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第15話
◇・・◇・・◇・・◇
夕陽の差し込む放課後の教室。
窓の桟に腰掛けて沈む夕日をひたすら眺め、気が付けば自分以外誰もいなくなってしまっていた事に気が付いたのは、空に藍の色彩が混じり始めた頃合い。
そういえば記憶の片隅に、数分前まで残っていたクラスメイトの望月が今日中に提出の罰課題を終えたようで、「じゃあな~」と意気揚々と手を振って出て行った姿があった気がする。
まだ静輝は部活をやっている時間帯だ。俺が部屋に戻ってなくても問題はない。
そこで深く息を吐き出した。
一昨日の夜に静輝から言われた言葉が頭から離れず、静輝本人はおろか、御堂とも顔を合わせられずにいる。
明らかにこの状況から逃げているのはわかっているが、だからといっていつも通りに振る舞えと言われても無理だ。
なんでこんなに面倒臭い事になったのか。
可も無く不可も無い、まるでぬるま湯のようだった日常に、変化の前触れのような小さな波が立っている。その波を静めようとしても、もう無理だろう。波が大きくなり、全てを流しつくしてしまうまで平静は訪れない、そんな予感がする。
「…面倒くせぇ…」
誰もいない教室に、その呟きは妙に大きく響き渡った。
そして暫くしてから、教室を後にした。
文化部はもう終わったはずのこの時間、案の定、校舎内はシンと静まりかえっている。人気のないリノリウムの廊下を歩く自分の足音だけが耳につく。
わざわざ昇降口から一番遠い階段を選んだのは、部屋に戻るのを少しでも遅くしたいという情けない理由。
何やってんだ。
自分の行動に呆れながらも、足は気分に従って忠実に動き、昇降口から離れるように目的もなく彷徨う。
「あれ?斎?」
一階廊下の最後の曲がり角を越えた先、一番奥。その先にはもう資料室しかないと思い出して踵を返した途端、背にかけられた声。
振り向くと、声だけでもう誰か判明していた相手が資料室から出てきたところだった。
いつものようにホストにしか見えない容姿と、相変わらず怪しさが溢れている白衣姿。
養護教諭である渡辺が何故資料室から出てきたのか甚だ疑問ではあるが、わざわざそれを問い返す程に興味はない。それどころか、呼ばれて振り返ってしまった自分の迂闊さが苛立たしい。
舌打ちしたいのを堪え、渡辺を無視して歩き出すと、どんな速さで近づいてきたのか数メートルも進まない内に後ろから腕を取られてしまった。
外見優男の割に力が強いのは毎度の事。諦めて振り向くと、そこには嫌味な程にこやかに笑みを浮かべる渡辺の顔があった。
「呼んでいるのにどうして無視するのかな?斎君は」
「俺はアンタに用は無い」
「俺は用があるから呼びとめたの。…そんな自分勝手な子には少しお仕置きが必要だな」
ニヤリと笑んだ渡辺が、言い終えると同時に俺の体を押すようにグイっと迫ってきた。不意を突かれ蹈鞴(たたら)を踏むようにしてよろけた先、背に廊下の壁がぶつかる。シャツ越しに伝わるヒヤリとした冷たさが、背筋を震わせた。
周りに人の気配はなく、静まり返った夕暮れ時の廊下。
…なんだこの最悪な状況。
こんな事なら、うろつかず大人しく部屋に戻っていれば良かった、と後悔しても後の祭り。
渡辺の左手が俺の右肩を壁に押さえ付けているだけの為、振り払おうと思えば出来そうだ。…が、それをすれば火に油を注いでしまいそうで危なくて行動に移せない。
コイツなら間違いなく99%の確率で着火するだろう事がわかっているだけに、下手な抵抗は自分の首を絞める事になりかねない。
振り解きたいのに振り解けない、そんな葛藤と戦っている俺の内心など知りもしないだろう渡辺は、お互いの鼻先がぶつかる程に顔を寄せてきた。そして、少しだけ上の位置から見下ろすように視線を落としてくる。
見下ろされる程の身長差はないはずだが、渡辺の持つ威圧的な空気のせいか、やけに自分が小さくなったように感じる。
「…離せよ」
「御堂と面白い事になってるみたいだな」
「は?………っていうか、そうだ思い出した…。アンタ御堂さんに余計な事言っただろ」
「余計な事?…あぁ、あれか…。俺は事実しか言ってないけど?」
…コノヤロウ…。それが余計な事だって言ってんだ。
吐息さえ触れ合う距離でする会話は、何故かお互いに小声で、それが得も言われぬ密やかさを生み出す
こんなに間近で睨んでいるというのに、渡辺は全く気にも留めていないらしい。楽しそうに、そして底意地悪そうに笑っている。
「…とにかく、この手を離せ」
「イヤに決まっているだろう?」
「イヤ…って…、ガキみたいな事言ってんなよ」
溜息混じりにそう返した瞬間、何の前触れもなく、突然唇に渡辺のそれが触れた。
抵抗する間もなくすぐに離れた“触れるだけの口付け”に驚いて、咄嗟に文句の言葉も出てこない。
「…ア…ンタ…、何…やってんだ」
「ん?…この前の再現」
「…再現?……って、なんでそれ…っ…」
脳裏に蘇った、いつかの中庭での御堂とのやりとり。幼さを感じさせる軽いキス。
誰もいないと油断していたが、あれを知っているという事はきっと校舎の何処からか見ていたのだろう。
本当に趣味が悪い。悪すぎる。
怒りと恥ずかしさで顔が熱くなってきた。
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