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8.寝不足

 授業を終え、教科書を片付けているとあくびが出た。  寝不足なのだ。  怠さを感じている身体に舌打ちする。授業中に寝落ちしそうになるなど初めてだった。  未だ成長期にある今、身体を作ることにマイナス影響を及ぼすようなことをするのは愚かだ。ゆえに日々食事と睡眠は規則正しく過ごしている。つまり眠ることも大切な身体作りの一環だ。  ……だというのに。  昨日コーチが、苦笑と共にくちにした言葉。  『余裕』  『ゆとり』  そんなもの、今まで考えたことすら無かった。  いま出来ることを、すべて全力でやりきる。それが箱根に通じる道だと、固く信じてまっすぐ突き進んできた。そこに新たに与えられた課題は、ベクトルが百八十度違う、正反対だ。違い過ぎて軽いパニックが来て、ゆえに作夜はなかなか寝付けなかった。  あのコーチは長距離チーム六名を見ているのだが、あまり言葉を費やさないタイプで、感覚で伝えようとする部分が大きい。泰史が問いを向けると、いつも身振り手振りを交えながらヒントになるようなことを伝えてくれる。そう、結論では無く、ヒントなのだ。コーチは常に泰史自身が答えを出し、納得して進むことを求めてくる。  自主性を重んじてくれるこのやり方は、一から十まで指導して押し付けてくるようなタイプより自分に合っている。だからこの高校を選んだ部分もあるのだ。  眠れなかったのは新たな課題に対応出来ない自分自身に責がある。トレーニングを休むなどあり得ないが、怪我などしては本末転倒。今日は少し軽めのメニューにしようと、頭の中で組み立てていたら、またあくびが出た。 「お、眠そうじゃ~ん。珍しい」  肩をポンと叩いたのは、スポーツ科二年で最もくちと腰の軽い奥沢だ。 「………………」 「睨むなよ」  睨んでいない、と思いつつ、ため息を零す。 「あくびなんて珍しいじゃん。ゲームでもやってた?」  寮では隣の部屋だ。ゲーム機など持っていないのくらい知っているくせに、と思い、また出そうになったあくびを噛み殺しながら、教科書をしまったバッグを机の上に置いた。 「授業中も寝そうになってただろ。なぁ~に、どうしたよ?」 「なんだ、体調悪いのか」  同じ長距離の浜名が言ったので、顔を向け 「いや」  とだけ答える。 「そうか?」  頷き返すと、浜名は少し眉を寄せた。 「ならいいけど。なんかあるなら……」 「問題無い」 「そっか。……無理するなよ」 「行くぞ浜名」  声をかけられて、浜名は長距離チームの連中と教室を出て行った。 「ていうか最近、かっがやさぁーん君、めっちゃ写真とか撮ってるよな」 「………………」  チラッと目だけ向けると、奥沢はヘラヘラ笑っていた。 「俺もさあ、カッコいいとこ撮ってくれよって言ったんだけど、『済みません、俺、加賀谷さん以外見てないんで』とかニッカリ言っててさあ。おまえ知ってた? めちゃんこ嬉しそうに顔真っ赤にしてさ。可愛いよなあ」  もちろん、写真だの動画だの撮られているのは分かっている。練習が終わると見せに来るのだ。 「あそこまで好かれたら、さすがにおまえも悪い気しないだろ」  無闇に触れるのは禁止したが、必要以上に接近し鼻息を荒くして、ここがイイだのカミだのと謎な発言を連呼している。  それには若干引くが、画像は確かに有用だった。客観的に自分の動きを見ることで、改善すべき課題が見えてくるように思っている。 「おい、黙ってんなよ無視すんな。あ~、もしかして照れてんの? なになにツンデレ? 分かりにっく!」  からかってるのが明らかな声で言われても答える必要を感じないので、席を立ち、黙々と制服のジャケットを着る。 「お~い、なんか言えよ~」  奥沢の声がかかったが、 (なにを言えというのだ)  と思いつつチラッと目だけ向け、教室を出た。口の重さは一朝一夕に改善されない。 「ていうか」  ため息混じりの声が、すぐ後ろから聞こえる。 「おまえちょっとさあ、周り見てみろよぉ」 (なんのことだ)  無自覚に目が鋭くなったが、振り向きもせず、階段を駆け下りる。 「長距離メンバーでミーティングとかすんだろ?」  しかし、いつも通りのヘラヘラした声は、しつこく追って来た。 「おまえなんも言わないでムスーッとしてるんだって? 広瀬がさ、感じ悪いって言ってたよ?」  ノリは軽いが、奥沢はなにげに人を見ているので、鋭いことをヘラッと言ったりする。トレーニングにも真摯で、結果に繋げようと深く考え、実行する男だ。  だからみんな奥沢を軽んじはしない。 「意見聞いても黙って無視するんだってな? 浜名はかばってたけどさ」  浜名は自分と同じく駅伝目指してる男だ。広瀬はマラソンメインで、理論をくちにすることが多い。こっちにも意見を求めてくるのだが、たいていそれは違う、と思い、しかし、どう言えば良いか分からず、結果なにも言わずに終わる。  勝手なことを言う。すぐに返せるようなら苦労はしないのだ。  苛立ちと共に靴を履き替え、校舎を出た。

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