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4.煩悩

 ジョギングの速度で、泰史は校舎の階段を駆け上った。  屋上まで出たら、腿にはイイ感じで乳酸が溜まっている。 (よし)  これで速筋トレーニングにもなった。納得がいったので、おもむろにストレッチを始める。  身体を動かす前と後のストレッチは重要なのだ。まずは下半身。状態を確認しつつ、丁寧に筋肉を伸ばしていく。  ふと上履きの足が目に入る。  目を上げると、安原がワクワクした赤い顔で、胸に色紙を抱いて立っていた。  思いっきり見下ろされているが、今はストレッチ中だ、致し方ない。そう考えて目を落とし、声をかける。 「座って良し」 「あっ」  せめて視線を下げさせるべきだった。 「……はいっ」  チラッと見ると、安原はおとなしく体育座りで待っている。  こういうとき、こいつはしつけの良い犬だ。ずっとこうなら悪くはない。  そんな風に思うのは自分らしくないとは思う。だがおそらく、この犬の目に誤魔化しようのない憧憬が宿っているように思え、気分が悪くないからなのだろう。     ◆ ◇ ◆  心臓バクバクで、汗めっちゃ出てる。いきなり屋上まで駆け上がったから、だけじゃない汗。  けど汗拭くなんてこのとき、思いもつかなかった。  なぜってそれどこじゃないから。目の前の尊い光景から目が離せないから。  俺、安原郁也はめちゃくちゃ興奮中。というかガン見中。  なにをって、そりゃもちろん崇拝するしかないこの人、つまり加賀谷泰史さんだ。  県内で三本の指に入る長距離ランナー。中学の頃からいずれオリンピック行くンじゃね? とかって噂もちきり。だけどそんだけじゃねえのよ。この人すげえんだマジで。  一学年上なだけとか信じらんねえ落ち着き。寡黙つうか冷静つうか。一人でいること多いけど、孤高って感じじゃねえ。だってわりと周りに人いるし、先生とかにも話しかけられたりしてるし。  つうかめっちゃ勉強出来るしスポーツ万能、そんで顔までカッコイイって! 出来過ぎっしょ!  けど崇拝してんのは、そんな理由じゃねえの!  加賀谷さんは、『神』! だからなのだ!!  屋上に上がると、速度を緩めつつ円を描くように走っている加賀谷さん。  落ちかけた太陽を背景に、神々しい程だ。  やがて少し離れたところで立ち止まる。つっても足は止まってなくて、その場で軽くジャンプ。手をブラブラ振りながら身体の力を抜いてる感じで、軽く、なのにけっこう高く飛んでるよね。さすがっス加賀谷さんっ  しなやかな動きで片方の膝を少し折り、残る脚をゆっくりと後ろへ伸ばす。  おお、アキレス腱伸ばしてるんすねっ! あ、その動きは脹ら脛のストレッチすか!  あああ、動きにつれて浮き上がる筋肉が、逆光の太陽に浮き上がるぅ~~~っ! めっちゃキレイだ~~~っ!  体勢を変え、加賀谷さんは太もももとか伸ばしてく。それからも下半身をあちこち、ゆっくり、ゆっくり、そしてじっくり。  浅黒い横顔は、ひどく真剣で。半眼になった眼差しは、まるで哲学者のように冷静で知的。  その目が開き、こっち見て……る、とか? うわあマジすか、超感激っス! 「座って良し」 「あっ」  俺に言ってる? 言ってるよねっ! 「はいっ」  すぐその場に座る。  加賀谷さんに話しかけられるの、交流合宿以降もちょくちょくあるけど、たいていこっち見ないで「黙れ」とか「待て」とかだけで、だからこんな風にコッチ見てくれるのって超レアじゃん!  目はすぐ逸れたけど、ワンチャンもっとしゃべれるかも、なんて期待に胸膨らみまくる。  すると加賀谷さんも、おもむろに屋上のコンクリートに座った。 (えっ、マジでワンチャン来た!? おしゃべりタイム!?)  