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第16話

 目が覚めたら隣にあどけない男の寝顔があって、びっくりした。あぁ、こいつに抱かれたんだっけと、どうでもよく思い出した。  やっぱり人生で起こる大抵のことは大したことないのかもしれない。でもきっと、三森との出来事と同じレベルで忘れられないだろうなと思った。ただ数回体を重ねただけの男のことを。  そしてもう会わないのだろうと、無防備な寝顔を見つめながら思った。肩にうっすらと残る歯型をそっと指で辿る。  男の瞼が少しだけ上がって目が合った。 「あぁ、寝ちゃった。体、大丈夫ですか?初めてなのに、無理させちゃったかも」 「腰が重い……」  労わる風もなく男が小さく息を吐いて笑う。枕に頭を載せたまま、至近距離で顔を合わせるのはなんだか照れくさい。何度も合わせた唇にも、もう触れることはない。薄く目を開けた男が、こちらに手を伸ばしてきてどきりとする。 「後ろから突かれながら、あなたの顔見ながら抱いてみたいなって、思ってたんですよね。嫌いとか言いながら泣いて縋ってくるの、すごくよかったです」  前髪を指で柔らかく流しながら言われて、やっぱり本当に仕返しだったのかもしれないと思った。 「はぁ?それ以上言ったらベッドから蹴り落とす」  男は全く動じず、眠た気な動きでゆっくりと髪に触れていた。 「もう朝だよ。一泊の時間過ぎてんじゃないの?超過は払わないよ」  触れる手は案外気持ちいいと思っているのにわざと素っ気無く言ってやる。 「いいです。まだ、眠たいから……チェクアウトまで時間ありますよね」  それが客に対する態度か。そう思いながら髪を撫でてくる男の顔を微睡みの中で不思議な気持ちで見た。若くてそこそこ綺麗で裸ですぐそばにいるのに、近いようで遠い。 「…俺の愛、伝わりました?」  細い腕で薄っぺらい男の胸に柔らかく抱き寄せられて、これじゃ恋人を宥めてるみたいだと思った。それでもねっとりと纏う疲れに全てがどうでも良くなってそのまま目を閉じる。 「あんなの演技だろ。お前なんか、嫌いだよ」  ふふっと笑ったから男の胸が揺れて、押し付けられた額に伝わった。それ以上何もする気もなく男は眠っているようだった。馴れ合うほど知った仲でもないのに寝ぼけているのだろうと思って、肌を触れ合わせたままでいた。もう一度ふっと眠気に襲われた時、男の小さな声を聞いた。 「次に行く理由なんて、なんでもいいじゃないですか」  肩を抱かれ足を絡め合って、男の寝息を聞きながら深く眠りに落ちた。  チェックアウト前に目を覚まし、別々にシャワーを浴びて備え付けのコーヒーを言葉少なに飲んだ。男はいつも通り礼儀正しく断ってからタバコに火をつける。礼儀正しいウリ専の男は事の後に客の前でタバコなど吸わないのだろうけれど。  タバコの匂いは単純にその匂いを漂わせるだけで、もう胸は痛まなかった。オプション代はいらないと言った男に、チップとして紙幣を一枚渡すとお金で買った時間は終わったのだと実感した。  * * *  三森の送別会の幹事をやらされるとか、最後まで皮肉だと感じながら、辛いと思うことは何もない。 「栄転おめでとう。向こう行っても元気でな」  次々に人に囲まれ愛想を振りまく男を見て、三森という人間をもう理想化はしていないけれど、それでも眩しいと思った。  気持ちが重ならないまま一緒にい続けた八年間を虚しく感じたが、やっぱり三森に対して怒りの感情を持つことはできなかった。むしろ、たったあれだけのことで死にたくなるほど突き落とされる自分は、今まで幸せだったのだという結論に落ち着いた。騙されることとも憎まれることとも縁遠い、三森に嫉妬されるにふさわしい、お気楽で幸せな人間だったのだと。  初めて抱かれるという経験をした後、『また馬鹿だって言うんだろ』と、軽い気持ちでそんなことを男に話したら、返された言葉を思い出す。 『たった一人に全部持っていかれるような恋って素敵だけど、それじゃだめです。ひとりに否定されただけで死にたくなっちゃう。自分を誰かに委ねたり、痛みに鈍感になっちゃだめなんですよ、あなたみたいな人。あ、俺が言うことなんて大抵適当ですから。一時肌を合わせるだけの関係だし』  自分から三森に落ちていったことが今ならわかる。ちゃんと見ればどこかにほころびがあったかもしれないのに、都合のいい部分ばかりを見て自分の気持ちに溺れ、盲目的に恋をした代償は大きかった。全部がマイナスにひっくり返って、なにひとつ残らなかった。  ただ、もう全部が終わったことで、これ以上終わったことに執着しても何もないのだと思い知った。それだけのために、男を買った。去年の誕生日の切実さを思い出すと情けないと思うと同時に、他に選択肢などなかったと思う。あの時は『どうしてもそうしなくてはいけない』と思ったのだから。  三森が言う通り、嫌いという感情だけではなかったはずだ。屈折した愛憎と執着のようなもの。成人して大きくなった体にスーツを合わせても、ふたりは子供のように接し合っていた。離れた場所で三森の姿を眺めながら思い、少し口元が緩む。  幹事として一杯くらいは注いでやろうと近寄った。ビール瓶を傾けながら最後になるだろうひと言をかけると、グラスが揺れて溢れた液体が三森の品のいいスーツを濡らした。色が変わった部分におしぼりを当ててやる。 『やっぱりお前、俺のこと好きだっただろ。俺も好きだったよ』  多分自分は、どこまでも馬鹿だ。三森が驚いた顔でこちらを見ているのには気づいていたけれど、目は合わせなかった。取り乱したりなどしていない自分の顔が三森の記憶にだけ残ればいいと思った。

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