入った松葉の手を見つめる。
だが、松葉はいつまで待っても放さなかった。
振り払おうとしても手を放さない。
「間違えてない……」
手を掴んで引き離そうとしたところで、松葉が掠れた声で呟く。
「は?」
信じられない言葉が聞こえた気がした。
松葉の手の力が強くなる。
「間違えてない」
はっきりとそう伝えられ、なんの話をしていたのかわからなくなる。
寝ている松葉にキスをした。
目覚めた松葉にもっととせがまれた。
あり得ないからと、松葉を突き放した。誰かと間違えているんだろ、と……。
眉をひそめた松葉はどうしてか、俺に「間違ってない」と言う。
意味がわからない。
「間違えてないから……」
引き止めるようにゆっくり松葉の手から力が抜ける。逃げないでと言われている気がした。
俺はそんな松葉の手をさっさと振り切って病室を出た。
病室を出てスマホを出す。手が震えた。古町に連絡しようと思った。松葉の着替えや財布を持って来てもらうために。
だが通話をタップしかけてすぐにやめた。まだ朝の五時だ。今かけても無駄だろう。誰もいないロビーの長椅子に座り、頭を抱えた。もう少ししたら連絡する。もう少ししたら、もう少ししたら……。
ただひたすらそれだけを考えて、どれくらい時間が経ったかわからない。
不意に足音が聞こえた。足音だけで誰かわかる。薄暗い廊下をスリッパで歩いてくる音。少しふらつくのは、寝起きだからと知っている。
顔を上げずにいると、松葉は俺の隣に座った。
「帰っていいってさ」
「……勝手に帰ればいいだろ」
「俺の服、吐いたせいで汚れてるし。家から新しい服を持ってきてくれると助かるんだけど」
「ンなの、古町に頼めよ」
松葉は何も言わない。
その間が嫌で、顔を上げた。
松葉と目が合う。
「……中原」
乾いた温かい手が俺の腕を触る。
「やめろ」
「やめない」
ぐっと腕を掴まれた。
「手を離したら逃げるつもりだろ。マンションでもそうだった。病室でも」
「何がしたいんだよ、お前」
もうわけがわからなかった。
俺はレイプした。性器で穿たないまでも、同等のこと、いやそれ以上のことをした。
好かれないなら恨んでほしいという身勝手で松葉を傷つけた。
それを、どうして……。
「恨むには、いい思い出が多すぎる」
松葉はつぶやいて目を伏せた。
「お前に言われたこと、考えたくなくて、飲んだんだ。好かれていたなんて、考えもしなかった。……大学の頃、俺は寝て起きてお前がいると安心した。お前がかまってくれると嬉しかったし、これ以上の関係はないって思っていたんだ……」
「何が言いたいんだよ」
俺が望んでいた関係はまさに、大学時代のそれだった。一緒にいられて、時々飲んで、同じ朝を迎える。ちゃんと満足だった。あの時、俺は松葉の一番の親友だった。一番の恋人になれなくても、一番の親友でいられるなら、俺は松葉が誰と結婚しようが、友だちになろうが関係なかった。
それなのに。
「……怖かったんだ。お前との関係が変わるのが。怖くて、酒に逃げた。考えたくなくて。でも、飲んでもぐるぐるお前の言葉が頭の中で回って。お前は未咲を好きだから俺にこんなことしたんだって言い聞かせようとした。勝手だよな」
「結局、何だよ。俺の告白は信用ならないって言いたいのか」
マンションの玄関で、俺ははっきり告げたはずだった。
松葉はそれをなかったことにしたかったのだろうか。なかったことにしたいなら、どうしてキスをねだったりするのか。それこそ、悪趣味な意趣返しだ。
嫌だった。こんな話はしたくない。惨めだ。
「中原、佐伯さんは」
不意に出てきた名前にカッとなって松葉を突き飛ばした。
どうして今、佐伯なんかの名前を出すのかわからない。惨めを痛感している今、俺が一番聞きたくない名前だった。古町はいい。だって、古町は俺が欲しくても手に入れられないものを持っていた。松葉の子どもを産める体だ。産めなくても、少なくとも俺より自然に繋がることができる。
それに古町となら結婚しても、松葉は俺とは飲んでくれると思った。だって親友だった。一番の友だちだったからだ。繋がれない体だけど、たまに同じ朝を迎えることくらいは許されると思っていた。
「中原」
松葉の声は嫌に落ち着いていた。
「佐伯さんは上司だ。よくしてくれるから、無下にできなかった」
「ああ、俺のことはもうどうでもよかったんだろ。会社に入って、人間関係も変わったからな」
「違う。そうじゃない」
改めて言われなくても、松葉がそこまで薄情だとは思っていない。
ただ認めてしまうことが怖かった。底のない穴を見ているような気分になる。松葉がどうして、ここにいてくれるのかわからない。
「起きてから、ちゃんと考えた。今なら、少しだけだけどお前の思ってることがわかる気がする」
「わかりっこない」
虐待のせいで頭がおかしくなってやったと思いこんでいたくせに。俺の気持ちを無視して古町なんかを好きだと片付けようとしたくせに。
「ごめん」
俺の精一杯の拒絶を感じたからか松葉は謝った。
だけど、離れたりせず俺の手を握る。
「……俺は、今までずっとお前が隣りにいるだけで満たされていた。どうしてそんな気持ちになるのか考えもせず。お前にだけ甘えてきた」
松葉の指が俺の手の甲を撫でる。
優しい手つきだった。どうしようもなく、胸が締め付けられる。
「何にも気づこうとしなかった。俺が馬鹿だったんだ」
もう一度、ごめんと呟く。
まるで実感がない。夢の中の話に感じた。
それでも確かに触れられる松葉の手を握り返した。
「……着替え、持って来てやる」
震えそうになる声でそう伝えると肩に松葉の頭が乗った。
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