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第8話
「…それなら、一緒にいなくても…よかっただろ?…どうして今まで、こんな…」
「嫌い、ってだけではないかもな。可愛さ余っての反対で、憎さ余ってってやつ?嫌いすぎて、付き合ってる彼女よりも、他の誰よりも、いつもお前のことばっかり考えて、頭を離れなかった。お前のことばっかり見て、気をひいて、そばにいて嫌なところあげつらって、お前が俺のこと好きなの知っててたっぷり優越感に浸ってた」
泣きそうで、涙は乾いて出なかった。鼓動は止まりそうで、ちゃんと動いていた。どうやって息をするのか忘れてしまったのと同時に、心で何かを感じることも忘れてしまったようだった。
「むしろこれって、大好きだったって言うのかな?お前と同じくらいの気持ちでお前のこと想ってたわけだから。好きだよ、志生」
時が止まる、心が凍る、現実を知れば形容なんて何てことない。もっとひどい気分を味わった。ずっと欲しかった言葉を聞いた今も、だからこそ、人生最低な気分だった。こんな言葉を欲しがっていたなんて、馬鹿みたいだ。
「……なんで…」
「仕事手伝ったりとか、飯誘ったりとか、ちょっとしたことでお前喜ぶし、いやそれどころかさ、俺が話しかけただけですっごい嬉しそうな顔するし。その辺の女より全然反応いいんだよ。それに面倒くさくもない。都合も合わせてくれて、頼みごとも嫌な顔ひとつせず聞いてくれて、俺のこと好きだ、大事だ、って全身で言ってただろ。女の話したらあからさまに、いじけた子犬みたいな可愛い顔するし、楽しくて仕方なかったよ」
確かにそうだ。全部知られていて、今日の事さえ優越感を満たす材料にしかならなかった。気持ちは伝わらなくても友達としては一番近くにいるなんて、思い違いも甚だしい。その心に触れることなど一度もなかったのに。
「…違う。そんなこと知りたいんじゃない。なんで、俺のこと…嫌い、なのか…」
「あぁ。お前が何でも簡単に手に入れていくから。大学、就職、仕事、俺はいつも必死だった。上司に取り入るのも、人に気に入られるのも、仕事で認められるのも、全部死に物狂いで本気でやってる。お前全く気づかなかっただろ。そいういうとこが嫌いなんだよ。ぼやーっとしてるお前が人の評価も仕事も結果も俺以上のものを手に入れるのが気に入らなかったんだ」
呆気にとられ、一言も返すことができない。
「面接室で会った時からお前、欲なんてありませんって顔して、なんでもないみたいにしれーっとなんでもこなした。あの時大学の先輩から聞いたっていう今会社が一番に推してる事業について、初めて会った俺にベラベラ喋っただろ。余裕ぶった嫌なやつだなってムカついた」
「そんな、ことで…?」
ますます何を言っているのかわからなくなった。
何でも持っているのは三森の方で、自分が勝てるところなんて何もないと思っていた。根が真面目なのは自分でも知っていて、他にやり方を知らなくて、そういうところを認めてくれる人はいる。それでもきらきらと輝いているのは三森で、自分は引き立て役か何かだと思っていた。
「ほらな、お前にとっては『そんなこと』なんだよ。お前が唯一執着を見せるのが俺だったから、つい煽られた」
さっき自分の性器を握り込んだ手をひらりと見せた。
「八年間も気づかなくて、ごめん。そんな風に思ってたなんて、知らなかった。そんなつもり、なかった。俺といて、最後に今日はいい気分になれた?」
辛うじて言葉を絞り出しながら、笑いたくなった。最後は本当に変な顔で笑っていたかもしれない。何て茶番を八年も続けていたんだろう。呆れ果てて、涙なんて一粒も出なかった。
どこをどう歩いてホテルにたどり着き、どうやって男を呼んだのか、全ての記憶はぼんやりとしている。一瞬、途中で歩道橋から飛び降りようかと思った。そしたら三森はどんな顔するかなって考えた。あいつは一生俺のことを忘れられないだろう、多分。そう思ったら、嫌になった。
全て、何もかもを忘れて欲しかった。最低な痴態を、共通の記憶を、押し付け続けた気持ちを、全部全部忘れて欲しかった。
三森が言ったことは志生には受け入れ難かった。でも同時に受け入れなくてはいけないと思った。全部なしにしたかった。同時に全部を自分のものにしなくてはいけないと思った。
受け入れた上で、三森に与えられた体の感触を、心のぬめりを、すべて新しく塗り替えたかった。体はやけにだるく感じたけれど、とにかく誰かに触れて欲しかった。痛みを上から塗り込めてくれるなら、どんな手でも、自分と三森の手以外ならよかった。
その日志生は、初めて男を買った。
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