とか思ったけど、彼はこっちに目もくれず、ゆっくり前屈に入った。 (ストレッチかぁ。てかうわあ……こんな近くで見れるなんて……)  がっかりどころか感激モードに入りつつ、(あ、そうだ!)制服のポケットを探る。今からでも撮らなきゃ。 (あれっ? なんでねえの?)  なのに携帯は入ってなかった! あーっ、そかっ! 鞄に入れっぱなしだったー! めっちゃやらかしたーー!! あああ、色紙持ってくるとき持って来るだろ普通っ! アホか俺っ! これ絶対ムービーでとっとくやつじゃん!  悔しさこみ上げつつ、もう目に焼き付けとくしかないからしっかり見る。  胸が脚に触れてるくらいなのに、指先はシューズの先端をしっかり包んでるのに、肘は柔らかく緩んで、上半身どこにも力が入っていないかのよう。  それでも肩に、背に、おのずと盛り上がる筋肉がある。けれど無骨な硬さなんて無くて、しなやかなラインを形づくり続いていく。肘、上腕、手首の尖り、骨張った手の甲、日に焼けて浅黒い肌の上をそよぐ産毛が、春の陽光を得て艶めく光を纏っている。  その腕に柔らかくまとわりつかれている脚は、筋肉質だがすんなりとして、シューズからのぞく(くるぶし)まで、マジでどこもここも尊い。 (なんてキレイなんだ…………)  郁也は、この人と出会ってから詩人になった。  もともと妄想多めだった自覚はある。けど、この人を見つけたとき、なんか降りてきた、つうか。自然に言葉が浮かぶつうか。  毎晩書いてる『加賀谷さんノート』には、気づくと礼賛の詩を書いてしまう。こんな才能あったか俺、なんて思うけど俺程度じゃ加賀谷さんの神々しさは表現しきれない。 (あ~、ワンチャン触りてえ。つうか舐めたりしてえ)  すると加賀谷さんは、なんと仰向けに寝転んだ! (えっ、なになにっ! マジでワンチャンいけるっ!?)  と思ったが、もちろんそんなことは無く、両腕を大の字みたいに広げて上半身を支えた加賀谷さんは、左脚を少し曲げて上げてから、下半身を捻るようにゆっくり右側に落としていく。  これは確か、大腿だったか臀部だったかのストレッチ。  そう、ストレッチしてるだけ。  そんだけ、なんだ。だけ、なんだって分かってんだけどっ! (ヤバいってコレ! だって!)  だって目の前でっ、わわわ足おっぴろげって! しかも脚上げて交差とかなにやって……いやいやいやいやストレッチなんだってばっ! (あられもないっ、じゃないって~~~っ! つかマジやばいって、ヤバすぎだって)  でも目に焼き付けとかなきゃだしっ! だから見てなきゃだしっ!! うああ鼻血出そうっ! 「おまえ、ヒマなのか」  エロいストレッチしながら言われたけど、今アタマん中と視界がめっちゃ忙しい! 「いえっ! い、忙しいですっ」  なんで怒鳴るみたいに返事したら 「うるさい」  眉寄せて怒られた。 「済みませんっ」  声小さくしたら囁くみたいになったけど。 「……忙しいなら、やるべきことをやれ」 「やってますっ」  めちゃくちゃ、やってる最中っす! あっ、またそんな、脚上げたりっ! ケツのライン丸見えじゃないすかっ! あああ股間が露わにっ!! うああちょい手伸ばしたら触れるよね? 触って良いのかな?  いやいやいやいやっ! 落ち着け俺、これストレッチだってのっ! 誘ってんじゃねえってのっ! うわマジやべえ~~~ 「……今、の話をしているんだが」 「今現在、加賀谷さんを超目に焼き付けてますっ!!」  焼き付けるだけにしなくちゃって、マジ必死っす! 「………………」 「だから超忙しいっす!!」 「………………」  加賀谷さんは喋らなくなった。

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