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5.犬の反撃

 やっぱり意味不明だ。  なので話しかけるより、ストレッチを優先させることにした。  のだが。  なぜか鼻息が荒い。ふーふーうるさい。集中を妨げる。  チラッと見ると、息が止まった。  静かになったので目を戻しストレッチを進める。  ともかく、ここへ誘導した当初の目的を果たさなければならない。つまり練習の邪魔をしないよう言い渡すのだ。  なので小さく息を吐いて、「おまえ」声かけた。 「は、はいっ」  すぐ返事が来るのは、とても良い。 「もう来るな」 「え」  声がして、1拍後。 「ええぇぇぇぇーーーっ!!! それって見たりとかもっ!?」  異常にデカい声が屋上に響く。ストレッチの妨げだが、致し方ないので続けながら言った。 「……うるさい」 「うそっ! じゃあ俺ワンチャン見てるのもダメっ! なんすかっ! うそっ! マジでっ」 「聞け」 「スかっ加賀谷さんっ!! 見るくらい良いじゃないスか~~~~っ!」  見るくらい問題ない。そうでは無い部分に問題があるのだ。 「落ち着け」 「あり得ね~っスよ、そんなん! じゃあ俺なんのために生きてんだか……っ!!」  おおげさな。  ともかく、聞く耳が無いようだと判断し、そっちを睨み付けた。 「黙れ」  大型犬が黙った。  が、目が潤んできてる。マジか、泣くのか、これくらいで。  ……面白い。 「おまえは馬鹿か」  思わずクッと笑ってしまい、動きを止めて身を起こした。  潤んだ目のまま真っ赤になってコクコク頷いた。が、「……ゥッ……」喉が詰まったような音を出すのみ。  ストレッチを中止してやってるのに、なんだその態度は。目つきは無自覚に鋭くなる。  すると犬は「あ」慌ててメガネの上に腕を上げ、目元を隠す。口元は歪んで震えていた。 「す、済みません、そうかもス。俺は馬鹿っス」  すっかり涙声になりつつ、メガネをずりあげた腕がグイグイ目を擦っている。  というか……そうか、馬鹿なのか。 「………………」  困った。  さっきはつい笑ってしまったが笑い事では無い。馬鹿に道理が通じるだろうか。  しかしトレーニングの邪魔はやめさせたい。どうするべきか。  困惑で泳いだ泰史の目に、コンクリの上に投げ出されている色紙が目に入った。 「…………サイン書けば良いのか」  そんなもの書いたこと無いが。気も乗らないが。  背に腹は変えられない。  すると目を擦ってた腕がゆっくり下がり、メガネがずれた状態のまま、目まで真っ赤になった顔が見える。 「え?」  イラッとする。同じ事を二度言わせようというのか。 「寄越せ」 「え?」  しかし背に腹は変えられないのだ。眉寄せつつ腕を伸ばす。 「色紙だ」 「え?」  なぜ聞き返す。イライラして無自覚に目つきが鋭くなる。  犬はハッとして色紙を拾って差し出した。伸ばした手で奪う。 「書くもの」 「はっ、はいっ!」  飛びつくようにサインペンを拾った犬が両手で差し出したので左手で取り、ため息混じりにキャップを外す。  ただ名前を書けば良いのか。  眉寄せながら書く。さすがに残るものだと思うと若干緊張した。  ……書いた。ただの名前だ。これで良いのだろうか。 「………………」  しかし他にどうしようも無いので、ずいっと差し返す。 「う……わぁ……」  メガネは戻っているが目まで真っ赤なまま、犬はおずおずと手を伸ばして両手で拝むように色紙を受け取った。 「わあ……」  口を半開きにしたままマジマジと眺めている。おい、ヨダレ落ちそうだぞ。あ、拭いた。  拭いた手をそのまま制服のズボンに擦りつけてる。汚い。 「ていうか加賀谷さん、もしかして初サインっすか」  だからどうした。  文句があるのか。 「そうなんスねっ! うわマジ感激っす!!」  嬉しそうだ。 「…………そうか」  ホッとした。  では本題に戻る。 「これで良いだろう」 「え? なにがっスか?」 「もう来るな。おまえうるさい」 「ええええええ~~~~~っ!?」  なんだ、またそれに戻るのか。  しかしトレーニングの邪魔は阻止しなければならない。話を聞かない状態は困る。 「黙れ」  ヒクッと喉から音を漏らして黙ると同時、犬は俯いた。 「……サインは書いた」  コクコク頷いているが、色紙を抱きしめてる手が小刻みに震えている。 「これ以上なにが望みだ」 「え、……っ」  くちをパクパクさせ、声が詰まる。また言語障害に陥っているのか。 「のっ、のぞみ……」  呟きながら色紙を持った両手を伸ばしてくる。 「なんだ。もう書いただろう」  すると、なんと犬は色紙を放った。せっかく書いてやったものを……! 「おまえ……」  カッとして声を漏らした次の瞬間、両手が二の腕をガシッと掴んだ。 「………………」 「うわあ……触っちゃった……」 「……なにを言ってる」  間近で見ると、目がなんだかおかしい。元々か? 「俺、ずっとこんな風に触りたくて」 「は?」  やっぱり意味不明だ。不明だが息がハアハアと異常に荒く、手は二の腕から胸や腹に移動している。 「だから、触らせてくれれば……」  腹筋を撫でる手首を掴んだが、もう片腕は背に周り、僧帽筋から三角筋、広背筋まで撫でている。  なんだこれは。 「なにをしている」 「触って、ます」  それは分かる。実際触られているから、言わなくても分かることだ。  聞きたいのは、そういうことでは無い。これはどう聞けば望む回答が返るのか。 「………………」  眉を寄せていたら掴んだ腕に引き寄せるような力が入る。  が、むろん不動。  安原程度の力で引かれたくらいで動くような鍛え方はしていない。すると逆にのしかかってきた。が、むろん安原程度の体重を支えられないことなど無いので動かない。  無いが意味が分からない。勝手に人の肩口に顎を載せて「くぅぅ~~」とか言ってる意味が、本気で分からない。 「だからなんだ」  言いたいことがあるなら声に出せ。 「すっ、好きです」 「………………」  それは分かっている。これだけつきまとわれ、ふやけた顔を見せられていれば、そうとう好かれているのだろう、ということくらい分かる。 「あっ、ていうか尊敬してます」  なるほど。だからサインが欲しかったのか。ならばなぜ、さっき投げた。 「いえ崇拝っす! むしろ神っす!」  そうなのか。ならばなぜ、トレーニングの邪魔をする。  というかいつまでくっついているつもりだ。  ……というかなぜ、ケツを揉んでいる。 「ああ……おいしいっす加賀谷さん……」  そしてなぜ、首を舐めてる。

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