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2.サイン
誰だコイツ。
その意志を載せた視線で見返す。
臙脂のネクタイだから一年だ。今日一日腐るほど一年の制服を見たが、こんな奴いたか?
デカいくせに軟弱ぽい。メガネのせいか? いや違う。ふやけた表情とおどおどした態度のせいだ。
「あっ、あの……っ、加賀谷さん、……ですよね」
同じ事をもう一度言う一年にイラッとした。黙ってるから聞こえてないとでも思ったか。
そもそも人に聞く前に自分が名乗れ。
そんな思いと共にため息が零れた。一年はビクッとして、一歩後ずさる。
泰史の目は切れ長で黒目が小さい。不機嫌になると視線が鋭くなるのだが、自覚はあまり無い。
両手を臍の前あたりで組んでモジモジしつつ、一年は眉尻下げてこっちを見下ろしてる。
「あ……の……」
おい、ビビりすぎだろ。
そう思ったことで、泰史から緊張が抜けた。
「誰だ」
とはいえ、いつものことだが言葉は最低限である。
「あっ!」
一年は素直にハッとして猫背気味だった背をピンと伸ばし、ニカッと笑った。
「俺、ヤスハラですっ! ヤスハライクヤって言いますっ!」
無駄に張った、ずいぶん通る声。
そして背筋を伸ばすと、一年はさらにデカかった。
やつは一歩二歩と近づいてきて、おずおずと両手を差し出す。無言でその手を見下ろし、顔まで見ようとして、途中で動きを止めた。
視線はやつの喉仏のあたりにロックオンだ。
近くに来ると、さらに身長差が顕著になり、顔を見ようと思えば見上げなければならない。そんな距離まで、この一年は勝手に近づいていた。
泰史の身長は百六十八センチ。
年齢的にまだ伸びるのではないかと期待はしているが、両親も祖父母もどちらかというと小柄。周囲の連中が、背がグングン伸びたとき背中や膝が痛んで死ぬかと思ったなどと言っているのを良く聞くけれど、そんな経験はゼロである。
身長は欲しい。できれば、あと十センチほど。
最も効率よく身体を動かすために必要なのは、重すぎない体重、研ぎ澄まされた筋肉。無駄に重い筋肉は必要ない。
だが若干の体重増加を考慮しても欲しいと思うのは手足の長さである。物理法則を流用しようと考えるなら、手足は長い方が有利だ。
……なのだが。
この一年間で伸びた身長はわずか一センチ五ミリ。
ムカつく。なんとなく、だが、
こいつムカつく。
顔上げてまで見てやる必要があるか?
ゆえに顎を引いたまま上目遣いに一年を見た。そうすると、いつもに増して目つきが悪くなる。慣れてる奴ならともかく、初対面だとこの顔でたいていビビる。
はずなのだが。
この一年は欠片もビビらず、気をつけ姿勢をキープしたまま、なぜだか満面の笑みで、しかも頬は少し赤らんでいるようだ。
(やっぱりムカつく、な)
「加賀谷さん、ですよねっ! 俺、ヤスハラですっ」
それはもう聞いた。
というか、意味が分からん。
なんでコイツ抜け出してんだ?
なんでこんなトコに来やがった?
なんでこんな図体デカいんだ?
なんでそこまで笑ってる?
……結論。
こいつはやっぱり、とにかくムカつく。
ひとりの時間にホッとしていた。きれいすぎる星を堪能し、らしくなく文学的な灌漑など抱いていた。それを邪魔しただけでもまずムカつくわけだが、それ以上にヘラヘラ笑いながら見下ろしてくるのが、なんというか、かなり。
(こいつ、……泣かしてやろうか)
くちや顔に出さないだけで、わりと頻繁にこういう衝動は起こっている。
だがこの高校では『ときどき顔怖いし喋んないけどイイ奴だよ』という評価を得ているので、表に出したことはない。そして衝動に負けたことも、一度も無い。
こんな一年ごときのために自分の不利益が明らかな行動をするような愚かさを露呈する気は無い。そういう馬鹿は心底軽蔑している。
なので泰史は上目遣いのまま言った。
「おまえ、座れ」
「えっ」
メガネ越しの目をキョドキョド泳がせつつ、しかし立ったままだ。
同じ事を二度言うのは嫌いだ。
だから泰史は唇を真一文字に結んだまま、地面を指さした。
「え、……」
ヤスハラは泰史を見て、指を見て、その先を見る。指しているのは二メートルほど離れた地面。
「あっ!」
ハッとしたようにまた背筋を伸ばし、回れ右して指したあたりへ移動すると、そこに体育座りした。
頬が赤くなってる。寒いのか? と思いつつ眼鏡顔を見下ろす。
よし。
満足してニヤッと笑うと、安原の顔はもっと赤くなった。
「用があるんだろう」
声をかけると、何故か耳まで真っ赤。火でも噴きそうな顔で「す、すみませんっ!」馬鹿に通る声を上げる。
「サイン下さいっ!」
「………………」
な、んだと?
無自覚に睨み付ける目になったが、ヤスハラはやめない。
「中学の、県大会でっ! 見てっ! それから、あの、ずっと……っ!」
真っ赤になって妙に通る声が怒鳴るようになってるが、体育座りしたままなので真剣味が足りない。
いや、座れと命じたのはコッチだが、なんとなく笑える。
「なんで、サイン下さいっ!」
「……どこに」
「えっ?」
「筆記用具は」
「あっ!」
慌てて立ち上がろうとするから、咄嗟に手を伸ばし「待て」と言い渡す。
その瞬間のまま、動きを止めたヤスハラを見下ろしつつ言った。
「座れ」
ポーッとしたような顔のまま、ゆっくり体育座りに戻ったのを見て、ひとつ頷いたら、また顔が赤くなった。
「あの、今持ってないけど、後で、その、戻ったら」
「黙れ」
黙った。
……面白い。
気分が良くなってきたので、さっき中断された星眺めに戻ろうと思う。
メガネに背を向け、目線を上げる。
天空とはまた違う星が、こんもりとした梢の上にも散らばっている。これも悪くない。
「……書いてやろうか」
そう言うと、「へっ!?」素っ頓狂な声が聞こえた。
「サインだ」
そんなもの書いたことないが。
「あっ! じゃあ戻ったらすぐ……」
「気が向いたらな」
「……き、気が……?」
声が裏返った。
どんな顔をしてるのかと振り返ると、呆けたような顔をして、なぜか近くまで来ていた。
動くのを許した覚えはないので少し不愉快になり、また星に目を向ける。
「あ……あの」
「向かないかも知れない」
「えっ!?」
またヘンな声を上げた。
おそらく呆けた顔をしているのだろう、と考えると少しスッとした。
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