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20.リカバリーとは

 一方、寮で入浴を終えた加賀谷泰史は、再び部屋へ訪れたコーチにこの一週間蓄積していたデータをチャート化したものを見せられていた。 「………………」  息を呑み、眉根に深い皺を刻む泰史を、横目で見ながらコーチはニヤリと笑う。 「驚いたか? 俺は予測してた結果だよ」 「……」  問う目を向けられたコーチは前回、前々回のデータも並べて見せた。 「前と同じトレーニング法に戻したにもかかわらず、先週、上がっていた数値が継続している。これはなにを現す?」 「……数値の上昇はトレーニングの結果では無かった」  呟くと、コーチは満足げに頷いている。 「そういうことだな。じゃあ、もうひとつ。先々週と先週、なにが変化した?」  問われた泰史は、ますます眉間の皺を深めて考える。  定時に起床、朝トレ、食事、登校、授業後はトレーニング。  寮に戻り、食事、入浴、就寝。睡眠時間も……  そうだ、なにも変わっていない。そう自分に確かめる。 「……なにも」  しかしコーチは探るような目で続けた。 「そうか? ちょうど交流合宿の後くらいだ。なにも変わってないか?」 「無いです」  泰史は眉寄せたままキッパリと否定した。 「俺には大きな変化があったように見えてたんだが」  待て。……交流合宿……? 「無いか? 変わったことは」  ああ、そうか。 「……あいつ、ですか」  意味不明な一年。うるさい犬。交流合宿で唐突に現れ、意味不明な言動を重ね……。 「そうだよ。安原くん」  しかし大きな変化と言うほどのことでは無いだろう。若干メニューの合理化はしたが、基本的な行動に変化はない。では、練習メニューが数値に影響したのでは無いのだとしたら、いったいなにが。 「彼の影響は、全く受けてない?」  自分の行動は変化していない……か?  していない。 「メンタルは?」 「無いです」  あの犬など、居ようが居まいが、常に苛立ちはある。確かにイライラすることは増えたが、しかし……影響などというものは 「う~ん、自覚無いか。だがなあ、加賀谷。彼が来るようになって、おまえ変わったよ?」  どこが、と言う思いが視線を険しくしていたが、泰史は自問する時もこうなるのでコーチは慣れっこである。 「この間俺が言った、余裕を持つっての、あれから考えたか?」  考えていなかった。それどころでは無かったからだ。  あの時、なぜかあいつがフォームの解析などできるらしいと知り驚いた。そして利用するべきか、考えはじめていた。  考え事に陥ると、他に意識が向かなくなるのが自分だ。それが悪いと思ったことはない。むしろ集中力があるのだと思っている。  だがあの時、それが僅かな隙となった可能性はある。その隙につけいろうとしたあいつは、コッチが真剣に考え込んでいるのをいいことに、抱きついてキスしたり、好きだと言ったりしやがった。それで色々どこかに吹き飛んだ。  そうだ、そういえば余裕がどうとかいう話は忘れていた。  しかし……。 「考えて、……いた」 「なにを?」 「あいつをどうしてやるかと」  あの犬に利用価値があるなら、どうするのがベストなのか。  どうやら自分のことを崇拝しているようなのに、言うことを聞くわけでもない。ならば、どうすればうまく利用出来るものか。……考えても分からなかった。  そもそも、やつがなにを考えているか不明なのだ。問いかけてみたのだが、返る答えが意味不明すぎて、とっかかりすら掴めず苛立つばかり。そどころか、あっさり陸上部に入り込んで、自分より親しい口をきいているのを見て、愕然としなかったか。  自分はまだ、彼らと友人と呼べるような間柄では無かったのだ、自分などよりあいつの方が、よっぽど友人らしいではないか。 「……自分には、足りないものが」  以前から分かってはいた。コミュニケーション能力が足りないということは。  だがさほど重要と考えていなかった。重要なのは箱根に行くこと。強いランナーになること。それでも……友人が出来たような気はしていた。  焦りも感じた。……奥沢、浜名、広瀬、他にも……周囲の連中を見て、学ぼうとしていたのではないか? 「まあ、落ち込むな」  笑う声で言いながら肩を叩かれ、睨み返していた。この気持ちが『落ち込む』と呼ぶものか、という驚きが、目つきを鋭くしているのだが、もちろん自覚は無い。 「あの時は、余裕と言ったがな、カッコいいことしろと言いたかったわけじゃないんだ。緩み、と言った方が分かりやすかったかな」 「緩み……?」  眉間の皺も凄まじく、問い返した泰史に、コーチは微笑んで肩を叩く。 「以前のおまえに無かったそれが、彼と出会ってから産まれた。つまりだな、弓を引き絞ったなら矢を放たなければならないだろう。けれど矢を放つのが今でないなら、弦を緩めなければならない。張り詰めたままでいれば、弦は伸びきって弾性を失い、いずれ切れてしまう」  意味は分かる、なにを示唆しているのかも。自分は張り詰めていると言いたいのだろうが、そんな自覚は無い。 「何度も話しあったよな? どうすれば理想的な身体を作れるか。まず徹底的にタフなトレーニングをする、そして筋肉が成長するのは」 「……リカバリー……」  にらみ据えるような目で、しかし呆然と呟いた泰史に、コーチはニッと笑いかけた。 「そう。適正な休息こそが筋肉を成長させる。お前ら成長期なんだから、なおさらリカバリータイムは重要だ。それは、メンタル面でもな」 「メンタルが弱いと?」  それは心外だった。固い信念でここまで来たのだ。ゆえに、眼光はますます鋭くなる。 「そうじゃない。メンタル面でも緩みが必要って事だ」 「…………」  意味が分からない。 「安原君が来ると、おまえ、気が緩むだろう」 「…………」  緩むわけではない。  呆れてまともに対応する気が失せるだけだ。 「そういう緩みが、この数値の上昇に繋がった。おまえは迷いが無さ過ぎなんだよ。まっすぐ行くのが近道だと思ってんだろ。そりゃ、間違っちゃいないんだが……。俺が言いたかったのは、トレーニング法の問題じゃ無いって事、それだけだ」

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