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第9話
その後も三森とは会社で顔を合わせたけれど、もちろん表向きはなんでもないふりをしていた。完全になど隠し通せていなくて、周囲に気を遣われているのは知っている。
一週間後に三森がシンガポールへの転勤が内々に決まっていることを人づてに聞いた。腐れ縁もおしまいだと知っていてあんな大胆な行動に出たのだ。偽りばかりの八年間のラストを飾るにふさわしく、惨めで滑稽な結末だと思った。
誕生日に起こった人生最低な出来事を話したのは、この男が俺の人生に関わりのない見知らぬ男だったからだ。事を終えてシャワーを済ませ、男は断ってからタバコに火をつけた。知った香りが部屋に漂う。
「君をあいつの代わりにしたんだ。すまない」
煙が勢いよく吐き出され、突然男が笑い出したからびっくりした。それほどその笑いは今の状況を超えて自然で、唐突で、本気だった。
「今の話、笑うところあった?」
「あぁ、ごめんなさい。志生さんって真面目で馬鹿ですね」
「馬鹿?いや、本当に馬鹿だと自分でも思うけど…」
「ふふっ、ごめんなさい。八年越しの片思いが最低に終わってウリ専代わりに抱いて憂さ晴らししたって本人どころか、誰にも責められるところなんてないし、謝る必要もないんですよ。これは正当なサービスですから」
ずけずけという割には表情は穏やかで、声に嫌味は微塵も感じられない。初めてこの男の本当の顔を見た気がした。
「志生さんがまずしなくちゃいけないのは、俺に謝ることじゃなくて、その相手に怒ることです」
「怒る?なんで?」
怒りという感情は自分に対してしか湧かなかった。辛い恋に浸りきって、自己憐憫に酔って、一喜一憂していた自分に。男が言うことの意図は全く掴めなくて戸惑う。三森が嫌っていたのも、こういう人の気持ちを全く理解できないところだったのかもしれない。
「だって彼は八年間も志生さんに失礼なことしてきたんですから」
「それは俺が全然気付かなかったから」
「どうしようもないですね」
男は呆れたように笑ったけれど、腹が立ったり、傷ついたりはしなかった。どちらかというと会って間もない、お金で買った男とこんな話をしていることを不思議に思った。三十にもなって幼稚な失恋話を始めたのは自分なのに、世間話として当たり障りなく流されなかったことに驚いている。
抱き合ったり、舌を絡めたりしていた時とは違う顔をする男をじっと見つめる。親密な空気が漂い、思わず首の後ろに手を伸ばしそうになって思い留まる。触れてもいい時間は過ぎている。やんわりとでも拒否されたら居た堪れない。
「彼は本当に志生さんが羨ましかったんだと思いますよ。きっと志生さん、仕事もできて、信用できる人に囲まれてるんでしょう。それをひけらかすこともなくていつも自然体で、それからまっすぐすぎて周りが見えないくらい誰かに恋してて。彼女のこと言われたのも、勘に触ったんじゃないですか?だからって人にそういうことしちゃいけないんです。それから、気持ちを一方的に踏み躙られたら人は怒らないといけないんです。…まぁいいや。志生さん馬鹿だからしばらくわからないと思う」
べらべらと男が喋る内容にぴんとこなくて、やっぱり自分は馬鹿なのかなと思う。三森に言われたことには死にたくなるほどひどく傷ついた。だからと言って、捧げた心の一番綺麗なところにナイフを入れられたと感じるような、一方的な被害者になるのも嫌だった。
ちゃんと受け入れたくて、全部なくしてしまいたくての繰り返しで、それでも怒りという感情は湧かない。未だあの時の気持ちは薄れず、だから目の前の男を抱いている。
「提案なんですけど、延長しませんか?」
口調も表情も今までとは違い、親しげに話しかけてくる男に目が釘付けになった。マジシャンが種も仕掛けもありませんからよく見てくださいと言うような顔をしていた。
「俺、実はほんとはノンケで、この仕事始めてから初めてネコやったんですよ。初めてっていうのもあると思うんだけど、やってみるとセックスってネコの方が相手の気持ちを感じやすいんです。自分の中に相手を受け入れるわけですから」
「話が見えない。それって、俺にネコやれって言ってる?」
「その通りです。抱かれてみませんか?俺が志生さんのことすっごく愛してあげますから、その後でお前のこと利用しただけだって、嫌いだって、俺のことこっぴどくフってください」
「で?」
「同じことやってみたらどういうことか分かるかと思って」
「………君って意外に面白いこと言うね」
「いやいやいや、俺だって普通お客様にこんなこと言いませんよ。志生さんが馬鹿なこと言い始めるからです。騙されたと思って試してみませんか。俺、ちょうど今日でこの仕事辞めようと思ってたんですよ。ネコやってると人の気持ちが伝わりすぎて嫌になってきてたんです。俺ネコの方がウケがいいし、これじゃ向いてないなって。志生さんに抱かれてる時も、相手の男は愛されてるなぁってすごく感じてましたよ。だから、志生さんから受け取った愛を感じさせてあげます」
にっこりと正確な笑みには胡散臭さが漂っていた。男の提案も筋が通っているのかめちゃくちゃなのかも判断できなかった。それでも、男の言葉に惹かれているのは瞭然たる事実だった。よく分からないものに流されたかった。
「ほら、ネコやってみたくなったでしょ」
もう一度、誘うような笑顔を見せる。
初体験は高校二年の夏、ひとつ年上の先輩と。そのあと何度となくその行為をしていても、後ろを使ったことは一度もない。この八年においては誰とも寝たことすらなかった。それでいきなり抱かれる立場になるとか全く今の状況が理解できない。
だいたい、偽りのセックスの後でフルなんて、そんなことをして意味があるのか。志生を見る男の目は、あの日の三森と同じ俺をからかう目なのか、本気なのかわからない。
八年間の付き合いの男に痛い目に遭ったばかりなのに、ウリ専の男に『愛してあげるから』なんて言われて人生初めて抱かれようとするなんて、どうかしている。ただ、相手を知らない分、騙されたってダメージは少ないはずだ。
「わかった。延長一泊で」
「ありがとうございます」
財布から出した現金を男が受け取る時、やっぱり細くて綺麗な指をしていると思った。こんなネゴシエーションを毎回やっているとは思わないが、どうもうまく言いくるめられた気もする。
でも三十代になって初めて、ちょっとだけ気分が軽くなった。たとえ目の前の男が今日どうしても仕事が欲しかっただけだとしても、思わぬ展開は悪くないと思った。今日のように、続いていく人生に思ってもいなかったおかしなことが起こる日が、また来るんじゃないかと思えた。
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